赤い部屋で、皆守は炎の魔人と向かい合っていた。火神は何処か悲しげな声で、何事かを皆守に伝えようとしていた。しかしその時、皆守はそれどころではなかった。皆守の前には火神以外にも、もう一つだけ無視できない物がある。それは刺激的な香りで鼻腔をくすぐり、皆守の意識のほぼ全てを奪い去っていた。それが葉佩の手料理である事を、皆守は知っている。レトルトカレーに遺跡で入手した謎の素材を加えただけのその料理を、葉佩は自信作だと言って皆守に差し出した。
葉佩の思惑が何処にあるのかは分からない。だが、料理に罪は無い。皆守は手にしたスプーンで、そのカレーを口に運んだ。火神はまだ何か言っている。否定を感じさせる動作で、皆守に向かって声を上げている。それを無視して、皆守は口に入れたそれを咀嚼して飲み込んだ。
葉佩が異変を察知したのは、次の日の夜だった。探索から引き揚げ自室へと急ぐ葉佩の前に、音も無く皆守が現れた。その時の葉佩は朦朧としていた。兎に角、早くシャワーを浴びてベッドに突っ伏す事ばかり考えていた。小遣い稼ぎであるギルドからの依頼が、少しばかり常よりも難解だったのだ。不機嫌を隠すのも億劫に感じられて、葉佩は軽い挨拶を落とすだけでその場を立ち去ろうとした。
「よお、九ちゃん」
「・・・・・・・・・は?」
「なんて顔してんだ」
「え、あ、いや、ええと」
「何だよ、どうしたんだ九ちゃん」
何かおかしい。葉佩は急速に胸に湧き上がって渦を巻く違和感を、どう扱うべきか判断しかねていた。何が、と自問しても、はっきりと言葉にならない。ただ、皆守がおかしい。内臓を素手で撫で回されるような感触に、葉佩は身震いした。
「本当に、どうしたんだ?」
「え、いや、別に・・・どうもしてないけど?」
「そうか?・・・寒いんじゃないのか?」
「へぁ?あ、いや・・・ええと・・・寒くは、ない、かな・・・」
「そうか」
何故か少しだけ残念そうに、皆守が目を逸らした。しかし、視界の端ではしっかりと葉佩を捉えている。紫色の煙越しに、迂闊にも葉佩は視線を合わせてしまった。皆守の唇が、ほんの僅かに笑みを作る。柔らかく、混じり気の無い笑みだった。地の底から淡い月光を見上げるように、手の届かないそれに憧れる少女のように、皆守が微笑んでいた。
「あ、あの・・・皆守?」
「・・・何だよ」
「・・・・・・・・・ごめんなさい」
「いきなり何言ってんだ」
今度は声を立てて笑った。「変な奴だな」などと言いながら、葉佩を見た。深い眼差しで、真っ直ぐに葉佩を見詰める。その瞳に揺れるのは、葉佩がいつも見ていたものではなかった。
「ええと・・・あの、皆守君?」
「だから何だよ」
「今、何て言いましたか?」
「『だから何だよ』?」
「その前」
葉佩は歪んだ表情で皆守を凝視している。その視線に含まれるのが恐怖に思えて、皆守は首を傾げた。
「何か変なこと言ったか?」
「え、言ってないの?」
「おい、九ちゃん?」
「何事だ。むしろお前が何事だ。どんな悪魔のいたずらで産まれたんだお前は!」
「どうした?安心しろ。何があっても、俺がお前を守ってやるから」
「え、あ・・・そりゃどーも・・・」
葉佩の目は、良く見るとちょっと涙ぐんでいた。訳が分からない皆守は、取り敢えず葉佩が落ち着くのを待つ。時間は既に早朝に迫っていた。《墓地》で立ち話などしているところを一般生徒に見られたら、厄介事を抱えるのは皆守だ。しかし皆守にとっては、葉佩の尋常でない動揺の方が気に掛かった。肩が先程よりはゆっくりと上下し始めたのを見て、皆守は葉佩の背中に手を置いた。
「・・・落ち着いたか?九ちゃん」
葉佩は逃げ出した。
自分でも意味の分からない涙で目を潤ませながら、葉佩は去り際の皆守の一言にうなされる覚悟と共に布団に潜り込む。朝になれば元に戻っている事だけを願い、目を閉じた。信じてはいない神に向かい、思いつく限りの罵倒を祈りの言葉に代えて眠りに落ちた。
翌朝、祈りは無意味だった事が証明された。葉佩を見るや否や、奇妙に浮かれた足取りで皆守が近付いて来た。視線は逸らされているが、意識がこちらに向いているのが分かる。ちったぁ隠せやこの恥知らず。遺跡探索の疲労ならば極短時間の睡眠で回復出来る葉佩だったが、今朝のその顔には蓄積された虚脱感が色濃く浮かんでいた。
幸い(?)、周囲に皆守の変化を察している者は居なかった。葉佩にも、何処がおかしいと説明するのは困難だ。ただ、目が違う。それに声音。極めて些細な変化だったが、葉佩はそれに気付いてしまった。
「よお、九ちゃん」
「お・・・おう、おはよ・・・」
皆守の目蓋は、いつも通り重そうだ。だがその奥の瞳に、何か言い表しがたいものが、灯火のようにちらちらと揺れている。それを直視する度胸など、葉佩には無かった。
好意を向けられるのは、純粋に嬉しかった。嫌われるよりも心地好い。しかし、こんな目を向けられた経験は未だかつて一度も無いと断言出来る。
「あの、すいません皆守さん、その目が痛いっつーか、熱いっつーか・・・」
「ん?どこか怪我でもしたのか?」
「・・・なんでもない」
珍しく遅れてやって来た八千穂に救われ、その場は何とか凌いだ。授業中の後ろからの視線は、気力の限りを尽くして流した。昼休みの鐘が鳴る頃には、葉佩の体力は限界に近付いていた。
日課の校内探索に向かおうと腰を上げるが、足を踏み出す力が出ない。諦めて机に突っ伏した。
「九チャン、今日はどしたの?」
「いや、俺より皆守がどうしたんだろーね」
「皆守クン?何かおかしかったっけ?」
「・・・・・・・・・俺のこと九ちゃんって呼ぶ」
「あたしも呼んでるよ?」
「・・・やっちーはいいんだよ」
「何で皆守クンはダメなの?」
「・・・何でだろ」
呼び方ではないのだろう。気力をジワジワと削るのは、その声に含まれた、その、何ていうか、アレだよ。
認める度胸など無い。そんな想いを背負って、この先の道を行く事など出来ない。深入りはしない。俺は一人で生きて死ぬんだ。今まで特別には意識しなかった望みを、葉佩は言葉にして心に浮かべた。
負け惜しみに聞こえるのは何故だろう。
放課後。二年生の教室を片っ端から開けて、葉佩は昼休み中に思い立った可能性を探していた。皆守がおかしい。その理由が何なのか、葉佩にはさっぱり分からなかった。呼び方だけではない。何かが、昨日までとは決定的に違う。正体不明の変化が、兎に角気持ち悪かった。原因を究明しなければならない。そう確信し、葉佩は一番端の扉を力の限り開いた。
「あれ?葉佩先輩、どーしたんすか?」
「こんな所にいやがったか!夷澤!何やった!お前今度は何やらかした!」
「・・・何の話っすか?ここって俺のクラスなんすけど」
「皆守の話だよ!」
「皆守先輩がどうかしたんすか?」
「九ちゃん」
「って俺のこと・・・」
「二年の教室なんかで何やってるんだ?」
教室の入り口近くで夷澤に怒鳴り付けていた葉佩は、背後から近付く気配に気付けなかった。これほどまでに敵(?)の接近を許したのは、産まれて初めてかも知れない。良く思い出せば頻繁にあった事なのかも知れない。よし、此処は冷静に、良く思い出してみよう。恐慌状態に陥った葉佩が暴走する思考を止めようと努力している時、皆守は葉佩の背後から教室を覗いていた。葉佩の肩越しに夷澤を見て、よお夷澤、などと普通の挨拶をしている。え、俺だけ?俺だけ違うの?凍ちゃん(とうちゃん?)とか言わないのか。背後から漂う花の香りが、葉佩の冷静さを削り取る。
「てゆーか近い!」
「九ちゃん、何かお前変だぞ」
「お前がゆーなぁ!」
葉佩の涙ながらの訴えに、皆守は眉間に皺を寄せた。本当に理解していないようだ。しかし、傍から見ていた夷澤は察してくれたらしい。呆れたように細められていた目が、皆守の様子を見てゆっくりと見開かれる。そのままの表情で、黙ったまま皆守を凝視した。それに気付いた皆守が、鬱陶しそうにその視線を眼球で反射した。
葉佩を見ていた視線と、今自分を見据えた視線。脳内でそれを照らし合わせる為、夷澤は酷く緩慢にしか動かない頭を叱咤する。しかし解答が導き出されても、夷澤は暫く動けなかった。どう反応すべきかを考えていたのだ。皆守は、既に夷澤から視線を逸らしている。というよりも、葉佩を見ている。
その目だ。
「・・・葉佩先輩!今度は何やらかしたんすか!」
「知らないっ!俺は何もしてない!」
「なんか俺、今すっげぇドキドキしましたよ?吊り橋効果で恋に落ちるかと思うほどドキドキしたぞ!」
「何だ?仲良いのかお前ら」
「え、いや、別にそんなことないっすけど・・・」
「うん、どっちかっつったら仲悪いよ!」
「・・・ふん」
同時に狼狽える二人を見て、皆守が鼻を鳴らした。パイプに歯を立てる。少しだけ距離を置いたが、立ち去る気はないらしい。顎を上げて煙を吐き出す。視線は空を見つめているが、皆守の全神経が葉佩に向いているのがはっきりと分かった。冷や汗を流している葉佩に、夷澤が囁く。
「・・・拗ねちゃったんじゃないっすか?」
「え・・・何でだよ」
「・・・おい二年坊」
顔を寄せて囁き合っていた二人に、皆守が氷点下の声を落とした。裏返った声でそれに反応した夷澤に、今度は燃え盛る瞳を向ける。
「九ちゃんからはなれろ」
放たれた言葉を、数秒かけて理解する。理解した瞬間、疑問が止め処なく溢れ出す。だがその疑問を解決する前に、夷澤は言葉を発した。燃える瞳の前では、思考などしている暇は無い。
「えーと・・・あ、すんません」
「逃げんなよ夷澤ぁ!」
「九ちゃん、お前もだ。こいつをあんまり甘やかすな」
「え、あ、ご、ごめんなさい・・・」
「何で謝ってんすか!」
「だって!だってえぇぇ!」
最早《宝探し屋》の威厳も誇りも投げ捨て、葉佩は本気で泣いている。仮に葉佩に対する報復だとするならば、劇的な効果を発揮していると言わざるを得ない。それ以外の動機だと仮定して考えるのは、何となく気が進まなかった。
「葉佩先輩・・・本気で、何やったんすか?」
「知らないってば!ほんとに分かんないんだよ!」
葉佩は平気で嘘を吐く人間だが、この時ばかりは心からの言葉のようだ。
下校の鐘が響いた。いつの間にか、教室には三人を除いて誰も居なくなっている。我に返ったような気持ちで、夷澤が帰宅を提案した。否を唱える者がいなかった為、三人はダラダラと帰路に着いた。目的地は同じだったので、何となく並んで歩く。少し後ろを歩いていた皆守が(葉佩の隣を歩いている)夷澤に凄まじい目を向けている事に、二人は気付かない振りをした。
精神力をジリジリと削られるような帰路を何とか遣り過ごし、夷澤は逃げるように自室へと帰って行った。残された葉佩が、裏切られたような気持ちで皆守にチラリと視線を流す。皆守は、真っ直ぐに葉佩を見ていた。
「・・・あのですね、皆守様」
「九ちゃん」
「・・・はい」
「カレー、美味かった」
「・・・はい?」
「また作ってくれよ」
春の陽射しのように笑い、皆守は立ち竦む葉佩を置いて踵を返した。
「二度と作んない・・・」
その誓いが数日後に破られる事を、葉佩はまだ知らない。
「という夢を見たの」
窓の外を見詰めたまま、白岐が呟く。その声を聞きながら、葉佩は入手した正体不明の食材(?)をカレーに入れて皆守に試食させる事を諦めた。
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