見えるのは、ただ荒野のみ。乾いた風が体を叩き、蓬莱寺は身をすくめた。彼の名を呟きそうになり、慌てて唇を引き締める。呼んでも応える人はいない。彼はもういない。行ってしまったから。その名を声にしてしまったら、きっと現実に押し潰されてしまうだろう。認識した現実に、じわりと鼻の奥が痛む。
 どこにも行かないでと口にしたのは、もう随分と前の事のような気がする。しかし流れた時間は、蓬莱寺の生きてきた年月に比べれば決して永いものではない。荒野の悠久を引合いに出すまでもなく、それは刹那にも等しい時間でしかない。それなのに、彼がいない時間をどうやって過ごしてきたのか、蓬莱寺はもう思い出せなかった。
 不意に、背後で人の気配がした。彼ではないと分かっているのに、一瞬だけ期待してしまった心が情けなくて、また泣きたくなる。ほぼ同時に、気遣わしげな声が落ちてきた。

「寒なってきたで」
「知ってる」
「風邪引いてまうよ」
「引かねぇよ」
「アニキに怒られるで」

咄嗟に振り向いてから、激しく後悔した。あの人を思わせる言葉に、滑稽なほど過剰に反応してしまった。まだこの心は信じていないのだと、憐れがましい自身を嘲って口の端が歪む。劉は何も言わず、ただ静かに、寂しそうに微笑んだ。
 無言のまま、ここ数ヶ月を過ごした廃屋に戻る。彼がいた頃は、崩れ落ちそうな天井も陥没した床も気にならなかった。勢いあまって穴を開けてしまった壁も、その時にはまだ笑えた。だってこいつが避けるから。そう言い訳した蓬莱寺に、彼は不機嫌な顔で、でもどこか楽しそうに息を吐いた。












 なんて綺麗な人だろう。彼の闘う姿を見る度に、蓬莱寺は思っていた。今でも思っている。
 劉いわく「本物の剣鬼」が封印されていたという場所で、緋勇はその残滓を感知した。憎悪、悔恨、怨嗟、痛嘆、悲哀、慙悸、その他のあらゆる不快な感情を、剣鬼はその岩石に、草土に、樹木に、水に染み渡らせていた。緋勇と蓬莱寺と劉の3人がいたのに、緋勇だけがそれを感知したのは何故だろう。それはもしかしたら、彼も同じ心を抱いているからではないか。しかし、彼が自分を律する意思を心にあらしめる限り、それを証明する術はない。

 それは意思ある者に認識され、名を与えられて顕現した。おぞましいほどの攻撃性が向かった先は、当然のごとく極上の器、つまり緋勇だ。
 一瞬で空間を満たした黄金の氣に、歓喜の声を張り上げたのは蓬莱寺だけではなかった。闘う姿をした緋勇に、草木に染みた怨念すらも沸き立った。勿論、蓬莱寺もただ見蕩れていた訳ではない。振り向かぬと決めた彼の背中を守るのが、蓬莱寺の誇りだ。彼は振り向かなくていい。その為に、この身と心はあるのだから。

 緋勇の掌に、膨大な量の氣が集まった。蓬莱寺はそれすらも嫉妬する。彼に触れるのは、自分だけでいい。彼を助けるのも、彼が頼るのも、彼が名を呼ぶのも、呼ばれるのも、一人だけでいい。あの人の氣になりたい、黄金色に輝いて、あの綺麗な心を守れるならば、こんなに誇らしい事はない。
 それは雑念だったのだろうか。刃と化した剣鬼が、右手の阿修羅を強く突いた。得物を取り落とすような事態には至らなかったが、一瞬だけ進む先を見失う。その一瞬が命取りになる事を、その場の誰もが知っていた。
 体勢を立て直そうと地を踏んだ左足が、苔むした石の上を滑る。哄笑を響かせながら剣鬼が眼前に迫る。握り締めた阿修羅が切っ先を上げるより早く、凶刃が皮膚に触れた。

 一陣の風が吹いた。

 そう認識したとほぼ同時に、眼前の剣鬼が霧散した。劉が、場違いに嬉しそうな声を上げる。それに応えるのは、聞き憶えのある男の声。一人は酒と煙草に焼かれたしわがれ声。もう一人は、数年前に喧嘩別れをして以来ずっと心の隅に引っ掛かっていた、あの男。道心と神夷だ。

「じいちゃん!なんでおんねん!」
「怨念と掛けてやがるのか、腕ぇ上げたな」
「なんだ莫迦弟子、こんなの相手に苦戦してんのか?」

何故か悔しがっている劉は無視して、緋勇の背後に滑り込んだ男に眼光を突き刺す。ついでに得物も突き刺す勢いで同じ場所に走り込む。集合しつつあった無数の剣鬼と一緒に散らされそうになって、耳をかすめていった切っ先に罵倒を投げつけた。

「何しやがる!」
「そこにいると危ないぞ」
「てめぇこそ!そこどけよ!」
「ここに立つなら、気を抜くなよ」
「言われるまでもねぇよ!」

仲良く怒鳴り合う二人には関心を寄せず、緋勇が地を蹴った。蓬莱寺よりも早く、神夷が同じ方向に走り出す。後れを取った蓬莱寺も、負けじと阿修羅を振り上げた。緋勇の背中に凶刃が届く前に、神夷がその愛刀をかざす。風の如く素早き抜刀で、恨めしげに鳴く剣鬼を斬り裂き、再び鞘に収める。蓬莱寺の目は、その剣筋を追えなかった。

 緋勇がその場所に走り着いた。暗き洞穴へと続く、光の当たる最後の場所。道心が不思議な韻律の呪文を唱えた。大気が鳴動する。神夷が柄に手をかけて腰を落とした。未だ鞘に収められた白刃が、鋭利な氣を辺りに飛ばす。気圧されて、蓬莱寺が低く呻いた。劉が身震いしてから、意を決して顔を上げた。

「下がってな、餓鬼ども」
「じいちゃんの頼みでも、それは聞けへんなぁ」
「死んでも知らねぇぞ」
「アニキが戦ってるっちゅーのに死ねるかい」
「一端の口利くんじゃねぇよ、ひよっ子が」
「ひよこっちゅーのは、すぐでっかくなるもんやで」

道心が、髭に隠れて判断しがたいほど僅かに口角を上げた。視線は緋勇に向けたまま、懐かしそうに目を細める。そうしてから、憎悪すら感じさせるほどの眼力で呪を完結させた。神夷が疾走り、刃を抜いた。
 永い時を経た一人の男の怨念が、黄金の氣を満たした器に殺到する。神夷の練り上げた氣が、物理的な圧迫感を伴って立ちすくむ蓬莱寺と劉を刺した。

 もう二度と。

 そんな声が聞こえた気がして、蓬莱寺は思わず瞬いた。もう二度と。その言葉を、蓬莱寺は知っている。押し潰されそうな悔恨と、未熟な己に痛嘆しては呟き、また叫んだ言葉だ。もう二度と。世界を呪い、自分を呪い、怨嗟を撒き散らした記憶。痛いほど忘れられない。もう二度と。
 気づいた時には、愛刀を振りかざして飛び出していた。吹き荒れる剣氣の嵐が、存在すら掻き消そうと体を叩く。緋勇が何を考えているのか、そもそも何かを考えているのか、それさえも判ぜられなかったが、蓬莱寺は喉の奥から咆哮を迸らせてその場所へと走った。恐ろしく鋭い氣が皮膚に突き刺さる。神夷が何事か叫んでいたが、聞き取れなかったので無視した。

 夢中で名を呼ぶ。彼は応えない。それでも呼ぶ。彼は振り向かない。それでいい。お前は振り向くな。前だけ見ればいい。背中は俺に任せろ。咆哮にそんな言葉を乗せて、彼のもとへと一心に走る。
 蓬莱寺のその足に、妄執が絡みついた。振り払ってもまとわりつく憎しみの残滓を斬り裂き、叩き潰し、それでも際限なく湧き上がる亡霊たちが鬱陶しい。もう少しで彼に届くのに。
 不意に、視界が暗くなった。訝しむ事も忘れて、足は彼へと進んでいる。手を伸ばす。確かに掴んだ緋勇の腕が、がくんと力を失った。今度こそ訝しんで、胸に抱きこんだ体を見下ろす。訳が分からない。何が起きたのだろう。呆然と顔を上げれば、憎むような顔をした神夷が見えた。

「なあ、ひーちゃん、どうしたんだ?」
「飲み込むつもり、だったんだろうよ」
「何を?」
「あいつら全部を」

 肉を得ようと器につどった妄執を、飲み込んで消化するつもりだったらしい。そんな事が可能なのか、という疑問には、以前も同じ事をやっただろう、と無表情な声が答えた。黄龍などというとんでもないものを取り込んで、平然とかどうかは分からないが生きていただろう。そう言われて、やっと少しだけ理解した。腕の中でピクリとも動かない緋勇を抱いたまま、蓬莱寺はきょとんと瞳を丸くして言った。

「それで?」
「飲んだらあそこの穴に落ちて、そうしたら俺らが外から蓋をする」
「・・・それって」
「と、奴は考えてたんだろうな」

そこで、神夷が言葉を途切れさせた。渾身の精神力で無表情を保っているのだと、蓬莱寺がようやく察する。震えた唇がぎゅっと引き締められるのを、ぼんやりと見詰める。どうしてこの男は、こんなにも憶えのある感情をその顔に浮かべているのだろう。慙悸のような、深い悲哀のような。
 もう二度と。今度こそ、はっきりと聞こえた。
 神夷が顔を上げ、大声で道心を呼んだ。既にすぐ後ろまで来ていた道心が、無造作に緋勇を抱き上げる。奪われまいと咄嗟に力を込めた蓬莱寺には、神夷から拳が叩きつけられた。硬い拳に打たれて、少しずつ現状が心に入ってくる。呼吸が震えた。立ち上がろうとした膝が、震えて地面から離れようとしない。

「なあ、ひーちゃんは」
「京一」

真直ぐに名を呼ばれ、我に返って開きっぱなしだった口を閉じる。燃える瞳で、神夷がそれでも静かに声を発した。

「お前の相棒は、莫迦だな」

彼への侮蔑に無言で憎悪を突き刺すと、神夷は少し笑って背を向けた。先に歩き出していた道心を追い、歩き出す。立ち上がれなかったのは、まだ理解できていなかったからだ。
 いつの間にか隣に座っていた劉が、小さな声で蓬莱寺を呼んだ。

「じいちゃんなら大丈夫や」
「何が」
「アニキ、きっと無事や」
「あったりめーだろ」
「うん、だから待とうや」












 それから一ヶ月が経って、蓬莱寺はふと気づいた。彼の気配がしない。世界中どこにいても、蓬莱寺は彼を見つけ出す自信があった。新月のようなものだ。見えなくとも、そこにあるのは知っている。ずっとそう信じてきた。錯覚なのかも知れないとは思ったが、彼がどこにもいないという方が信じられない。
 どこにも行かないでと憐れがましく懇願したのは、数年前の冬だった。全てを終えたような緋勇が、あまりにも果かなく微笑むから、たまらなくなって取りすがった。彼は困ったように眉を下げただけだったが、届いたと、伝わったと、確かに感じた。激情にまかせて押し付けた熱すらも、彼は拒絶しなかったのだから。

 彼がいなければ、赤も黒もそうと感じられない。つまり蓬莱寺はここ数ヶ月、色のない世界に生きていた。曇っても晴れても風が吹いても、秋になって木の葉が色づいても、星がうるさいほど光るようになっても、心は動かない。それが酷く苦痛で、綺麗なものをそうと感じられないなんて、生きていてもつまらない。彼と出会う以前は、こんな世界に生きていたのだろうか。
 誰にともなくそんな愚痴を虚空に吐き出しては、彼の帰りを待っていた。












 不本意ながら意識を失った後、道心に担がれて相棒と義弟をその場に残して連れ去られた緋勇は、その事に不満を表するよりも早く目覚めるや否や莫迦だと罵られた。神夷が辺りに満ちた思念を弱体化していなければ、緋勇といえども危険な状況だったと、道心が責めるような口調で語った。
 妄執の群れを飲み込んだらあの穴に落ちて、そうしたら外にいた者が蓋をする。そんな事を考えていたのだろうと、訳知り顔にしては苦い顔で道心が言うと、緋勇はあっさりと否定した。飲み込んでやるつもりだったが、予想以上に量が多くててこずっただけだと、不機嫌そうに言った。まあ、お前がいるから死ぬ事もないだろうと思っていたが。さらりとそう続けた緋勇に、道心はもう何も言えずにかぶりを振る。なんだか笑い出したい気分になったが、緋勇の前で笑うのも悔しい気がして舌打ちをして誤魔化した。

 紆余曲折を経て《宝探し屋》と間違えられて二度目の学園生活を送るはめになった緋勇は、そこで出会ったちょっと特殊な校内活動をしていた人々を捨て置けなくて思わず手を出してしまい、ふと気づいた時には年明け目前だった。
 彼は怒っているだろうかと考えながら、中国に降り立つ。新年には間に合ったのだから、それほど怒られる事もないだろう。うろ憶えの道順を辿り、どうにかその場所に到着して、彼は自分の考えが甘かった事を痛感する。
 涙混じりの怒声に、ああもうこれは、彼を置いてはどこへも行けぬと、緋勇は甘く苦く思うのだった。