今夜も葉佩が歌っている。歌いながら大腿に差してあったナイフを抜き、逆手に持って振り下ろす。返り血が目に入らぬよう顔を背けはしたが、瞳は事切れる異形に向けられている。荒くなった呼気に混じって、唸るような歌が聞こえた。
葉佩が歌うのは何度か目にしたが、音楽を聴いているところを目撃した記憶はない。彼は着メロすら設定していない。幼い頃に、身近にいた人が歌っていたのだと、そんな話を聞いたような気はする。だから歌詞もメロディもうろ憶えらしい。時々小耳に挟んだCMソングを口ずさんでいるのも見かけた。最近ではマミーズの歌もよく歌っている。
歌っていると楽しくなる。とは葉佩の言だ。皆守にその気持ちは分からないが、血まみれでも楽しくなれるというからその効果は絶大なのだろう。分かりたくないが。
「楽しくなる」とは、つまりそれ以前は楽しくない状態にある、という事ではないか。本当に楽しいのなら、わざわざ下手な歌を隣人に聞かせてまで楽しくなる必要はない。だから皆守は思う。彼が歌うのは、現実が楽しくないからだ。そこまで考えて、皆守は少しだけ安心する。こんな状況を心の底から楽しめるような人間は、きっと本当に狂っている。だから葉佩は正常だ。
石の壁にもたれてうとうとしつつ無為な思考をもてあそんでいたら、唐突に葉佩が振り向いた。
「皆守!」
「ほっとけ」
「楽しんでる?」
「ああ、とても」
「嘘つくなよ!」
「ばれたか」
肩で息をしつつ、葉佩が笑う。頬を伝う赤い液体が、返り血ではなく彼の体内で生成された物だと察した瞬間、無意識に手が伸びた。様々な要因で汚れた頬に親指で触れ、かさぶたになりつつあった血痕を爪でこする。指先に移った血を、自分の唇に運ぶ。舌にそれをこすり付けて、即座に唾液と混ぜて吐き捨てた。
皆守のその動作を不思議そうに眺めていた葉佩が、困ったように眉を下げる。
「皆守、腹減ってんの?」
「いや」
「俺の血、まずかった?」
「味が分かるほど入れてない」
「腹減っても俺は食わないでね」
「約束はできないな」
「皆守は食うとこ少なそうだね」
「残さず食べろよ」
そう言って皆守が口の端だけで笑って見せれば、さも嬉しそうに葉佩も笑う。喉の奥でくつくつと音を立て、まだ右手に持っていたナイフを手の平でくるりと回す。刃に付着していた化人の体液が小さく飛び散った。
次の部屋に向かう葉佩は、口中で呪文のように歌っている。早口で聞き取りづらいが、どうやら日本語ではないらしい。呟く声が歩調に合わせてだんだんと速くなり、扉に到達した時には32ビートになっていた。開錠済みの扉を開き、着地と同時にまた速度が上がる。
「皆守!」
「うるせぇ」
「お前も歌えよ!」
「なんで」
「楽しくなるから!」
「そんな事しなくても俺は充分楽しいから気にするな」
「マジで!」
走る速さでリズムを刻み、葉佩は壁にぶち当たってから皆守を振り向いた。皆守は、走り出した葉佩を追うのはもう諦めている。狭い部屋の端と端で、一人は叫び、一人は囁く。部屋に入るや否やうごめきだした化人たちが、銃弾に撃たれて奇声を発した。その声と唱和するように、葉佩が甲高い声で喚きたてる。銃声と奇声と歌声が壁に反響して、耳障りな事この上ない。硝煙が立ち込める中、葉佩は昼間の教室で戯れているような顔で言った。
「皆守!楽しいな!」
「それは何よりだ」
「皆守は?」
「俺も楽しくて今にも倒れそうだ」
「それは何より!」
「なので倒れます」
と言って壁にもたれて床に座り込むと、葉佩がまるで心配するような表情で覗き込んできた。両手で耳を塞いで目を閉じる。そうすると、少しだけ心が静かになった。まどろみには、まだ遠いのだが。
葉佩が「まあいいや」と呟いて、また歌いだす。歌いながら爆破して壊した床の穴に飛び込み、すぐにまた顔を出した。部屋の隅でうずくまった皆守を跨いで部屋を出て、扉は閉めずに遠ざかる。歌声も遠ざかり、皆守はまるで彼を永遠に失ってしまったかのような寂寥感に襲われた。胸が苦しい。心臓が締め付けられるようだ。
発信源が遠のくと、大音量で奏でられていたメロディが少しだけ聞き取りやすくなった。耳を澄まし、やっと気づいた。皆守は、この歌を知っている。たしか音楽の授業で聞いた(聞き流した)歌だ。
「Hallelujah,
For the Lord God Omnipotent reigneth,
Hallelujah!」
神を褒め讃えよ
玉座に在りし全能なる我が主
讃えよ神を
思わず笑った。あの男が歌っている時点で既に冒涜ではないか。呪詛にも等しい行為ではないか。声を出して笑った。歌われた大いなる存在など信じていないくせに。冷たい床に頬をくっつけて、腹を抱えて笑った。それを呪う行為すら、無駄だと嘯いて鼻で笑うような男のなのに。
葉佩はまだ歌っている。爆音のドラムと銃声のコーラスが深閑を引き裂き、呪歌に花を添えた。
「King of Kings, and Lord of Lords,
and He shall reign for ever and ever,
Hallelujah!」
あらゆる国に君臨せし、王を統べる王
終いえる事を知らぬ君が代
神を讃えよ
どの口で。呼吸すらままならず、これはもしや彼の策略なのかと笑い転げながら思う。窒息死させる気なのだろうか。
高速で破壊するハレルヤが奥の扉に消えて、再び徐々に近づいてくる。皆守はまだ笑っていた。戻ってきた葉佩が、困惑した瞳で見下ろしている。引き攣った声で、皆守はどうにかこの衝動を言葉にした。
「おまっ、ばっかじゃねぇの!」
「え、なに?」
「っつーかばかだな!」
「そ、そーかな」
「俺を殺す気か!」
「え、いや、まだ殺さないつもりだけど」
本気で戸惑っているらしい表情に、もう堪えきれなくなって床を叩く。そういえば、自分も幼い頃に「もろびとこぞりて」などと意味も分からずに口ずさんだと思い出す。幼稚園児に文語体の歌など理解できる筈もない。それと同じだ。葉佩に「ハレルヤ」などと理解できる道理もない。
ひとしきり腹を抱えて転げ回り、涙まで出てきた目を指でこする。正気の目で、葉佩はそれを冷たく見下ろしていた。
「・・・あー笑った」
「うん、すげぇ笑ってたな」
「もっと歌えよ葉佩」
「お前も歌えよ」
「おお、いいぜ」
応えて笑うと、葉佩が走り出した。負けじと皆守も床を蹴る。靴底で床を叩き、最速のリズムを刻む。
歌詞はほとんど知らないので、でたらめに大声を張り上げた。上げた声は硬い石の壁に弾かれて、反響して自分に返ってくる。誰にも届かず消えてゆくだけの叫びを、何度も壁に叩きつけた。意味などない。あってたまるか。
Hallelujah!Hallelujah!Hallelujah!Hallelujah!
Hailstorm!Hallelujah!Hallelujah!Hallelujah!
Hallelujah!Hailstorm!Hailstorm!Hallelujah!
Hallelujah!Hallucinant Hallelujah!Hallelujah!
Hallucinant Hallucinant Hallucinant Hallelujah!
Hallelujah!Hailstorm!Hallelujah!Hailstorm!
Hailstorm!Hailstorm!Hallelujah!Hallelujah!
Hallelujah!Hailstorm!Hailstorm!Hallelujah!
Hallelujah!Hallucinant Hallelujah!Hallelujah!
Hallucinant Hallucinant Hallucinant Hallelujah!
Hallelujah!Hailstorm!Hallelujah!Hailstorm!
Hallucinant Hallucinant Hallucinant Hallucinant
疲れ果てて、地上へと続くロープの前に寝転んだ。硬いのも冷たいのも気にならない。頭の奥がじんわりと痺れている。星も見える。最高だ。きっと明日には死にたくなるに決まっているが、今は最高だ。
すぐ横で同じように寝転んだ葉佩が、嗄れた声で囁いた。彼もいろいろなもので汚れている。
「な?楽しいだろ?」
生きるって。
|