訪れる気配のない眠りを待ち続けるのはやめて、夢幻を追って部屋を出た。何かを期待していた訳ではない。ただ、待つのにも逃げるのにもうんざりしていた。いっそ壊れてくれないものか。
煙を月夜に溶かしつつ、皆守は散漫と揺れる心を遊ばせていた。
物音はしなかった。黒い影が闇から這い出してきて、皆守に微笑みかけた。左肩にはライフル、右手には中国酒の瓶を携えて、黒い影はいい夜だねと囁いた。同意はせずに、目を逸らして煙を吐き出す。影は小さく声を立てて笑った。
右手の瓶を口に運んで、その中の液体を口に含み、ゆっくりと嚥下して、影がふうと息をつく。
「酔っ払ってんのか」
「まあね」
「仕事中じゃないのか?」
「もう終わった」
「ふうん」
「ここでの仕事は、もうない」
「そうか」
「だから、祝杯」
そう言って、影は皆守に向かって瓶を差し出した。喜びを分かち合おうとでも言いたいのか、それとも共犯者を欲しているのか、あるいは深い意味などないのだろうか。その心の一切を知らせず、影はゆるやかに微笑む。
差し出された瓶を受け取り、口に運ぶ。燃えるような液体が、喉を通って腹に落ちた。
「うまい?」
「さあ、よく分からない」
「所詮は餓鬼か」
「黙れ年齢不詳」
「大人になったらきっと分かるよ」
「年を取ると味覚が鈍くなるんだってな」
「へえ、そうなんだ」
「鈍磨しないと生きられないんだろ」
「まあ、石だって丸くなるしね」
「そうだな」
「割れると鋭くなるけどね」
「ああ、まあな」
なんて無意味な会話だと思わないでもなかったが、今はその無意味が心地好かった。何も為さず、何も残さず、ただ幻のように去ってゆくこの影のような男が、心地好かった。
東京は夜も暑いねと言って、皆守の手から断りもなく酒瓶を奪い、影がまた微笑む。風のない熱帯夜のような、とろりと寂しい笑みだった。
「割れると鋭くなるんだよ」
「そうかよ」
「お前は鋭いね」
「そうか?」
「うん、だって俺に気付いた」
「気付いたっていうか、隠してたのか?」
「お前以外は気付いてないよ」
「俺は、別に、偶然に」
「壊れてるから俺が見えるんだよ」
「ふうん」
そもそも意味がないのだから、それを問うのも愚かしい。しかし夏の夜は、人を愚かにさせるのだ。皆守は意味を問う代わりに影の右手から酒瓶を取り上げて、喉を鳴らして灼熱の水を飲み込んだ。熱い。くらくらする。
「強いなお前」
「ああ、まあな」
「将来が楽しみだ」
「俺に将来なんてない」
「そう思いたい気持ちも分かるけど」
「分かるなら何も言うな」
「お前は死なないよ」
「なんで」
「強いから」
理解など端から求めていないのだと、皆守はもう理解していた。この夜に必要なのは、理解ではない。影が小さな火に照らされた。ふわりと苦い煙が香る。
真夜中の墓地で、声をひそめて酒を飲む。滲んだ月が歪んで見えた。この夜のように、世界は終わるのだろう。
「お前が強いのは、壊れてるからだ」
「まあ、否定はしない」
「そのうち終わると本気で思ってるからだ」
「思ってるっていうか、終わるだろ、俺は」
「終わらないよ」
「なんで」
「まだ始まってもいない」
「何が」
「これからだよ」
「だから何が」
「お前は嘘ばっかりだ」
「そうでもないさ」
「負けるなよ」
「言われなくても」
「絶対に、誰にも負けるな」
散らかった言葉を拾い集めるのは、もう不可能なほど酔っていた。この夜は無意味だと皆守は信じていたし、世界はそのうち終わるのだと疑いもしなかった。とろりとろりと夏の夜が溶けるように、やがて世界は形を成さなくなるに違いない。
酔った頭で思い出す。生きていた頃の彼は、もっと冷静だった。不確かな未来に希望を託して、こんなにも切なげな目をする人ではなかった。
夏が終われば秋が来ると、当たり前の事をまるで預言のようにうそぶく影が憐れだった。恨んでいるのかと訊けば、覚悟はしていたと、答えではない言葉が返ってきた。
「忘れるな」
「約束はできないな」
「俺を殺したのはお前だ」
「それは、まあ、そうだな」
「俺はお前の命になるんだ」
「迷惑な話だ」
「忘れるな、お前の命はお前のものじゃない」
「たぶん忘れると思う」
影は嗤い、白み始めた空と同じ色になった。たとえ存在していても、認識はできない。
この夜の事も、酔いが覚めたら忘れるだろう。熱帯夜に誘われて、亡霊が墓から這い出しただけの事だ。たったそれだけの事が、記憶に留まる道理もない。
その日、ひとりのハンターが消息を絶った。
彼が何者に殺されたのか、誰も知らない。
|