雨が降り出したようだ。真夜中にふと目覚めて、蓬莱寺は寝惚けたままそれを認識した。春の雨は細く淡く、風をまとって遠慮がちに窓を打つ。
いつもなら、この程度の音では目を覚まさない自信があった。どうしてこの夜は目覚めてしまったのか、まだ完全には覚醒しきらない鈍った頭で考えようとして、やっぱりやめる。その疑問に、心地好い答えは用意されていないだろう、という確信にも似た予感があった。
再び眠りに落ちようと目を閉じても、逃してしまった睡魔の行方は杳として知れない。早々に眠りを諦めて、毛布を蹴飛ばしてベッドから出て、手早く着替えて窓を開け、蓬莱寺は雨のそぼ降る夜の道に音を立てて着地した。そうしてから、玄関を経由しないと傘を持ち出せなかったと気がついた。そっと音を立てぬよう、玄関に回って扉を開き、傘を抜き出す。ちなみに、こんな事もあろうかと靴は自室に置いてある。
彼はどうしているだろうかと、この期に及んで考えてしまう自分に呆れつつ、浮かぶ姿を散らすのも億劫で、蓬莱寺は春雨の夜をふらふらと進んだ。
すれ違った酔っ払いがやけに大事そうに花束を抱えていて、なんともなしに気持ちがさざめく。別れに花を渡すというのは、果たしてどのような意味を持つのだろう。やがて萎れて枯れてしまう植物の切れ端を、束ねて包んでリボンをかけて、どうか元気でと言葉を添えて、それで得られるのはどのような心持ちなのか。
いつの間にか見慣れた公園だった。顔見知りでもいないかと馴染んだ気配を探してみたが、結界に阻まれてか、あるいは今夜はここではないどこかにいるのか、一向に見つからない。
濡れた枝葉が街灯に照らされるのをぼんやりと眺めながら、彼は今どうしているだろうかと、また考えた。穏やかに眠っていればいいと、祈りのように思う。
不意にぱしゃりと水音がして、なんともなしに俯かせていた顔を上げる。同時に、喉から変な声が出た。
「・・・は?」
「京一か、こんな時間にどうした?」
「え、いや、ええと、お前がどうした」
「俺はどうもしてない」
「いや、でも、あ、傘は?」
「忘れた」
「アホか」
正直に思ったままを口にすると、緋勇は濡れた頬を少しだけ引き締めた。どうやら蓬莱寺の感想が気に食わなかったらしい。不機嫌な表情のまま、しかし反論もせず、緋勇がふいと視線を逸らす。
自身の発言の過ちに気付き、蓬莱寺は言いなおした。
「アホかって訊くまでもねぇな、アホだな」
緋勇は何も言わず、更に眼光を鋭くした。非の打ちどころのない正論を口にして、どうしてこんなにも攻撃的な目で睨まれなくてはならないのか。世の中は理不尽だ。世の中というか、緋勇が。
蓬莱寺の胸中など察した素振りもなく、緋勇はいたって自然に歩き出した。直前には左足を出したから、次は右足、とでもいうように、前触れもなく、数秒前まで会話していた事実など存在しないように、蓬莱寺の横を通り過ぎた。
「え、ひーちゃん?」
「どうした?」
「何してたんだよ」
「お前こそ」
「俺は、別に、なんとなく歩いてただけだよ」
「そうか、俺もだ」
前を見詰めたまま、緋勇が答える。迷いのない足取りは、確かな目的地を持っているようにも見える。背筋を伸ばして姿勢よく歩を進める姿は、颯爽としたものだった。雨が降っておらず、または降っていても彼が傘を差していて、ここが夜更けの公園でなければ。
「おい、ひーちゃん?」
「なんだ」
「お前、どうした」
「いや、むしろお前がどうした」
まるで気遣うように言われて、蓬莱寺は不安になった。深夜に雨の降る公園を目的もなく徘徊していたのは、蓬莱寺も同じなのだ。彼と自分を分けるのは、傘を差しているか否かの一点だけだ。それだけで、自分が正常で彼が異常だと断ずる根拠になるだろうか。
ひーちゃんと、今では呼びなれた愛称を口にする。春の細雨にも掻き消されそうなほど、心もとない声だった。聞こえているのかいないのか、緋勇は振り向きもしない。もう一度、震える声で彼を呼ぶ。雨音がうるさくて、自分の声すら聞こえない。きっとこんな声では、彼には届かない。
卒業したらどこか遠くへ行こうと、ずっと考えていた。高校に入学したのも、惰性でしかなかった。どこにも所属しないという状態が、中学校を卒業するその頃は不安だったのだ。求めるものはここにはないと、ずっと感じていた。あの男に会うまでは。
日本を出たからといって得られるものではないと、その時にはもう気付いていた。
一緒に行こうと誘ってみたのは、ただの気紛れ、その場で思い付いたから言ってみただけだ。深い意味などなかった。少なくとも、その時には深い意味などないと思っていた。穏やかに、しかしきっぱりと拒絶されて、やっと自覚した。もう取り返しの付かないほど、この心は自分のものではないのだと。
緋勇がやっと立ち止まった。振り向いて、今ようやく眼前の人物に気付いたかのように、「京一」と口中で呟く。「おう」と応えた声はまだ少しだけ頼りなかったが、それでも蓬莱寺は心がほどけるように安堵していた。
龍麻と、噛み締めるようにゆっくりと呼ぶ。緋勇が真直ぐに視線を上げた。訳も分からず喜ぶ自分が、なんだかとても腑に落ちない。
「濡れてんぞ」
「そうだな」
「風邪引くぞ」
「引かない」
「バカは風邪引かないって、あれ嘘だぞ」
「だったらお前も気をつけろ」
「うるせぇよ」
「お前は、さわがしいな」
「おう、照れるぜ」
「なんでだ」
「え、褒めたんだろ?」
「そう聞こえたか?」
「うん、聞こえた」
きっぱり頷くと、緋勇が少しだけ眉を下げた。そうしてから、「どうして分かるんだ」と、雨音に紛れそうなほど小さな声でささやいた。濡れそぼって立ちすくむ姿に、どうしようもなく泣きたくなる。
隣で友人が笑っているだけで、緋勇はそれが奇跡であるかのように感じるのだ。わざわざ口に出すのも恥ずかしいような当たり前の事なのだと、彼はまだ信じていない。
右手にあるのが馴染んだ得物ではなく、振れば壊れるような傘だったと思い出し、頭上に広げていたそれをたたむ。ぱちんと音がして、雨が髪に落ちてきた。これで彼と同じになったと、満足して蓬莱寺は微笑んだ。緋勇は、不思議そうにそれをただ見ていた。
「よかったな、俺が見つけて」
「そうか?」
「うん、だって、見つけて欲しかったんだろ?」
そう言って濡れた黒髪に手を伸ばすと、緋勇がはたと瞬いた。睫毛からも雫が落ちて、頬を伝って音もなく流れた。こんな風にたやすく涙も流せてしまえばいいのにと、無責任に蓬莱寺は思う。
「行こうぜ、ひーちゃん」
「どこに?」
「中国!」
「お前は、人をアホだと言っておきながら」
「その本気で説教するみたいな口調やめろ!」
お前がいないと寂しいのだと、言ってしまおうか。
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