思わぬ安さで食材を仕入れて、皆守は雨なのに憂鬱ではなく雨の中を歩いていた。
 近道という訳でもなく、人通りの少ない路地裏を帰路に選んだ理由は、特にない。あえて言葉を探しても、気紛れという無責任で無意味な言葉しか出てこなかった。つまりこれは偶然なのだろう。
 あの男は偶然が嫌いだったような気がするが、それはもしかしたら皆守が勝手に作り上げた思い込みでしかないのかも知れない。本当はあの男にだって、理屈で説明できないものに委ねたい時ぐらいあったかも知れない。だからどうしたと言われても困るが。

 視線を下げたのは、気配を感じたからだ。視界の端の黒、小さな息遣い、血の匂い、そんなものが皆守の神経を小さく刺激した。気付かなくても不思議ではない、あるいは気付いても普段なら無視していたくらいの些細なそれらを拾ってしまったのは、だからただの偶然でしかないのだ。

 ごみのように汚らしいその塊に、歩み寄ろうとしてためらう。だって、どうしようというのだ。どす黒い水溜りに座り込んで、全身を濡らして、こちらに気付いて顔を上げはしたが何も言わず目を伏せたその黒い塊に、いったい何ができるというのだ。
 ささやくような音量で呼ぶ声が聞こえた、ような気がしたが、それは雨の音だったかも知れない。通りで鳴ったクラクションかも知れない。その辺で雨宿りしていた猫だったかも知れない。どれが真実だったのかは分からないが、皆守は呼ばれたような気がしたのでそれに歩み寄った。

 傍らに立って、さてどうしようと思案していたら、黒い塊が今度は顔も上げずにゆるく笑う。

「久し振りだね、皆守」
「いいザマだな」
「とどめ刺しに来てくれたんだ?」
「いや」
「刺さねぇの?」
「どうするか考え中だ」
「なんで殺さないんだよ」
「なんとなく」
「弱ってる人には優しくしてあげなきゃって?」
「・・・さあな」

 死にそうに見えたが、意外とよく喋る。見ためほど瀕死ではないのだろうか。
 傘の端っこから雫が落ちて、死にそうだがまだ死んでいない男にぶつかった。その男はもうびしょ濡れで、今更ひとしずく落ちたからって何も変わらない。なのに皆守は、まるで自分がここに立っていたから彼が濡れてしまったような気分になった。

「何してんの?」
「いや、ちょっと買い出し」
「買い出し?」
「おう」
「買い出しかぁ」
「どうした」
「生きてるんだね」
「まあな」

 男が、なんだかやけに幸せそうに微笑んだ。老人が過去を見るように、子供が未来を見るように、ここには存在しない何かを見るように。
 裏切ってしまったような気持ちになるのは何故だろう。どうにか日々をやり過ごして、不満はあるが困窮はせず、日常の瑣末事を煩わしいと感じつつも、なんとか無事に生きている。きっと明日も同じように生きている。たったそれだけの事が、かつて彼に告白した罪よりも酷い裏切りのように思えた。
 彼は彼自身の意思でその道を選択し、誇らしく去って行った。心の隅でこっそり羨んでいたその背中が、憐れなもののような気がしてならない。正体不明の罪悪感が、冷たい雨粒になって皆守に降り注ぐ。

「俺が死ぬとこ、見たい?」
「まあ、見たいといえば、見たい」
「待ってんの?」
「いや、待ってない」
「なんで帰らないの?」
「・・・なんでだろう」

 一見して負傷しているのは肩だ。あからさまに手を添えているし、黒い服で分かりづらいが血が多く染み込んでいるのも肩だった。暗いのでよく見えないが、水溜りには結構な量の血液が混じっている。
 爪先を汚い水溜りに浸したまま、皆守はただぼんやりと突っ立っていた。とどめを刺す事も、立ち去る事も、何故か考えなかった。ただひたすらに、こいつは死ぬのだろうかと、どこか信じられないような気分で考えていた。

 急に怖くなった。
 皆守が偶然にこの道を通らなければ、彼はきっと誰にも知られず雨に打たれて冷たくなっていたに違いない。浮かんだその映像が、自分でも訳が分からないほど怖かった。
 暗い雨の路地裏で、野良猫みたいにひっそりと、誰にも知られず死んでいく。

「なあ、おい」
「なんだようるさいな、とっとと帰れよ」
「痛くないのか?」
「痛いよ」
「寒くないのか?」
「寒いよ」
「・・・さ」
「さ?」

 さみしく、ないのか?
 危ういところで呑み込んだ声が、喉に引っ掛かって気持ち悪い。吐き出したい。むしろ吐き捨てたい。

 途切れた言葉に、怪訝そうな視線が上がる。黒い前髪からぽつりと雫が落ちた。
 水を含んで重たそうな衣服が、動作に合わせてがちゃりと鳴る。たぶん火薬はもう使い物にならないだろう。銃器は、よく手入れすればまた使えるようになるだろうか。それとも、彼の手はもう二度と武器を握る事もないのだろうか。
 涙のように雨が降る。

「待ってるだけじゃ、俺は死なないよ」
「だろうな」
「ちょっと貧血なだけだから」
「そうかよ」
「あ、でも風邪ぐらいは引くかもね。そしたらどうする?」
「別に、どうもしない」
「は、お優しい事で」

 うっすらと笑った。嫌味ったらしく、口の端で。ひねくれた子供が大人を見るような、侮蔑を含んだ目で。どうやらだいぶ弱っているらしい。いつものこいつなら、こんなにも露骨に顔に出さない。そう考えて、ふと気付く。いつも隣にいたのは、もう遠い昔の事だった。
 唐突に男が問うた。

「今日の夕飯はカレー?」
「いや、秋刀魚」
「秋刀魚カレー?」
「斬新だな」
「カレーじゃねぇの?」
「安かったんだよ、秋刀魚」

 ぐったりと脱力していた男が、いきなり声を上げて笑った。皆守が思わずびくっと後ずさる。とはいえそれは小さな声で、わずかに喉と肩を震わせただけだった。時々咳き込みながら、体を丸めて絶望したように笑う。はっきり言って気持ち悪い。
 不意に思い出したのは、肩を並べて歩いた夕暮れ。またカレーかよと言って笑った傷だらけの顔。スパイスについて語っていたら聞こえてきた寝息。髪を撫でた午後の風。走る背中を見失うまいと追いかけた隧道。懐かしいと思う日も来るのかも、などとちょっと本気で言っていた自分。
 何も分かっていなかった。今、これっぽっちも懐かしいとは思わないあの頃。そんなものが浮かんで消えた。

 やがて動かなくなった黒い塊に、ふと思いついて傘を引っ掛けてみた。これ以上濡れないように、と思っただけなのだが、カブトムシの幼虫を見た女子みたいな顔をされた。平たく表現すると、物凄く嫌そうな顔をされた。

「なんのつもり?」
「いや別に、意味はない」
「そう、ならいいや」
「おう」
「可哀相だとか思われてたら死にたくなる」
「お前はその程度じゃ死なないだろ」
「まあね」
「だってお前は《宝探し屋》なんだから」

 今度は俯いていたので表情は分からなかったが、地面に投げ出されていた手がゆっくりと拳の形になるのが見えた。武器を持つ形に、攻撃する形に、立ち上がってどこまでも走ってゆく形になるのが見えた。
 その代わりなのかなんなのか、せっかく立てかけた傘がずり落ちたので、しゃがみ込んでそれを肩に引っ掛けなおして、傷が雨に濡れない位置に固定する。

 くっと男の喉が音を立てた。薄い唇が歪む。憎悪だ、珍しい。この男が激情に耐えかねて表情を崩した。あの胸糞悪い薄ら笑いではなく、心底からの感情を顔に出した。ほぼ同時に、立てかけた傘が跳ねのけられた。
 全身が沸き立つ音を聞きながら、皆守は自分が微笑んでいるとわずかに残った理性で自覚した。

「いらねぇよ、こんなもん」
「だろうな」
「施した気分になってんじゃねぇよ、M+Mの狗が」
「てめぇこそ、ロゼッタの狂犬だろうが」
「どっちかっつーとカラスって呼ばれてるよ!」
「だからなんだよ」

 嗤い合い、ただの記号でしかない肩書きを、まるで罵る言葉のように吐き捨てる。それが理由であるかのように、互いの立場を叫び合う。本当は、そんなものが理由にならない事など分かっていたのに。
 飛んできた傘を咄嗟に受け止めて投げ返し、投げられた言葉は即座に打ち返した。男が立ち上がり、ふらりとよろけて壁に手をついた。飛びそうになった意識を引き戻し、獰猛な目で皆守を睨む。

「次どっかの遺跡で会ったら憶えてろよ」
「ふざけるな、忘れてやる」
「とか言って、今夜のオカズは俺なんだろ?」
「それは本気でちょっと待て」
「あれ、違うんだ?」
「え、いや、ちょっと待て、なんだお前その意外そうな顔」
「俺の今夜のオカズはね」
「それ以上その口でなんか喋りやがったら凍った秋刀魚で刺す」
「食べ物を粗末にしてはいけませんよ」
「安心しろ、ちゃんとあとで食べるから」
「そんならいいけど」
「むしろお前が死んでくれるなら秋刀魚もきっと喜ぶだろ」

 死にそうに見えた男は壁に寄りかかりながら中指を立てて、少し歪んだ傘を片手でくるりと回し、汚い捨て台詞を残して暗がりに消えていった。なんだか妙な疑惑も残ってしまったが、深くは考えずに帰路を踏む。

 少し歩いて通りに出て、皆守は自分が傘を持っていない事に気付いた。実に不本意だが、あの男に傘を貸す結果となってしまったと、ようやく思い至る。礼など期待しての行動ではないが、してやられたような気持ちになって水溜りを蹴散らした。
 雨季に浮かれる異国の街を横切りながら、あの野郎、次に会ったら今度こそ、と口中で呟く。呟いて、空を見上げる。

 星は見えなくとも、皆守はもう迷わない。