黒い煙と赤い煙がゆらゆらと鼻先をただよう。
 ああ、またこの夢かと、皆守は目を閉じたまま舌を打った。眠りたいのに。

 安穏たる眠りは諦めて、闇の中で身を起こす。重たい視線をどうにか上げて、満月には少しだけ足りない月明かりが部屋に染み入っているのを見た。
 赤い幻が這い出てこないよう願いながら、冷たい床に足をつける。分かっていたが、冷たい。そして寒い。しかし毛布は信用できない。赤い悪夢は、いつも毛布から始まるのだ。
 手探りで上着を引き寄せる。分かっていたがこれも冷たい。暗闇で靴下を探り当てるのは諦めて、硬い床に突っ伏す。寒いし痛いし最悪だ。

 カーテンが少しだけ開いている。眠る前に閉めたはず、と考えて、眠る前の自分など信用できなかったと考えなおす。本当にこの手がカーテンを閉めたか、そもそも明瞭な記憶など初めから存在しない。
 優しくない床に突っ伏したまま、皆守は少しだけ開いたカーテンに感謝した。明かりが見える。夕暮れとは違うけれど、月の光も嫌いではない。無遠慮に差し込む陽光よりも、静寂を許してくれるような気がする。

 節々が痛んできたので身を起こした。固まった関節をゆっくりと伸ばし、奇跡的に手が届いたアロマとライターを引き寄せる。ふうと紫煙を吐き出すと、光の道がよく見えた。
 墓から這い出した亡霊が、光を避けてそっと忍び込む。長い黒髪が闇の片隅でうごめき、赤い唇がひそやかに問う。分かっているさと微笑んでから、幻と会話している現状を認識して自嘲した。

 暗闇がささやくのを聞くともなしに聞いていると、自分は本格的に狂ってしまったのではないかと不安になる。あの男は、闇と石と孤独に囲まれて、不安にならないのだろうか。それとも、そんな心も忘れてしまったのだろうか。
 紫煙の向こうに浮かんだ背中は、情熱と冷徹を体現していた。意志と覚悟と、知識と経験と、あと皆守には想像もできない何か。冷静な判断は、時に臆病にも見える。あの男は死にたくないのだろうと、ぼんやりと思う。それは正常な生命である事の証明だ。

 携帯が上着のポケットに入っていたので、時計を確認してみた。深夜というにはまだ早い時間だが、この学園では充分に深夜だ。あの男も、まだ墓の中に違いない。いっそ永遠に墓の中にいればいいのに。旅の途中で後悔しながら死ねばいいのに。俺の知らないところで。
 ようやく見つけた火種を胸に、皆守は冷たい部屋から抜け出した。

 彼は許すだろうと、今ではもうはっきりと理解している。それが苦痛なのだと、あの男はきっと理解しないだろう。












 靴を履くのを忘れたと気付いたのは、尖った小石を思い切り踏んでからだった。我が身の愚かさを嗤い、それにも飽きてまた歩き出す。
 そぞろに遊ぶ思考もそのままに、足が柔らかい土を踏む。アスファルトよりはあたたかい。そうかこれを確かめる為に裸足で来たのかと得心して、自分は狂っていないのだと安心して、誘われるままに墓地へと踏み込む。枯れ枝が老翁のように手招きしていた。

「やあ、いい夜だね!」
「誰だお前」
「知りたい?」
「いや、別に」
「俺はね、《宝探し屋》さ!」
「そうか」
「こんな事もあろうかと、待ち構えてたのさ!」
「そりゃごくろーさん」

 墓石の陰からふらりと出てきた変なゴーグルの男が、不思議な体勢で皆守の歩みを遮った。鼻と頬と耳が赤い。まるで長らく寒風に吹かれていたかのようだ。そうか狂人かと得心して、自分は狂っていないのだと安心して、くるりときびすを返す。瞬間、また男が叫んだ。

「なんで裸足なのお前!」
「靴を履くのを忘れたからに決まってるだろう」
「え、なにその当然だろ?みたいな口調」
「俺が意図的に裸足で外に出るような変人だと思ってたのか?」
「その可能性も否定する根拠は希薄だなぁと思ってたけど」
「ちゃんと喋れ」
「靴は履け、人として」
「お前に『人として』とか言われると殺意が湧いてくるな」
「え、な、なんだよいきなりー」

 何故か嬉しそうに男が微笑んだ。しかし目元はゴーグルで隠されていて、彼が本当に微笑んだのかどうかは判じ得ない。
 この男は墓の中にいたのではないのか。生命への憎悪に満ちた墓穴の奥で、存在を否定され、尊厳を奪われ、矜持を折られたのではないのか。どうしてこんなにも、と飛びそうになった思考をあやうく引き留める。

 月光と静寂と暗澹だけが許されているこの空間で、その男はあまりに異質だった。大きな声で夜を称え、嬉しそうに微笑みさえする。
 顔の半分ほどを覆うゴーグルは、闇の中でも視界を得る為の物だ。暗い道でも進む先を過たぬよう、陰に息づく危険を見逃さぬよう、わずかな光を捉えて何倍にも増幅させ、間違いなく生還する為の物だ。

「ところで葉佩」
「なに?」
「月が出てる」
「そうだね」
「失明するぞ」
「スイッチは切ってるよ」
「ちっ」
「はい舌打ちしない!」

 暗視ゴーグルはその性質上、強い光を直視すると失明の可能性がある。せめてこの男が視力を失ってくれたら、という淡い期待も打ち砕かれた。まあ、失明など軟体動物の触手で回復してしまうような男なのだが。

「スイッチも入れてないのに、なんで装備してんだ」
「俺はやっぱり、酢豚にはパイナップルが必要だと思う」
「は、所詮は《宝探し屋》か」
「なんだとぉ!」
「お前は何も分かってない」
「いーや分かってねぇのはお前だ!」
「この世には、許される事と許されない事があるんだ」
「それが酢豚のパイナップルだとでも?」
「そうだ、それは許されない」
「俺は許すよ!」
「お前が許しても無駄なんだ」
「そ、そんな事ない!」
「いや、無駄だ。どうしようもないくらいに」
「無駄じゃないよ皆守、俺は許すよ」

 特に意味を持っていなかった暗視ゴーグルを取り払って、男は真直ぐに皆守を見た。そうして宣言する。まるでそれが重大な告白であるかのように。

「世界中の誰も許さなくっても、俺は許すよ!」

 この男は、決して諦めない。どれだけ些細な事でも、望みは必ず叶える。叶わなければ、何度でも立ち上がって挑む。そんな風にできているのだ、この男は。
 酢豚のパイナップルも、彼が望むのなら、いつかは叶うだろう。パイナップルの入った酢豚を、自分で作って自分で食べるのだろう。だからどうした。

「だからどうした」
「いや、なんの話だっけ?」
「カレーの本質は、辛さではない」
「その話でもないような気がする!」
「カレーの本質とは、調和だ」
「あああ話が進んでいく!」
「辛いだけの食べ物なんて、誰が好んで食べると思う?」
「でもそれがカレーなら、少なくともお前は食べるよね」
「当たり前だろう」

 ささやかな理解と肯定が、皆守を少しだけ、ほんの少しだけあたためた。凍えた爪先は、まだ冷たい。体の全てが冷たい。それでも、心臓の近くの物質ではない何かがあたたかい。
 微笑みというにはあまりに茫洋とした目で、皆守は顔を上げた。そうすると、手にした暗視ゴーグルをポケットに入れる男が見える。
 墓の中で死んでいたはずの男が、月夜に立っていた。探索に命をかけるべき男が、その役目を放棄して、露出した末端の皮膚が赤くなるまで、この凍えた墓地に立っていた。

「葉佩」
「うん?」
「お前、何してたんだ?」
「いや、月が出てるなーと思って」
「思って?」
「お前って、月が出てると散歩するだろ?」
「そうか?」
「そうだよ、まあ雨が降ってもしてるけど」
「そうだな」
「なんとなく、今夜はお前が来るかなーと思って」

 それが答えだとでも言うように、男が口を閉じて月を見上げた。

 皆守は、裸足で出てきた事を後悔していた。冷たいし痛いし最悪だ。でも、あの冷たい部屋には戻りたくない。甘い香りのするあの部屋は、薄闇に混じって悪夢がうごめいている。でも足はそろそろ限界だ。せめて靴を履いて来ていれば、夜通し歩いていられたのに。

 仕方なく部屋に戻ろうと歩き出した皆守を、一人の男が軽やかな足取りで追いかけた。
 まるで救われたかのような気分になる。それがひどく憂鬱なのだと、彼はきっと理解しないだろう。