短ランを羽織り得物を無造作にぶら提げた新入りの姿は、退屈を持て余していた少年達を狂喜させた。生意気な口調も、飄々とした態度も歓迎されたが、それ以上に彼等の幼い精神を刺激したのはその目だった。飢えているのだと、渇いているのだと、同じ飢渇を内包していた少年達は即座に理解した。
そうして催された歓迎会で、少年達は知る事となる。その新入りの飢渇が、自分達とは比べものにならないほど大きいのだという事実を。
ふりゆくものはわがみなりけり
地面に寝転がった上級生を一瞥し、蓬莱寺は入学して以来、何度も心で呟いた言葉をもう一度、今度は声に出してみた。声にしたところで何が起こるという訳でもないのだが、せめて音にして発散せねば、何かが溢れ出してしまうような気がする。具体的に何が、という確証はどこにも存在しない。それでも、正体不明の危機感だけがその幼い精神を苛んでいた。
「くだらねぇ」
そうして音という物理現象に転化された心象は、しかし明確な形を持たず風にさらわれた。音をさらった風が、心だけを残して走り去る。あとに残された蓬莱寺とその心一つは、春風に揺らぐほど柔ではない。それが悲しいなどとは思わないが、どうにも憂鬱になるのは止められなかった。
呻き声を漏らした先輩の頭を爪先で蹴り飛ばし、完全に沈黙させる。裾に自分のものではない血液が付着している事に気付いたが、歩き出した時にはもう忘れていた。髪にまとわり付く花弁を払いながら、校舎ではなく門に向かう。
昼にはまだ少しだけ時間があったのだが、朝食を抜いていた蓬莱寺の空腹は既に限界だった。夜遊びの所為で睡眠も足りていない。
欠伸をしながら校舎を横切り、次の瞬間、蓬莱寺は思わず舌を打った。建物の陰になっていたので気付かなかったが、大柄な男が一人壁に寄りかかって座っていたのだ。こんな時間に校舎裏で体を伸ばしているのだから、真面目な生徒ではないだろう。事実、男はたったいま目覚めたといわんばかりの動きで腕を伸ばし、大きな欠伸を吐き出した。一対多数の喧嘩にも興味を示さないようなので、世間に多い規律を重んじる世話焼きではないのだろうと断じて、蓬莱寺はそのまま通り過ぎようと足を速めた。その背中に、声が投げられる。
「実戦でテッカンコーを使える人間が、どれぐらいいると思う?」
「あ?」
「そもそも多くの人間は路上で蹴り技を使いこなせない」
「はあ」
「お前は地に足が着いてたな」
どうやら興味を示していたようだが、見ていたのは喧嘩そのものではなかったらしい。巨体に似合わぬ軽やかな動作で身を起こし、直立すると蓬莱寺より頭一つ分高い視線で見下ろしてきた。思わず口を開けて見上げてしまってから、慌てて口を閉じて眼光を鋭くする。切っ先にも似た蓬莱寺の視線を受け流し、その男は唇の端で笑って見せた。
醍醐と名乗ったその男もどうやら腹を減らしているようなので、発見したばかりのラーメン屋を教えてやった。カウンターに座り、何も言わずに麺をすする横顔をちらりと見遣る。黙々と食事を続けるのも味気ないと思い、会話の糸口を探して提示してみた。幸い、先程の上級生達と違って言葉は通じそうだ。
「テッカンコーってムエタイだっけ?」
「そうだな、首をとるハイキックだ」
「あー、さっきの奴それ狙ってたのか」
「少しばかりかじってたようだが、あの間合いじゃ無理だろうな」
「うん、変な間合いの取り方するから気持ち悪かった」
そのままハイキックを得意とする格闘家の話で盛り上がり、世界が放課後と呼ばれる時刻になった頃には別れを惜しむまでになっていた。
一度学校に戻って部室のシャワーを無断で使い、ポケットに入れたままだった小さな袋を思い出した。吸えば少しの間だけ憂鬱を忘れられる、という触れ込みの粉薬だ。一度だけ試して、それ以来ずっとポケットに入れっぱなしになっていた。何度か洗濯もしたのだが、密封されたビニールは破けなかったらしい。親に気付かれなくて良かった。
今まで着ていたシャツで髪を拭きながら、蓬莱寺はそれを醍醐に見せてみた。予想どおり、彼があからさまに顔をしかめる。冗談だと主張する為に笑みを浮かべ、そこそこの代金を支払って得たそれを排水溝にぶちまけた。蓬莱寺も、こんな物には期待などしていない。「いいのか?」と分かっているくせに訊いた醍醐に、答える代わりにタックルした。その行動に深い意味はなかったのだが、醍醐は気に入ったらしい。嬉しそうに笑って反撃してきた。
二人の髪が乾いた頃、醍醐が視線も合わせずに変なたとえ話を持ち出した。なんでもない雑談を装いたいのだと察し、蓬莱寺も特に気構えずに軽く相槌を打つ。
「たとえば、だ」
「うん」
「知り合いが人を刺したら、どうする?」
「どうして刺した?」
「それは、まあ、憎かったから、じゃないか?」
「ふうん、まあでも餓鬼がけーさつから逃げ切るのは無理だろうしな」
「自首するように言うか?」
「んー、いや、それは言わねぇと思う」
「そうか」
「助けてって言われたら別だけどな」
「言われたら、どうする」
「・・・言われても」
返答に窮した蓬莱寺の顔を見て、それから上方に視線を転じて、ほんの少しだけ悲しそうに悔しそうに唇を噛み、醍醐はまるで雑談を続けるような口調で言った。
「変な話を持ち出して悪かった、忘れてくれ」
「無理だろ、助けるとか」
この話題を終わらせたいのだろうと感じたが、思った事を言ってみた。醍醐はそれに少しだけ驚いたような表情をして、次に苦い物を口いっぱいに含んだような顔で「そうだな」とだけ言った。
明らかに実話である事が推し量れる例え話だったが、あえて追求はしなかった。蓬莱寺にも経験がある。唐突にしかつめらしい顔の男が話しかけてきて、知人についてつまらない質問をされた事も多々ある。勿論その逆もあった。「訊かれたけど話さなかった」などと恩着せがましく言われた記憶もある。その知人の中には、未だ病院ではない施設に入院中の者もいた。自分の言動が、彼の自由を奪ったのかも知れない。
夕飯は何を食おうかな、という程度には、蓬莱寺にもそのような事を考える時があった。そして、かつて隣に立っていたその人と会う事は二度とないのだろう、とも漠然と感じていた。それが寂しいなどとは思わないが、やはり憂鬱は留まり続けている。
もしかしたら、と、空腹に気を取られながらもぼんやりと思う。この心が沸き立つ事など有り得ないのではないか。我を忘れて叫ぶ事も、引き裂かれるように心が痛む事も、夢中で何かを追いかける事も、自分には何一つ。
思ったが、やはり心は凪いでいた。自分の命も他人の命も等しく無価値だと、静かなままその事実を受け入れた。
活動を終えた部員達が帰って来る前に、二人は再び校門をくぐった。ふとその足を止め、蓬莱寺が視界の端に入った人物に顔を向ける。友人と歩く清楚な姿に、「美里だ」と小さく呟いた。耳ざとくそれを聞いた醍醐が、からかうように片頬を歪める。
「なんだ?気になるのか?」
「だって美人じゃねぇか」
「まあ、それはそうなんだが」
「俺、あーゆーお嬢様っぽいの好き」
「そうか?俺はどちらかと言うと元気な方がいいな」
「へえ?」
「明るくて溌剌としてた方が、気を遣わなくていいだろう」
「ふーん、それって俺じゃね?」
と言った瞬間、醍醐が物凄く嫌そうな顔をした。肯定されても困るが、そこまで心底から嫌そうな顔をされるのもそれはそれで傷付く。しかも溜息をつきながら、いたわるように頭を撫でられた。これはつまり、喧嘩を売られたと判断して間違いないだろう。蓬莱寺は遠慮なく持っていた得物を振り上げた。
相手を否定する以外の目的で得物を振り上げたのは、もしかしたら初めてだったかも知れない。だいぶ時間が経ってから、蓬莱寺はそんな事を考えた。
暮れかけた街を歩き、ふと憂鬱を思い出した。夕方はいけない。特に春のたそがれ時は、心が過去を引いてくる。急に孤独が恋しくなって、蓬莱寺は隣を歩く男を見上げて言った。
「じゃあな、醍醐」
「ん?帰るのか?」
「んー、どーすっかなー」
「そういえば眠いとか言ってたな」
「うん、ああ、そーだな、ちょっと眠い」
指摘されて、眠気も思い出してしまった。丁度良く隣にあったぬくもりに額をすり寄せて、蓬莱寺はそのまま目を閉じた。まさかこの場で眠りに落ちるなどと想像もしていなかった醍醐が、慌てて脱力した体を支えようと手を伸ばす。硬い手の平に頬を叩かれたが、痛みは感じなかったので無視した。お前って優しいんだな、と、眠ったまま囁く。彼の耳には届いただろうか。別に届かなくても構わないのだが。
ざわめく気配に意識を引かれ、重い目蓋を持ち上げる。醍醐の顎が見えた。その後ろには、おぞましいほど満開の桜。目を開けた蓬莱寺に気付き、醍醐が少しだけ安堵したような表情で笑った。硬い枕が醍醐の大腿だった事を認識して、蓬莱寺がまだ眠気の残る口調で呟く。
「寝違えそう」
「他に何か言う事はないのか?」
「ここどこ?」
「中央公園」
身を起こすと、自分の物ではない上着が落ちた。それを拾い上げて、もう一度醍醐を見上げる。彼は何故だか知らないがタオルを持ち歩いていたので、シャワーを浴びた際も衣服を濡らす事はなかった。素肌に上着だけ羽織っていた事を思い出し、体が凍えている理由にも思い当たった。「足が痺れた」と言いながら立ち上がった醍醐に、礼と上着を差し出す。だが、彼は視線も合わせずそれを拒んだ。
「いいから着てろ」
「おっとこまえだな大将」
「惚れるなよ」
「いや、これは惚れるだろ」
「勘弁しろ」
まだ寝惚けているような口調でふわふわと視線を漂わせる蓬莱寺に、醍醐が不審の目を向けた。「入れてるのか?」と、主語を濁したまま問いかける。薬の事だと察し、素面だよ、とそれに返した。まだ疑わしげな目で見てくる醍醐に、信じて欲しいと不意に思った。誰にどんな目で見られても気にならなかったが、この男にだけは信頼されたいと、雷光が閃くような唐突さで思った。腕を引き、彼の視線を自分に向けさせる。
「ほんとに、やってねぇ」
「そうか」
「ずっと前に一回だけやったけど、それっきりだ」
「ああ、分かった」
「信じたか?」
「信じたよ」
少々呆れた顔をしながらも、醍醐は真摯に頷いた。満足して、腕を解放する。変な奴だな、と笑った顔には、嫌悪も侮蔑も含まれていない。夢の中から引きずってきた憂鬱が、少しだけ遠ざかった。
すぐに立ち去るかと思った醍醐は、まだじっと宵闇に佇んだまま蓬莱寺を見ている。それに視線で疑問を返すと、軽く肩を竦めて醍醐が苦笑した。
「なんだよ」
「放っておいたら何をするか分からないからな」
「俺が?」
「お前以外に誰がいる」
「別に、なんもしねぇよ」
「何かないのか」
「?」
「何がしたい、とか、そういう事は」
首を傾げた蓬莱寺に、醍醐は大人が子供を憐れむように悲しそうな表情で笑って見せた。憂鬱が集まってくる。視界の端にちらつく花が、つどった憂鬱を降らせる。風が心に入らぬよう、蓬莱寺は上着の前を掻き合わせた。それでもまだ足りないと感じて、座っていたベンチに踵を乗せて、膝を両腕で抱き締める。
立ち去るべきか留まるべきかで逡巡していた醍醐の後ろで、複数の足音が鳴った。足早に通り過ぎるのではなく、こちらに意識を向けている。低く何事か囁き合い、一人目の男が醍醐の間合いに足を踏み入れた。
顔を庇いながら跳びすさった醍醐の腕から、少量の血液が滴った。切り裂かれた白いシャツが、綺麗な鮮血に染まる。金銭が目的か、或いはただ血が見たいだけの酔っ払いか、どちらにしろ平和的な解決は望めそうにない。背後に座っていた、春宵の如き緩やかな男を振り返る。だが、一瞬前までは確かにそこにいた蓬莱寺は忽然と姿を消していた。訝しむ暇もなく、背後で物騒な音が高らかと鳴り響く。醍醐は思わず額を押さえて嘆息した。
まずは目的不明の不埒者を二人がかりで地面に転がし、まだ木刀を振り回している蓬莱寺の襟首を力任せに引っ掴む。不満そうな声が上がったが、気にせず全速力で走り続けた。
駅とは反対方向の公園入り口まで来た辺りで、漸く二人は足を止めた。正確には、醍醐が止まったので蓬莱寺も止まらざるを得なくなった。まだ掴まれていた襟を振り払い、刃のような瞳で醍醐を見上げる。
「まだ生きてたぜ、あいつら」
「自力で起きられないほど殴ったら警察沙汰になる」
「怖いのかよ」
「ああ、怖いな」
「・・・そっか、ごめん」
非道な狩りをする分際で、まさか警察に訴えるとは考えにくい。だが善良な通行人が、道端で眠る彼等を心配するあまり通報でもしてしまったら、そして眠ったまま彼等が病院まで運搬されてしまったら、その時点で犯罪が成立する。それを理解した上で、蓬莱寺は得物を振り下ろしていた。だから醍醐が怖いと言うなら、純粋に悪い事をしたと、そう思う。正気の目でそんな風に語る蓬莱寺に、醍醐は何も言えずに目を逸らした。
命の価値など幻だ。そんなものに意味はない。たいらかに言い放つその心を、醍醐も知っていた。
「一匹、逃げてったしな」
「逆恨みされてないといいんだが」
「そしたら俺が守ってやるよ」
ふわりと笑ってそんな事を言う蓬莱寺が、夜の花よりなお危うく見えた。
家に帰ると言って花の散る道をゆらゆらと遠ざかっていった背中を、醍醐は数年が過ぎた後も忘れられなかった。そのまま花に紛れて消え失せてしまうのではないかと思った心を、彼を親友と呼ぶようになってからもずっと記憶の片隅に置いていた。
憂うのではない。
寂しいのではない。
悲しいのではない。
ただ、春なのに寒かった。
それだけを、いつまでも忘れられずにいた。
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