葉佩が教室に入るなり、不気味な人形を手にした八千穂が言った。

「九チャンは何になる?」
「え、ええと、世界一の《宝探し屋》になる」
「そんなの、いつもと一緒じゃない」
「じゃあたまには盗賊王とか言ってみる」
「フランケンシュタインとか、どう?」

その隣にいた七瀬が、真剣な面持ちで「正確にはフランケンシュタインの怪物ですが」と訂正してくれた。死体を繋ぎ合わせた悲劇の怪物。ヴィクター・フランケンシュタインとはそれを作り出した人間の名であって、醜悪な怪物には呼び名すら与えられなかった。八千穂にしては迂遠な皮肉だ、などと一瞬だけ意地の悪い事を考えつつ、そんな卑屈な思考など一片たりとも表情には出さず笑顔を作る。

 要するに、外国の宗教行事を可愛らしく安っぽくアレンジして楽しもう、という企画だ。文化祭も近いというのに、その無尽蔵とも思えるバイタリティは、葉佩にはとても魅力的に感じられた。
 教室の隅では、皆守が我関せずを全身で表現する為か机に突っ伏している。跳ねた後頭部の毛先にオレンジ色のリボンが結わえられている(八千穂の悪戯だろう)事から推察するに、どうやら本気で寝入っているようだ。
 きっとハロウィンの起源もそれにまつわる様々な説も知っているのだろう七瀬も、ただの遊びと判断して楽しむ事にしたらしい。葉佩も、莫迦騒ぎは嫌いではない。

「それで、仮装して何するの?」
「何?って、えっと、ねえ月魅、ハロウィンって何するの?」
「そうですね、火を焚いたり」
「焚き火かぁ、校庭ならだいじょぶかな?」
「悪霊を追い払ったり」
「九チャン、悪霊にする?」
「お菓子とかは?」
「あ、そうだよハロウィンっていったらお菓子だよね!」
「じゃあ俺、お菓子係やるよ」

葉佩のその提案に、八千穂は大喜びで賛同した。甘いレシピをいくつか思い浮かべながら、楽しそうにハロウィンの仮装について相談をする八千穂と七瀬を眺める。
 不意に、突っ伏していた皆守が小さな声で言った。

「何が楽しいんだか」
「うん、不思議だよね」
「さっぱり分からん」
「考えるって大事だよね」
「あ?」
「なんの生産性もない、物理的には得る物どころか無駄にしか思えないのに」
「・・・」
「なんでこんなに楽しいんだろう。なんでだと思う?」

 楽しくて、嬉しくて、たったこれだけの事で、どうしてこんな奇跡のような気持ちになれるのだろう。葉佩としては喜びを表現する為の言葉だったのだが、皆守は「ひねくれ者が」と小さく囁いて皮肉げに唇を歪めた。ひねくれ者はどっちだ。

 どうして空は青いのか。どうして砂糖は甘いのか。どうして虫は鳴くのか。どうして花は香るのか。どうして火は熱いのか。どうして高い所が苦手な人とそうでない人がいるのか。どうして血の匂いを嗅ぐと吐き気がするのか。どうして信じる神が違うだけで分かり合えないと初めから諦めてしまうのか。どうして自分を生かそうとするのか。
 幼い頃から、疑問は止め処なく湧き上がった。既に誰かが解を見出しているものもあった。未だ誰にも認識されていないものもあった。普遍的な疑問もあった。個人的な疑問もあった。葉佩にとって、それらは等しく、必ずどこかに解が存在する思索の到達点だった。
 葉佩がこの時に得た疑問は、実のところ幼い頃から胸中に存在していた疑問でもある。疑問には、すべからく解答が与えられるべきだ。葉佩はそう信じていたし、またそのように生きてきた。だから怠惰な隣人が同じ疑問を抱いた事で、解答への道が多少なりともなだらかになったのではないかと期待して嬉しく感じたのだが、皆守は思索を早々に放棄して再び机に突っ伏した。がっかりだよ。
 何度かなぞった道程を、ゆっくりと言葉に変換する。

「共同作業って楽しいよね」
「ほお、お前はそうなのか」
「それは何故か?」
「さあ」
「人間は群で行動する生物だよね」
「そうだな」
「集団は個人よりもより大きな行動力を有する」
「カレーは」
「つまり、多人数で行動すると、一人よりもできる事が増える」
「辛すぎてはいけない」
「外敵からの危険も減るしね」
「だからって」
「より強く、なめらかに連携する事で、その行動域は飛躍的に広がる」
「甘いのは論外だ」
「だからさ、きっとみんなで何かするってのは」
「適度。それが難しい」
「選択肢を増やすって事なんだ」
「お前にはそれが分かるのか」
「みんなでやるってのは、自由って事さ」
「個人の意思と集団の方向性が違ったらそれは不自由だけどな」

どこか破綻した二人の会話は、そこで終わった。視線だけを動かして皆守を見下ろす。皆守は自分の腕を枕にして目を閉じていた。やっぱこいつ嫌いだ。
 始業の鐘が鳴り、慌ただしくも静粛な空間が徐々に広がる。あとでヒナ先生も誘おっか、と、八千穂が小声で囁いた。どうしてこんな些細な事で、こんなにも心が躍るのか。つくづく不思議だ。いつか解明してやる。

 昼休みになって、意識を取り戻した皆守がふらりと教室を出ていった。それを追って、葉佩も教室を出る。後頭部でひらひらと揺れるオレンジ色のリボンを見失わぬよう、数歩分の距離を置いて後をつけた。察しているのかいないのか、皆守は振り向きもせずに時々壁にぶつかりながら歩き、売店でカレーパンと缶コーヒーを購入し、階段を上る。
 予想どおり、皆守が辿り着いたのは屋上だった。いつもの場所に座り、カレーパンの包装を破いてから、視線は手元に落としたまま「なんか用か」と呟いた。

「皆守は仮装しねーのかなーと思って」
「気が向いたらな」
「リボン取らねーの?」
「は?」
「ここ、リボンついてるよ」

葉佩が自分の後頭部を指差しながらそうい言うと、皆守は慌てて髪に結わえられたリボンを引っ張った。するりと抵抗なくほどけたリボンが、親指と人差し指に挟まれて風に揺れる。顔をしかめてそれを眺め、皆守は「いつの間に」と吐き捨てた。

「朝からずっと」
「早く言え」
「言っただろ」
「遅いんだよ」
「皆守はおまつりって楽しくない?」
「あんまり好きじゃないな」
「それは、集団の方向性と自分の意思が違うから?」
「まあ、だいたいそんな感じだ」
「じゃあ皆守はどこに向かってんの?」
「静かであったかくて薄暗い方」
「ふうん」

刺激が少なく、睡眠に適した状況を望んでいるのか。眠りたいという事は、つまり死にたいとよく似ている。死んだ方が楽だという考えは、葉佩にも理解できる。それでも生きているのは何故だろう。共感や接続を望み、自分の欠片を残したいと思うのは何故だろう。利己的な遺伝子の為せる業だろうか。肉体も神経も理性も思考も感情も、全ては自己の情報を残す事を目的として存在している。

「消えてなくなりたい?」
「できたら最高だな」
「《墓》を守りたい?」
「まあ、可能な限り」
「俺を殺したい?」
「ちょっと待て」

浮遊するような思索の快感を阻害され、不機嫌を顔で表現しながら皆守を見る。皆守は食べかけのカレーパンを握り締めて、左右非対称の変な顔をしていた。片頬が引き攣っている。握り締められて圧迫されたパンから、カレーが少しだけ零れた。零れたカレーが床に落ちる前に、葉佩が手の平を差し出してそれを受け止める。

「カレー落ちたよ」
「お、おお、助かった、ありがとう」

と言って、皆守はそのカレーが付着した手を掴んで自分の口元に引き寄せた。つまり、葉佩の手を掴んで口に運んだ。なんのためらいもなく指を口に含まれ、葉佩は思わず叫んだ。叫ぶだろうこれは。むしろ叫ばない方が不思議だ。それなのに、皆守はまるでその悲鳴が前触れもなく突然に響き渡ったかのように驚いて葉佩を見た。カレー以外は意識に入っていないのだと察して、葉佩が掴まれた手を取り戻して戦慄する。
 濡れた手をどうする事もできずに持て余しつつ、熱かった柔らかかった湿っていたと、指先の拾った情報が脳内を走り回るのを呆然と見詰める。唾液の水分が気化して冷えている筈なのに、熱く感じたのは何故だろうと考える。口内が熱かったから、その感触が残っているのだと結論づけて、葉佩は吹き飛んだ思考力を探し出して定位置に置きなおした。しかし本当にそこが定位置だったのかは分からない。

「み、皆守は、カレーが好きなんだなぁ!」
「そうだな、まあ嫌いじゃない」
「否定形で言うのやめようぜ!大好きだろ!そうだろ!大好きって言え!」
「なんで表現方法まで指定されなきゃいけないんだ」
「カレーって美味いよねぇ!」
「そうだな、まあ不味くはないな」
「あ、それでね、話を戻したいんだけど」
「おう、いくらでも戻せ。カレーの話だったか?」
「戻ってないよそれ!」

H.A.N.Tが心拍数の上昇を告げているのは無視して(分かってるからいちいち言うな!)、阻害された思索を引き戻した。彼方に飛んでいった思考をどうにか引っ張ってきて、多大なる労力を要して言葉に変換する。

「皆守はさ、《生徒会》なんだよね」
「え、お前にそれ言ったっけ?」
「言ったか言ってないかぐらい憶えてろよ!言ってないよ!」
「なんで知ってるんだ」
「見てりゃ分かる!《宝探し屋》舐めんな!」
「そうか、そんなに俺が好きなのか」
「どうしたのお前!なにその結論!どっから出てきた!」
「だってお前もカレーが好きなんだろ?」
「え、ええと、まあね」
「じゃあ俺も好きだろう」

どうしよう意味が分からない。駄目だ諦めるな俺。答えはいつだって探し出されるのを待っている。不可視という檻を抜け出して、自由に思索される時をずっと待ち望んでいる。待ってろよ答え、俺が必ず見つけ出して解放してやるからな。泣きそうになりながら見えない何かに語りかける葉佩を、皆守はぼんやりと眺めている。

「で、《転校生》であるお前とは対立する立場にある訳だが」
「ああ、うん、そうだね」
「それで?」
「ええと、それで、じゃあ、今のうちに殺しとこうかな、と」
「うん、賢明だな」
「あ、でもね、それだと俺はちょっとつらいんだ」
「《宝探し屋》が秘宝を目前にしてためらうのか」
「だって、皆守は」

そこで言葉が途切れた。適切な言葉が自分の語彙集に見当たらなかったからだ。皆守は、なんだろう。友人だから。ちょっと違うような気がする。好きな人だから。確かに好ましく思っているが、秘宝の魅力には比べるべくもない。彼が言ったように、秘宝を目前にしてためらう理由は、葉佩の認識できる範囲には存在していなかった。
 途切れた言葉の続きを、皆守はカレーパンを咀嚼しながら待っている。それでも急かしたりしないのは、彼が優しいからだろうか。それとも、どうでもいいと思っているからだろうか。

「まあ、カレーをくれるなら付き合ってやらない事もない」
「どこに?」
「莫迦騒ぎ」
「あ、ああハロウィンね。あれ?どこまで戻っちゃった?」
「ご馳走を貰えなかったら悪戯できるんだろ?」
「そ、そうらしいね」
「期待してるぜ」
「何を?」
「ご馳走」
「ああ、うん、期待してて、美味しいの作るよ」
「それは楽しみだ」

 たった一言で、思考が跡形もなく弾け飛んでしまうのは何故だろう。ずっと解明したいと思っていた謎でさえ、見るも無残に色褪せる。命すら懸けて追い求めている闇の深奥に眠る真実さえも、彼や彼女の発する些細な言葉で価値を失う。
 ひねくれ者とは、何度も言われた。疑問を口にする度に、人は口々に葉佩を嘲った。なんでどうしてと言う度に、可哀想な奴だと笑われた。楽しかった記憶がお前にはないのか。家族や友人と過ごした幸福な日々を、お前は持たないのか。そんな風に言われて、もしかしてこれは、自分では永遠に解明できない謎なのかと絶望しそうになった事もある。それは思索では到達できないものだと言われて、悲しくて悔しかった。

「何が楽しいんだろーなー」
「さあな」
「ぜってー解明してやる」
「お前まさか、本当に分かってないのか?」

 疑問は、葉佩と世界を断絶する。それでも繋がっていたいと思うから、葉佩は考えるのだ。なんでどうしてと性懲りもなく口に出しては、笑われても蔑まれても疑問を思索し続けるのだ。
 本当に存在するかも分からない秘宝よりも、困難と辛苦に満ちた古代から続く誓約よりも、優しい彼や彼女が自分を奮い立たせるなどと、葉佩は想像すらしていない。それは自分自身を裏切る行為だからだ。誰に笑われても蔑まれても、ただ一人自分だけは自分の味方だった。その誇りを踏みにじるなんて、たとえ自分でも許さない。
 目の前に広がる世界をただ愛しむ自分の姿も、ましてや隣人が興味のない素振りでいつか見出されるであろうその姿を待ち望んでいる事など、葉佩にはまだ思いも寄らない。