ぱきっと音を立てて、一つであった物が二つに分かたれた。均等に二分割ではなく、一方に偏りのある、いびつな割れ方だった。隣に座る男の手元をちらりと一瞥し、皆守が低く呟く。

「下手くそ」
「うっせぇ」
「なんで捻るんだ」
「その方が割りやすいだろ」
「左右に均一に力を加えるんだ」
「どうでもいいだろ」

そう言って、コンビニで仕入れたおでんの大根に、葉佩はいびつな割り箸を突き刺した。そのような使い方をするのなら、割る必要も無かったのではないか。握り箸でおでんを口に運ぶ葉佩を見ながら、ぼんやりと考える。汁は要らないと店員に注文を付けたので、カップの中には固体しか存在してない。葉佩が大根を食べ終え、今度は玉子に取り掛かった。
 無言で咀嚼する横顔を視界の端で凝視しつつ、うまいか、と問うてみる。うん、と簡潔な肯定が返った。そうして、ふと思い出す。葉佩が人間の食物を口に入れて「まずい」と言った例は無い。愚問だった、と胸中で反省し、吐き出した煙を眺める。

「お前、嫌いな物ってあるのか?」
「あるよ」
「たとえば?」
「撃たれるのとか、蹴られるのとか」
「他には?」
「ええと、刺されるのとか」
「痛覚を刺激する、及びそれを喚起させる事例以外で」
「ん、飯食ってる横で芳香剤の匂いを撒き散らされる、とか」
「・・・」

 空に混じった芳香の粒子を想像し、希釈された安らかな夢を追想する。はんぺんを口に含んだ葉佩は、自分の手元を見ていた。その視線が、真っ直ぐに皆守を貫いた瞬間が確かにあった。それはつい数分前の事でもあるのだが、皆守は時々信じられなくなる。本当にその目は自分を映しているのか、と、理解不能な回路が詰まったその頭を掴んで揺さ振りたくなる。

 日中は暖かくなってきたとはいえ、まだ大気は未練がましく冬の気配を抱き続けている。そんな季節だった。唐突に現れ、皆守の存在理由を根源からぶち壊し、そうしてまたなんの前置きも無く姿を消した《宝探し屋》。その葉佩が、やはり唐突に皆守の前に現れた。卒業まで、あと数週間を残す、という日だった。
 数ヶ月ぶりに見た顔は、皆守を見て嬉しそうに笑みを作り、そのまま平凡な再会の言葉すら無く皆守を外に誘い出した。緩やかな歩調で冬枯れの公園を歩き、見付けたコンビニの前で「おでん食べたい」と呟き、皆守の意見など聞かず望みの物を正当な手段で購入した。皆守はその後姿をぼんやりと視界に入れながら、あの瞳に真正面から見詰められた夜を思い出していた。
 覚悟と諦観と、少しばかりの希望と、灼熱のような快感。欲していたのはこの瞬間だったのだと、心の隅で叫んだ。これまでの事も、これからの事も無く、ただ自分という最小単位の存在が浅ましく悦びに震えた。全てだと思っていた副会長としての立場も、目の前の男を殺した後の事も、沸騰した脳は綺麗さっぱり忘れた。
 見詰めて、見詰められている。きっと彼も同じ色の心でいる。即ち、完全なる赤。
 生きる為ではなく、殺す為でもなく、ただ心身の欲するままに武器を振るった。












 追憶に気を取られた皆守に、葉佩は怪訝な表情を向けていた。空になった容器を弄びながら、皆守が現実に戻ってくるのを待つ。組んだ足に肘を乗せ、その手の平の上に頬を乗せた体勢のまま、皆守は微動だにしない。眠たげながらも目を開いている事から、眠っているのではないと知れた。時折、皆守はそのような状態になる。無意識か意識的かは判じかねるが、ただ精神だけを現実から切り離し、全ての外的刺激を遮断する。孤高を気取るでもなく、物思いに沈むでもなく、一人で誰にも届かない場所にふと行ってしまうのだ。
 名を呼ぶ。漸く浮上した皆守が、眠たげな眼差しを返した。

「なんだ、もう食べ終わったのか」
「終わったよ」
「お前、何しに来たんだ?」
「えーと、まあ、あの、ね」
「ね、じゃねぇよ」
「うん、あのね、だからさぁ」
「あーなんか眠くなってきた」
「え!待って寝ないで!」
「此処では寝ない」

そう言って立ち上がった皆守が、言葉どおり眠そうな動作で歩き出した。ゆらゆらと揺れながら歩く姿は、昼間から酔っ払っているようにも見える。まあ似たようなものか、と胸中で呟いて、葉佩はその背中を追った。
 無防備に晒される背中が、あの夜は幻だったのだと告げているようで、少しだけ寂しい。こっそりと拳を握る。忘我にまで至った狂気の夜が懐かしい。あれは侵入者と墓守の戦いなどではなく、ただ満たされぬ個がその嘆きを慰め合っただけだと、今でも信じている。持てる全てを限界まで引き出し、思想も信念も無く、ただ無心に自分を曝け出した。少なくとも、葉佩はそうだった。気持ちよかったなぁ、と、浮いた頭で思い出す。同時に、穏やかな空気が痛いほど心地好い。

「皆守ー」
「んー?」
「卒業したら、どうすんの?」
「あー」
「あーじゃなくってさぁ」
「進学」
「え!学校、まだ行くの?」
「受かったからな」
「えええ!間違ってる!日本の教育制度は間違ってる!」
「受験勉強とか、した憶え無いんだがな」
「だろーね」
「なんで受かったのか、俺にも分からん」
「全国の受験生に謝れ」
「すまん受験生」
「心がこもってない!」
「お前は全ての社会人に謝れ」
「ごめん社会人」
「誠意の欠片も感じられない」

空虚な言葉を交わしつつ、足は着実にその場所に向かっている。其処に着いたら皆守は寝る気だ。そうしたら、葉佩の目的はきっと果たされない。寝顔を見てしまったら、多分もう駄目だ。いっそ憎まれ口でも叩いてくれたら良かったのに。そうすれば軽口に似せて、もしかしたら言えるかも知れない。運が良ければ、もしかしたら。
 などと悶々しているうちに、二人はその場所に着いてしまった。部屋の前で、皆守が振り返って左手を上げる。

「じゃあな」
「あ、いや、あのさ」
「ん?」
「えーと、ちょっと、だけ、時間をくれませんか」
「・・・いいけど」

自分で自分を追い詰めているような錯覚に、葉佩はその場でしゃがみ込んで頭を抱えたくなった。その衝動を堪え、崖っぷちから飛び降りるような気分で部屋に足を踏み入れる。どうして自分がこんなにも(負の方向に)盛り上がっているのか分からない。しかも、部屋に入った瞬間に芳香が全身を包んだ。あ、無理だ。あっさりと敗北した精神を、宥めすかして黙らせる。

「で?」
「で、えーとね」
「早く言え」
「俺さ、えーと明日にはチリなんだ」
「へえ」
「で、あのね、だからさ」
「おう」
「あ!待って寝ないで!」
「まだ寝てない。横になっただけだ」
「そ、そっか、ならいいんだけど」
「チリに行って何するんだ」
「あ、ええとね、そっからまた船で移動するんだけど」
「仕事か」
「うん」

 ベッドの上でごそごそしていた皆守が動きを止めた。居心地のいい位置を見付けたのだろう。早く言わなければ。だが、言葉が出てこない。決めていた筈なのに、舌が思うように作動しない。精神が肉体に与える影響を実感し、葉佩が途方に暮れる。こんなにも自分が臆病だとは思わなかった。いや、臆病なのは知っていたのだが、死の恐怖ではないものに、これほどまでに怯えたのは初めてだ。その恐れが、異形の生命でもなく、悪意を持った人間でもなく、安穏とベッドで丸くなっている男に向かっている事に、葉佩は深く打ちひしがれた。

「あのね、皆守」
「・・・んー」
「起きて」
「起きてる」
「あのね」
「・・・」
「寝るなってばぁ!」
「寝てねぇっつってんだろ。早く言え」
「だからね、俺、死ぬかも知れないから」
「・・・」
「皆守ぃ!」
「あーもーうるせぇ!」
「だから、待たなくっていいから!」

決死の思いで放った言葉に、自分自身で傷付いた。断絶するという決意。そう、決意が必要なほどに、葉佩は彼と離れがたく思っていた。でも駄目だ。一人でなければ、為し得ぬ事がある。それこそが生きる理由なのだから。

 戦うのが楽しいなどと、一度たりとも思わなかった。発射した銃弾が肉を貫く。それを目の当たりにしても、心に在るのは虚無だけだった。刃を用いても、それは変わらない。返り血に濡れて、自分が人間である事を忘れて、静寂が戻って来るのを祈るように殺傷を繰り返す。体に染み付いたその手段を、ただ無心になぞるだけの行為。持ち得た手段を誇る事も無く、ただ可能と不可能を選別して行動に移す。葉佩にとって、戦闘とはそのようなものだった。
 不可能という言葉が消し飛んだのは、あの夜だけだった。上がる苦悶の呻きさえ、どこか快楽の色を含んでいた。痛みに耐える自身が、まだ立っていられる足が、折られても武器を離さぬ手が、誇らしかった。彼の力と技と心を受けて、昂ぶる体が嬉しかった。彼を受け止める手段を有していた事に、誰彼構わず感謝したい気分になった。
 だが、それは一夜の夢だ。目指すのは、そんな快楽ではない。傷付いた彼を見下ろして、葉佩はそう思った。この快楽に溺れれば、きっとどちらかが損なわれる。致命的な傷を、負うか負わせるかしてしまうだろう。要するに、怖くなった。












 全く、呆れるほどに身勝手な男だ。知ってたけど。目を閉じたまま、眠りの訪れる気配も無く、皆守は心で彼を嘲笑った。他人の感情までもを踏み躙って、平気で次に進むような人間なのだ。どうしようもなく腹が立つ。いっそ忘れてしまえれば、どんなに楽だろう。しかしその対処法は、既に不可能だと分かっている。もう分かっている。自分は待つだろうと。
 そんな事には一切の関心を払わず、葉佩は往くのだ。断絶を口にして、嘆く心を奥深くに沈めて、一人で飛び立つ。その心を欲している人間が存在するなどと、夢にも思わないのだろう。
 やはり、その瞳が自分を見詰める事など無いのだと、失望にも似た感傷が心臓を引き絞る。だからと言って、抵抗を諦める気は無い。全てを諦めて、ただ呆然と流れゆく世界を眺めるのは、もうやめた。
 惰性のような勢いで、葉佩が続ける。

「俺は帰ってこないかも知れないし」
「そうか」
「うん、だから、ごめん」
「分かった」
「・・・うん」
「だが、俺の行動をお前に規制される理由は無い」
「・・・はい?」
「待ちたかったら待つ」
「ええと?」
「待ちたくなくなったら、もう待たない」
「え、あ、うん・・・うん?」
「今は、待ちたい」

 布団を頭まで被っていて良かった。いま顔を見られたら死ぬ。いや、死にはしないだろうが、確実に死にたくなる。シーツを握り締めながら、皆守が密やかに溜息をつく。心臓が煩い。早く行け、と口にしてみたが、その声はあまりにも掠れていた。更に深く潜る為に、全身を小さく丸めて息を止める。その布団の端を、葉佩の手が掴んだ。柔らかな砦が、あえなく床に落ちる。
 晒された身ひとつ。立ち向かうには、あまりに脆弱な心ひとつ。
 その全てを、葉佩が謝意を込めて抱き締めた。