意識が落ちていたらしい。五感が正常に働きだすと同時に、体が地面に触れたのを感じた。目蓋はまだ上がらない。耳元で、荒い呼吸が繰り返される。そっと、まるで労わるように体を下ろされた。衝撃を与えないよう、細心の注意を払っているのが分かる。続いて、すぐ横に座り込む音。呼気に混じって聞こえる悪態は、本気で忌々しげだ。睡眠不足に加えて、男を一人担いで決して短くない距離を歩いた疲労。怠惰な彼にしてみれば、一生分の働きにも等しいのではないか。ライターを擦る音と共に、甘い香りが鼻腔に届く。小さな呟きも聞こえた。
「・・・熟睡かよ、この野郎」
意識はあるのだが、目蓋を上げる事が出来ない。地上までは運んでくれたようなので、野垂れ死ぬ可能性は大幅に下がった。冷たい地面の感触が心地好い。今更だが、痛み止めも効いてきた。
ふと、隣の気配が動いた。立ち去るのだろうと思ったが、熱い何かが首筋に触れた。同じ温度が、今度は唇に触れる。心拍数が一気に上昇した。脈と呼吸を確認したのだと、手が離れていってから気付く。しかし、跳ね上がった脈拍は収まらない。怪我人になんて事しやがる。本気で殺す気か。
安堵したように吐き出された溜息には、またしても悪態が混じっていた。「ちくしょう」「ふざけやがって」幼い言葉を、小さく繰り返している。目を開けるのが怖かった。
皆守が、独り言にも飽きて黙り込んだ。基本的な疑問なのだが、彼はどうして立ち去らないのだろう。夜明け前の墓地は、静謐と冷気に満ちている。汗に濡れたままこんな場所に座り込んでいたら、体が冷え切ってしまう。それは貧血状態で地面に寝転がっている葉佩も同じなのだが、動けないのだから仕方ない。それ以前に、無防備な状態をいつまでも晒しているのが苦痛だった。皆守が義務を遂行するには、好機なのではないか。そんな危惧が、葉佩の心臓を圧迫する。
暫く無言で座り込んでいた皆守が、ゆっくりと動いた。野郎、ついに覚悟きめやがったか。声には出さずに呟き、葉佩が散漫になった意識を掻き集める。残弾数を思い浮かべ、それを撃ち出す体力を思う。絶望的だ。
ベチっと音を立てて、額に手の平が触れた。葉佩が混乱する。痛いことは痛いのだが、攻撃ではないような気がする。むしろもっと別の、例えば子供が甘えるような。死の恐怖ではない何かが、葉佩の心臓を変な具合に刺激した。
額に当てられた手が、閉じた目蓋を覆うように優しく動いた。葉佩が更に混乱する。米神の小さな傷跡に、軽く爪を立てられた。くすぐったい。いま目を開けたらどうなるだろう。或いは、このまま寝たふりをしていたらどうなるだろう。髪を引っ張られ、そのついでに耳を撫でられた。何事だ。
「・・・おい葉佩」
あ、バレた。
「起きてんだろ」
うん、起きてる。素直に認めたが、目はまだ開けない。寝首をかくほどの覚悟は、彼には無いだろうと高を括っていた。無抵抗の相手を傷付けるのは卑怯だと、そんな甘ったるい事を真面目に考えているのだろう。そこまでは落ちていない、と思いたいだけかも知れない。この期に及んで、皆守はまだ自分の手が汚れていないと信じているのだろうか。
「・・・寝てんのか?」
お、バレてない?
汗ばんだ手の平が、再び頬に触れた。軽く抓られる。何がしたいんだ。鼻を摘ままれた。だが心配ない。口でも呼吸は出来る。人差し指と親指で鼻を塞ぎ、残る指で口を覆われた。それは困る。小さく呻くと、指がビクリと震えて離れていった。とどめを刺すのに逡巡しているのだろうか。それにしては手付きが、何というか、その、ちょっとアレだ。
「葉佩」
囁くような声音で名を呼ばれた。心臓が音を立てて軋む。その声に応えたいと思う心を、どうにか沈める事に成功した。こんな気持ちになるぐらいなら、名前など要らなかった。ただ呼ばれるだけで泣き叫びたくなるほど痛いなんて、知らなかった。
服に染み込んだ血は、もう乾き始めている。その場所に、まるで畏れるように手が触れた。このまま目覚めなければ、ずっと触れていてくれるだろうか。目を開ければ、離れてゆくのだろうか。
「・・・おい、起きてんだろ?」
起きてはいるのだが、目を開きたくない。皆守が、夢から覚めるのを厭う気持ちが、少しだけ分かった。傷に触れる手が、僅かに力を込める。きっと皆守も苦しいんだろうな、と、ぼんやりと思った。同時に、腹が減ったな、とも思う。
頚動脈の真上に、指が触れる。ああ、やっとその気になったか。
「俺の前で、そんな無防備にしてていいのか?」
そんな事いちいち訊くな。
喉仏を撫でられる。だが、圧迫するほどの力は感じない。もう一度、名を呼ばれた。
「俺には出来ないとでも思ってるのか?」
正直いって、思ってる。皆守は、時々驚くほど直情的だ。本当は、傷付ける事も、傷付く事も怖いのだろう。
寝惚けたふりで、いつも彼は助けてくれた。きっと人並み外れた能力を有しているだろう彼に、それでも疑念は持たなかった。時折ほんの一瞬だけ見せる、切望のような表情。彼は、自身を焦がすこの世界を愛しているのだろうと、そう思った。
「・・・お前、死にたいのか」
死にたくはなかった。
人は、本当には自死など望めない。自らの生命を絶つのは、次を信じる者だけだ。例えその先に存在するのが無だと知っていたとしても、逃避とは生存を目的にしか為されない。生きていたいと叫ぶ彼を、どうして世界はあんなにも苛めるのだろう。彼を傷付けたものに、激しく憎しみを覚えた。同時に、嫉妬した。彼は、まだ忘れていない。自身を苛む業火は、彼の消えない傷跡だ。思い出しては泣き、夢に見ては悶える、彼の最奥にある記憶だ。
嫉妬した。彼に残った傷跡に、それを刻んだ何者かに、狂おしいほど。
「葉佩」
なんて声を出すんだ。嬉しいじゃないか。やめてくれ。意味など持たずに逝きたいんだ。誰かが泣くなんて、冗談じゃない。頼むから、無意味なままでいさせてくれ。死にたくないのは本当だ。しかしそれは、生きていたのとは違う。ただ、怖いから死にたくないだけだ。繰り返し、心で呟く。
知らない場所に行く事は、死に似ている。子宮に還るような気持ちで、ずっと地下に潜っていた。自分が母から産まれたのだと知った時には、もう闇に魅入られていた。自分が人間なんだと知った時には、もう手遅れだった。
首筋を撫でる指の感触に、つまらない期待をしてしまう。人として彼と向き合えるかも知れない、などと、莫迦げた言葉が浮かんで消える。その手が含むのは、義務感ではなかった。恐ろしいほどの激情を感じる。まるで慟哭だ。死の危険を察知した体は、確かに恐怖していた。しかし、心の奥では喜んでいる。
人が触れ合うというのは、こういう事なのだろう。
「葉佩」
先程よりも強く、名を呼ばれた。同時に、喉に爪が食い込む。苦しいのだが、思い出した事実に恐怖が薄れた。きっと皆守には、最後までは出来ない。予想どおり、程なくして手は力を失った。
皆守の武器は、恐らく足だ。全身で最も地面に近い、汚れが集まると信じられる場所。足蹴にするという行為は、様々な文化に共通する「侮辱」を表す行為だ。地に伏した状態で足蹴にされた時の感情を、葉佩はまだ憶えていた。滲む視界の中の、自分を見下ろす瞳。忘れられるものではない。自分だけは綺麗な場所に立っていると、皆守は信じているのだろう。だから、あんなにも落下を恐れている。
手が離れてゆくのと同時に、頬に水が当たった。温かい水の正体は、気付かなかった事にする。
喉に残った爪痕と、頬に残った手の平の感触。傷を労わる手と、冷たい地面に怪我人を放置するその行動。矛盾だらけだ。嘲笑ってやろうと思ったのだが、無理だった。泣きたくなる。何故だろう。彼の傷に、なれるだろうか。そんな思いがよぎり、自分の身勝手さに呆れる。彼を焼く業火に、なれるだろうか。可哀想な彼に、これ以上の痛みなど与えたくはない。それなのに。
綺麗なその心に、完全なる敗北と、慟哭すら及ばない恥辱を与えよう。胸中で誓い、目を開ける。血の匂いではなく、憎しみに満ちた目でもなく、ただ甘い香りだけが残されていた。
きっと誓いは果たされない。
それならば、葉佩に人と触れ合う手段は残されていない。
彼のように、優しく触れる事が出来ればいいのに。
一人残された葉佩が、奪う事しか知らない手を握り締めた。
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