意味など無いと思っていた。仮にそんなものが存在するのなら、この果かない自分は何かを残して死ぬのだろう。潰えた体を誰かが嘆き、涙を流すというのなら、永遠に在り続けたいとすら思う。だが、そんな事は不可能だ。やがて消え去るのなら、初めから意味など無い方がいい。
耳元で、誰かの叫ぶ声がする。知らない名前を呼びながら、彼は泣いているのだろうか。甘い香りがする。意味など無い。自分に言い聞かせる。思い上がるな。俺には、意味など無い。何も残さず、一人朽ち果てるだけの、空虚な存在。それが俺だ。浮上した意識に触れる、温かい水。悲痛な声。その全てが、必死で言い聞かせた言葉を掻き消してゆく。
「葉佩!」
それは俺の名前じゃない。呟いたが、彼には届かなかったらしい。俺には名前なんか無い。だが、彼はその事実を知らないのだと、混濁した意識の中で思い出した。
体が熱い。これは危険だ。冷静に、そう思う。どうしてこんな事になったのか、酷く緩慢にしか働かない脳を回転させてみる。
彼の身に迫った、異形の爪。思考する暇は無かった。彼の身に迫った危険を取り除く、最良の方法がこれだった。つまり、彼を切り裂こうと振るわれた爪を、自分の体で受けた。
寝惚けた振りで、いつも彼は助けてくれた。きっと人並み外れた能力を有しているだろう彼に、それでも疑念は持たなかった。時折ほんの一瞬だけ見せる、切望のような表情。彼は、自身を焦がすこの世界を愛しているのだろうと、そう思った。
人は、本当には自死など望めない。自らの生命を絶つのは、次を信じる者だけだ。例えその先に存在するのが無だと知っていたとしても、逃避とは生存を目的にしか為されない。生きていたいと叫ぶ彼を、どうして世界はあんなにも苛めるのだろう。彼を傷付けたものに、激しく憎しみを覚えた。同時に、嫉妬した。彼は、まだ忘れていない。自身を苛む業火は、彼の消えない傷跡だ。思い出しては泣き、夢に見ては悶える、彼の最奥にある記憶だ。彼の心を潰した誰かの、それが意味なのだろうか。
嫉妬した。彼に残った傷跡に、それを刻んだ何者かに、狂おしいほど。
不意に体が浮いた。熱を持った部位には触れぬよう留意しながら、彼が抱きかかえてくれたらしい。
「おい葉佩、寝るな。重いぞ」
彼は夢を見ている。誰かが助けてくれるという、まるで子供のような憐れがましい夢を。その誰かが、この卑陋なる俗悪な男なのだと、可哀想なほど一心に信じている。騙されているとも知らずに。
「葉佩!聞いてんのか?」
「・・・聞いてる」
「起きたんなら歩け!」
「うん、下ろして」
懇願のような言葉に従って、彼は抱えていた体を床に下ろした。その手は、まるで気遣うように優しかった。指が震えていたのは何故だろう。涙を隠すように顔を逸らしたのは、何故だろう。
「血、止まらないな」
「うん、たぶん動脈いってる」
「それって、やばいんじゃないのか」
「うん、たぶん死ぬ」
「俺の血小板いるか?」
「血小板だけ貰っても」
「じゃあ白血球もつける」
「血液型、違うよね」
「気にしてる場合か!赤血球もやるから!」
「まあ落ち着けよ。気持ちだけで嬉しいから」
「・・・俺は、どうすればいい?」
「どうもしなくっていいよ」
「・・・無茶いうな」
「ごめん」
彼が黙った。震える指が、そっと肩に触れる。冷たい感触が心地好い。もっと触っていて欲しかったのに、その手はすぐに離れていった。閉じていた目蓋を上げる。見た事も無い表情で、彼は死にかけた体を見下ろしていた。
「死なないだろ、お前は」
「何でそう思う?」
「お前が言ったんだろう。《宝探し屋》は死なないって」
「ああ、ごめん、あれ嘘」
「嘘かよ!」
「ごめん、許して。ほんとにごめん」
まさか信じていたなんて。嘲笑ってやろうと思ったのだが、無理だった。泣きたくなる。何故だろう。彼の傷に、なれるだろうか。そんな思いがよぎり、自分の身勝手さに呆れる。彼を焼く業火に、なれるだろうか。可哀想な彼に、これ以上の痛みなど与えたくはない。それなのに。
「俺の事はほっといて。気にしないで」
「・・・ああ、そうするよ」
なんて顔するんだ。嬉しいじゃないか。やめてくれ。意味など持たずに逝きたいんだ。誰かが泣くなんて、冗談じゃない。頼むから、無意味なままでいさせてくれ。死にたくないのは本当だ。しかしそれは、生きていたのとは違う。ただ、怖いから死にたくないだけだ。
知らない場所に行く事は、死に似ている。子宮に還るような気持ちで、ずっと地下に潜っていた。自分が母から産まれたのだと知った時には、もう闇に魅入られていた。自分が人間なんだと知った時には、もう手遅れだった。
「皆守」
耐え切れずに、名を呼んでしまった。どうか振り返らないでくれ、と思う。しかし、彼は振り向いた。望んでないのに、心は深く嘆いている。酷い話だ。そんな顔はさせたくないのに、心の奥で喜んでいる。
「忘れてね、俺の事」
死因は失血死だな。ぼんやりと、そんな事を考える。切り裂かれたのは、心臓からは遠い場所だった。完全に死ぬには、少し時間がかかるだろう。理想は即死だったのだが、得てして現実は理想どおりにはいかない。そんな事はずっと前から知っている。望みが全て叶うなら、生きる意味も無い。意味が無いのは、満たされていたからだ。自己完結して、閉じたまま輪になっていたからだ。その円環を壊した男が、涙に濡れた顔で見下ろしていた。唇を引き結び、息を止めて立ち尽くしている。
「早く行けよ」
「・・・ふざけるな」
彼が動いた。乱雑な動作で、壁に凭れた体を引き上げる。朦朧とした意識の中で、彼の香りが強くなったのを感じる。再び持ち上げられ、あろう事か肩に担がれた。怪我人の運搬方法としては最悪に近い。圧迫された部位が軋んで、思わず呻き声が出る。無様だとは思うが、どうしようもない。
「・・・痛い」
「うるさい」
「え、ひどくね?」
「黙れ」
「いちおー俺、怪我人なんですけど」
「じゃあ喋るな」
「えー・・・」
それでなくとも尖った彼の肩が、腹に触れていた。もう麻痺したと思っていた痛みが、鈍く神経を刺激する。それ以上に、心臓が恐ろしいほど痛い。出血多量の人間になんて事しやがる。死んだらどうするつもりだ。もしかして、とどめを刺す気だろうか。放っておけば程なくして死ぬだろう相手に、ご苦労な事だ。
「おい、葉佩」
「・・・」
「何か喋れ」
「・・・」
どっちだよ。声を出すのが億劫だったので、無音で言ってみた。空気を振動させる事は無かった筈なのに、それでも彼には届いていたようだ。そんな奇跡は要らない。
「悪かった、黙るな。何か喋れ」
「・・・」
「何でもいいから、何か言え」
「カレーなんて、この世から消え失せればいい」
「殴るぞ」
「やめてください」
「・・・本気か?」
「殴られたくないのは本気」
「カレー、嫌いなのか」
「いや、ちょっと言ってみただけ」
「・・・殴りたい・・・」
彼が低く囁いた。実は少しだけ本気だなどと、言ったら間違いなく彼は悲しむだろう。彼に愛される全ての存在が、消え失せればいい。暖かいベッドも、優しい幻も、花の香りも失ったら、彼はどうするだろう。きっと、それでも生きるのだろう。固定する為に強く掴まれた部位が、怖いほど熱い。
「お前は死なない」
「・・・」
「俺が守ってやる」
「・・・」
「だから、死ぬな」
無意味な言葉だ。誰の心にも届かない。心は闇に捧げてしまったから、どんな言葉も意味が無い。こんな死に方、望んでなかった。無意味なまま、誰にも知られず息絶えたかった。衣服を濡らしていた血が、彼に染み込む。
死にたくない、なんて、そんなの酷すぎる。
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