緋勇は卒業式が始まる前に校舎を出た。本当なら、あの決戦が終わった時点で行くべきだったのだ。

 人気の絶えた校庭を通過して、旧校舎を一度だけ振り返る。淡い色の花弁が舞い、まるで別れを惜しむように降り注いだ。花に見える心残りが、つまりは自分の心象なのだと察して、緋勇は口の端を歪める。この世の全ては鏡だ。心が景色を冬にも春にも見せる。
 緋勇の瞳を覗き込んで、それが冬のようだと言って笑った男がいた。清冽こそがお前だと、まるで自分自身を誇るような口調で彼は笑った。共に行こうと誘ってくれた、あの声を思い出す。その言葉が自分でも信じられないくらい嬉しかったのだと、彼には伝えていない。これからも、伝えるつもりはない。

 踏み出した足を止めたのは、今では見慣れた赤毛の男だった。不機嫌そうに目付きを尖らせ、今まさに永遠の別離を心に浮かべた緋勇を睨み付ける。噛み付かんばかりの眼光につられて、緋勇も眦をきつくした。しばし無言で睨み合い、春の風に氣を乗せる。凶兆を察したのか、薄い血の色をした花が狂喜乱舞する。
 一閃、阿修羅が春を切り裂いた。剣氣が皮膚に届く寸前、緋勇の発した剄がそれを相殺する。鋭い氣が衝突し、拮抗し、絡み合い、春風を震撼させた。
 瞳は深く静かなまま、蓬莱寺が低い声で言った。

「どこ行くんだよ」
「お前には関係ない」
「卒業式、始まっちまったぜ」
「早く戻れ」
「お前が来ねぇなら、俺も行かねぇ」

凄絶な氣をその刃に滾らせながら、随分と可愛い事を言う。眼光は憎むように光を放ち、しかしその奥の切なる想いが緋勇を動揺させる。
 どこまでも共に、と細雨の降る夜に告げた唇が、花霞みの向こう側で少しだけ震えて引き結ばれた。そのわずかな動作が、彼が言葉を呑み込んだのだと緋勇に知らせる。音にはならず消えた声が、どれほど稀有なものだったのか、緋勇は想像して惜しんだ。誇り高いこの男が何かを乞うなどと、それがこの身であるなどと、今でも信じられない。

 言葉の代わりに阿修羅が唸った。剣氣を発すると同時に右足で地を蹴り、蓬莱寺が一息で間合いを詰めた。飛んできた剣氣を同質の氣で打ち消し、直後に突き出された刀先を左腕で払う。抵抗なくするりと逃げた阿修羅が、軌道を変えて胴を薙ぐ。
 緋勇の鼓動が音量を増した。いっそ貫いてくれと願いながら、迫る切っ先を制して爪先を上げる。踏み込んだ蓬莱寺の膝を軽く叩き、揺らいだ肩に掌を当てる。察した蓬莱寺が、即座に跳びすさった。骨までも砕かんと発した氣が、阿修羅を持つ腕をかすめて虚空に散ってゆく。
 蓬莱寺が微笑んだ。その真意など、愚鈍な緋勇には察せられよう筈もない。

 ぞわりと桜がおののいて、己が身を切り離して降らせる。人々が褒め称えては見惚れるそれが、つまりは樹木の死骸なのだと、緋勇はその時になって初めて気付いた。それでも、込み上げる言葉が間違っているとは思わなかった。風を斬り、花を斬り、道に散った無残な花を踏み、右手の矜持を彼に突きつける。

「京一」
「なんだよ」
「これが最後だ」
「ふざけんな」
「俺に膝を付かせてみせろ」
「言われなくたって、やってやるよ」
「そうか」
「膝っつーか、もう全身ドロドロにしてやるよ」
「そ、そうか?」
「おう、覚悟しやがれ」
「分かった」
「分かってねぇのに分かったとか言うな」

 もしかして、彼は怒っているのだろうか。ふとそんな疑問が落ちてきて、緋勇は眉を寄せた。しかしそれを口にするより早く、蓬莱寺が切っ先を上げて走り出した。地を蹴り、真直ぐに向かってくる。
 熱い手の平でも、鋭い切っ先でも、彼がこの身に触れると心臓がさざめいた。名を呼ばれて見詰められると、たまらない気持ちになった。これが最後だと覚悟して、安堵しつつも妙に寂しいのが不思議でならない。彼さえいなければ、きっと静穏でいられた。水底で息を殺すように、ただ坦懐に時を待っていられた。彼さえいなければ。
 水面を揺らした男が、阿修羅を振りかざして迫り来る。その剣筋を見切るのはたやすい。彼の闘う姿ならば数え切れないほど見た。一撃で決めようとして、次手を考えずに打ち下ろす癖は、最近では見られなくなった。絡め取られた腕を、力任せに取り戻そうともしなくなった。軸足を小突かれても、即座に重心を移動させて体勢を立て直すようになった。
 緋勇と対峙するまで、先を取られる経験などなかったのだろう。速く、誰よりも先に急所を突けば、それが勝利だと彼は信じていた。

 刀背を左腕で流してやると、逆らわず流れた。それは星の軌道のように綺麗な弧を描き、透かさず別の道を通って向かってくる。その道を教えたのは緋勇だ。力で叩き斬るのではなく、流れを利用して、無数に存在する道の一つを過たず選び取る。どの道が技を活かすのか、どの道が命を生かすのか。広い道だけが活路ではない。ほんのわずかな間隙に、勝利へと続く道がある。蓬莱寺がそれを知ったのは、緋勇と出会ってからだった。
 確信して、緋勇は満たされた。彼の技に、この心は生かされる。

 不意に、蓬莱寺が間合いを空けて動きを止めた。まだ終わりたくない。もう少しだけ。我を忘れて彼を見詰めてしまってから、自分の浅ましい姿に気付いて自制した。わだかまる熱が、出口を欲して体中を駆け巡る。
 蓬莱寺の体も昂揚している。それを押し殺して、低く声が発せられた。

「いらねぇのかよ」
「?」
「お前がいらねぇんなら、俺が貰う」
「おい待て、なんの話だ」
「俺はすげー欲しいんだよ!」
「な、何が」
「全部!」
「え、ええと、まあ落ち着け」
「だから、いらねぇんだろ?」
「何が?」
「だったら俺が貰う」

どうしよう、さっぱり分からない。阿修羅で虚空を薙ぎ、蓬莱寺は子供のように欲しがっている。だが、何を欲しているのかが分からない。どうすればいいのか分からなかったので、緋勇は距離をとったままじっと蓬莱寺を見詰めた。蓬莱寺は真正面からその視線を受け、すぐに俯き、もう一度顔を上げて、また逸らした。

「京一?」
「お前、どこ行くつもりだった?」
「特に決めてないが」
「行き当たりばったりかよ!」
「まあ、言ってしまえばそうだな」
「じゃあ俺と中国でいいじゃねぇか」
「それはできない」
「なんで」
「お前には見せたくない」
「俺を見くびるんじゃねぇ」
「なんだと?」
「隠すな見せろ、全部だ」

 ああ知っていたのかと、心のどこかで安堵する。この強大すぎる氣は、全てが終わった今では無用、むしろ害悪だ。ならば役目を終えて、あとは眠りにつくだけの短い安らぎを過ごそう。与えられたものではなく、自分で掴んだささやかなものを持って、朽ちてゆこう。
 握り締めたひとひらを、本当は彼に差し出したかったのだが。

 空を斬る音がして、阿修羅が鼻先に突き付けられた。気配は辛うじて察せられたが、制するには速すぎる動作だった。
 これが威嚇ではなく攻撃だったら、と考え、鼓動が早く、大きくなる。せめて静かに過ごしたいなどと思っていたが、この体は平穏など欲していないようだ。まだ体の奥が疼いている。あの熱い剣氣を、もっと。見透かすように、声が飛んできた。

「まだ終わってねぇぞ」

 鼻先の阿修羅を打ち払う。即座に右足を踏み出し、蓬莱寺の踵に爪先を引っ掛ける。泳いだ肩に手を置き、軽く上体を押す。そのまま倒れ込むかと思われた蓬莱寺は、しかし右手の矜持を投げ出すと、両手を伸ばして緋勇に取りすがった。まさか彼が武器を投げ出すなどと想像もしていなかった緋勇は、全体重で引っ張られてあえなく膝を付いた。
 立ち上がる隙もなく背中に腕を回されて、なんでか首に噛み付かれた。思わずビクリと肩を震わせてから、慌てて唇を引き締める。直後に今度は同じ部位をぞろりと舐められて、抱かれた背筋に怖気が走ったのを悟られまいと歯を食い縛る。それすら無駄な抵抗と嘲笑うように、耳に唇が当てられて、吐息で名を呼ばれた。
 調子に乗りやがってこの赤毛ザル、と発したつもりの声はしかし声にはならず、せめてそのうわついた赤毛を引き剥がそうと手を伸ばせば、肩口の蓬莱寺が嬉しそうに微笑むのが分かった。

「膝付いたな」
「まだドロドロになってないぞ」
「え、い、いいのか?」
「ふん、お前にできるのか?」

 ところで、「ドロドロ」というのはどのような状態を指す言葉なのだろう。立ち上がれないほどのダメージを受ける、という事だろうか。ならば、まだ終わっていない。立ち上がろうと手を付くと、両腕で首を引き寄せられた。

「これで最後とか、ふざけんな」
「ふざけてない」
「俺はそれが欲しいんだよ」
「どれが」
「だから、お前が」
「俺が?」
「だってお前、死ぬ気だろ?」
「まあ、その気はなくとも死ぬだろうな」
「ほら、いらねーんだろ?」
「いや、それは」
「だったら俺にくれよ、大事にするから」

襟を引っ張ってみても、蓬莱寺が腕をほどく気配はない。それどころか更に強く抱きすくめられて、柔らかい髪が首筋をくすぐった。抗議のつもりでその髪をかき混ぜると、背中に回った彼の両手が制服の上着を強く握った。武器を操る無骨な手が、子供のようにすがり付く。

「俺と一緒に行くって言えよ」

胸元に顔を埋めて、小さな声でささやく。こんな記憶を携えて、一人どこかへ消え失せる。そんな夢を見ていた。この手を払い、呼ぶ声にも振り向かず、眼差しから目を逸らし、どこへゆくつもりだったのか。どこへもゆけはしない。

 道が見えていなかったのは自分だったのだと、震える肩を抱きながら思い知った。
 無数に存在する道の、ただ一つ自分を生かす道。今、それが腕の中にある。












 講堂の辺りから歓声と拍手が聞こえた。どうやら卒業式も佳境に差し掛かっているらしい。その音をどこか遠くに聞きながら、緋勇は花が舞うのをぼんやりと眺めていた。
 花を見ても空を見ても、去年はこんな気持ちにはならなかった。散ってゆくのが惜しいなんて、悲しいほどに綺麗だなんて、まさかそんな感慨を抱く日が来ようとは。

 同じようにぼんやりと地面に座り込んでいた蓬莱寺が、ふと顔を上げて鋭く右手を突き出した。固く握られた拳を、はらりと花弁がすべり落ちる。それが地に到達するより早く、緋勇は座ったまま無造作に手を伸ばした。一瞬だけ静止して、ゆるく握った拳を蓬莱寺に差し出す。ほどかれた手の平には、ひとひらの淡い花弁。蓬莱寺が盛大に顔をしかめた。

「どうした」
「別に」
「これが欲しかったんじゃないのか」
「いらねぇよ」
「そうか」

与えられるのではなく、この手で掴まねば意味がない。無音の声を理解して、緋勇は途方に暮れた。
 このひとひら、どうしたら彼は受け取ってくれるだろうか。