なんの気なしに開いた図鑑に、月の写真が載っていた。珍しく読書に勤しもうなどと考えた訳でもないのだが、蓬莱寺は図書室で手持ち無沙汰のあまり近くにあった本に手を伸ばした。図鑑ならば文字も少なかろうと、明瞭に思考せずとも手はおのずとそれを選んだ。

 同じ机の向かい側に緋勇がいる。その顔が今は見えないのは、彼が突っ伏しているからだ。どうして突っ伏しているのかといえば、眠っているからだ。どうして眠っているのかといえば、疲れているから、なのだろうと思う。たぶん。どうして疲れているのかは知らない。誰かと夜遊びでもしていたのかも知れない。

 眠ってはいけない理由などないが、蓬莱寺はこの時、眠りたくなかった。音を立てぬよう留意して、退屈なページをめくる。












 姿が見えないので探していたら、諦めかけて立ち寄った図書室で目的の姿を見つけた。昼休みを終えて、多くの学生は午後の授業を聞きながら眠気と戦っているであろう時間だった。それが何物であっても立ち向かうのが緋勇という男だと思っていたのだが、どうやら睡魔とは仲が良いらしい。
 気配を察したのか一瞬だけ上がった目が、ちらりと蓬莱寺を見て、また落ちた。これが蓬莱寺ではなかったとしたら、同じ場所で再び緋勇の目蓋が落ちる事はなかっただろう。

「おーい」
「・・・」
「龍麻ー?」
「・・・」
「授業サボって昼寝ですかー?」
「・・・」
「俺も眠くなってきたなー」
「・・・」
「寝ていい?」
「・・・」

 独り言だと思っていた言葉に、返事があった。声ではなく、視線で。熟睡ではなく、浅いまどろみで遊んでいるのだろう。
 緋勇はまたしてもちらりと目を上げて、無言のまま「お前は寝るな」と主張した。本当に緋勇がそのように伝えたくて目を上げたのか、真実は分からない。ただ蓬莱寺には、そう感じられた。お前が起きていれば、俺は眠れる。そんな言葉に。

 ならば俺は、お前の眠りを守る為に戦おう。主に睡魔と。
 そんな誓いを胸に浮かべた訳でもないが、なんとなく眠るのは勿体ないような気がしたのは事実だ。南側の窓から日が差し込み、本棚が影を作り、ほのかに肌寒いような、生あたたかいような、こんな不思議な空間で、蓬莱寺は彼が起きるまで待つ事に決めた。

 図鑑に目を落とす。月の写真が出てきた。その昔、月は完全なる球体だと考えられていた。その表面には一筋の瑕疵もなく、ただ真珠のように美しく夜空にあるもの。ひとりの男が磨き上げたレンズを空に向けたその時、月は天上のものではなくなった。そのような文章が記されていた。
 月は変わらずそこにあるのに、誰のものでもないのに、クレーターが見えただけで、まるで人間の手に落ちたかのように言われる月に、蓬莱寺はわずかに心を曇らせる。
 ページをめくると、今度は木星の写真だった。まだらのトンボ玉みたいな球体は、太陽になれなかった惑星と記されていた。木星が太陽になりたかったかどうなんて分からないのに、とまた少し心が波立つ。

「なあ、龍麻」
「・・・」
「起きてんだろ?」
「・・・」
「月ってさ、かわいそーだと思わねぇ?」
「・・・」
「あと木星も」
「・・・」
「冥王星とかも、降格とかってさ」
「・・・」
「なあ」

 誰が何を言おうと、閑然と宇宙に佇む星は何も変わらない。誰がどう名付けようと、どのように表現しようと、その存在には何ひとつ届かない。
 眠る人には聞こえないほどの声でささやくと、不意に緋勇が顔を上げた。皮製の表紙に押し付けた跡が、頬に薄く線を引いている。肯定も否定もせず、緋勇はかすれた声で何事か言おうとして途中でやめた。再び突っ伏したので、蓬莱寺にはつむじだけが見える。

「おい」
「・・・」
「今なんか言いかけただろ」
「・・・」
「なんだよ、最後まで言えよ」

 手を伸ばして無防備な黒髪を軽く引っ張ると、鬱陶しげに払いのけられた。普段は分かりづらいのに、そんな主張だけはしっかりと伝わるのが悔しい。拒絶ばかりが明確で、時折ほんのかすかに見える許容が幻のように思える。手にしたと思ったものすべてが幻だったのでは、と。
 机の上に投げ出された手の平に、そっと指先で触れてみる。今度は払いのけられない。

「なあ、なんか喋れよ」
「・・・」
「俺じゃなかったら、どうしてた?」
「・・・何が」
「やっぱ起きてんじゃねぇか!」
「うるさい違う起きたんだ」

 やっと返ってきた声に、遥か遠くの星々も、些細な憂いも吹き飛んだ。さも億劫そうにゆるりと顔を上げて、米神の辺りをこすりながら緋勇が息をつく。重たそうな目蓋を何度か上下させ、とろりと蓬莱寺を睨んだ。流し目のようにも見えた。
 ああ本当に眠っていたのかと、蓬莱寺は知らず口元を緩める。

「なんで京一がここにいるんだ」
「さっき来たから」
「さっき?」
「えーと、けっこー前に」
「そうか?」
「え、一回起きたじゃねーか」
「そうだったか?」
「一回っつーか、何回か」
「そういえば、そんな気がしなくもない、ような」
「またすぐ寝ちまったけど」
「そう、だったか?」
「寝惚けてたのか?」
「だろうな」
「俺だったから、起きなかった」
「まあ、そう、かもな」

 興味なさげに頷いて、緋勇が窓の外を見た。そうしてから時計を見て、どうして起こさなかったと理不尽にも責める口調で蓬莱寺に向きなおった。
 起きたければ自分で起きろとそれに返しながら、先程まで緋勇が枕にしていた辞書を引き寄せ、そこに突っ伏す。しかし予想していた以上に寝心地が悪くて、仕方なくそれを押しやって腕に顔をうずめた。

「おい京一」
「んー?」
「なんで寝るんだ」
「眠いから」
「授業はどうするんだ」
「そろそろ終わるんじゃね?」
「それもそうか」

 納得したのか諦めたのか、緋勇が黙った。立ち上がる気配はない。耳をそばだてたまま、きっと眠れないだろうと確信しつつも蓬莱寺は目を閉じた。背中に日が当たる感触が心地好い。

 しばらくして聞こえたのは、机の上に開いたままだった本を、そっと手に取る音だった。
 午後の日差しはあたたかくて、空気は少し冷たくて、手を伸ばせば届く場所からひそめられた気配と息づかいが聞こえる。眠りを遮らぬよう、音を立てずに緋勇の手がページをめくる。
 蓬莱寺は、その手が伸ばされるのを待つ事にした。