ゆうべは、いつものように旧校舎で夜遊びをしていた。早朝近くなってようやく引き揚げ、家に帰るのも面倒だったのでそのまま街をぶらぶらして、ラーメン屋は閉まっていたので牛丼を食べつつ朝を待った。
そうして訪れた朝に目を細め、緋勇と蓬莱寺は徹夜明けのどろりと曇った目で机に突っ伏した。美里が呆れ顔を隠さずそれを見下ろす。お母さんみたいだな、などと濁った頭で考えていた蓬莱寺は、少しばかり後悔しつつも反省はしていない。緋勇は既に意識を手放しているようだ。ピクリとも動かない。
授業中に仮眠を取り、ある程度までは回復して昼休みの鐘を聞く。死んだように無反応だった緋勇も、常になくのろのろとした動作で身を起こした。長い前髪を鬱陶しげに掻き上げ、まだ眠気の残る目でぼんやりと時計を見詰めている。完全には覚醒しておらず、頬に服の跡が付いているのにも気付いていないようだ。二人して欠伸をしながら売店で昼食を仕入れ、屋上で日差しを浴びながらそれを消費する。
話題は、二人が夢中になって攻略している旧校舎だ。あの不思議な空間は、蓬莱寺に一つの疑念をもたらしていた。
「あそこって無限なのか?」
「まさか」
「地下鉄とか下水道とか、どうなってんだろな」
「さあな」
「ひーちゃん、午後はどうする?」
「寝る」
と言いながら、緋勇が体を横たえた。陽光はあたたかく、床は硬いが広いので体を伸ばせる。教室で机に突っ伏すよりは、いくらかマシだろう。そう思い、蓬莱寺もその横に寝転がった。
中天の太陽が容赦なく目を射る。目蓋を閉じてもまだまぶしい。眉をしかめて腕で日差しを遮り、そうしてから蓬莱寺は名案を思い付いた。日向はあたたかいとはいえ、まだ冬の名残は根強い。思い付いた名案は、その点も補ってくれる。これを名案と言わずしてなんとする。
という訳で、蓬莱寺は隣で早くも寝息を立て始めた緋勇の背中に顔を埋めた。両腕を腰の辺りに回して、全身を密着させる。予想どおり、あたたかい。
「・・・おい」
「ん?」
「何をしてる」
「名案じゃね?」
「何が」
「まぶしーんだよ」
女のように柔らかくもない、芳しくもない無骨な体は、同じように無骨な蓬莱寺の手によく馴染む。シャツの中に手をすべり込ませると、さすがの緋勇もビクリと体を震わせた。ほぼ同時に、硬い拳が脳天に落ちてきた。髪を掴まれて引き剥がされる。
「いてててて引っ張んなハゲる!」
「ハゲろ」
「やだ!ハゲねぇ!」
「じゃあ問題ないな」
と言いつつも、緋勇は手を離した。何本か抜けたらしい髪が、その手からはらりと落ちる。恨めしげに睨んでも、緋勇は涼しい顔ですぐにまた横になった。右腕を枕にして、目を閉じる。本当に眠ったのだろうか、と覗き込んでみても反応はない。なので蓬莱寺は、遠慮なくその顔を観察する事にした。
鼻の横に小さな擦過傷。顎には打撲傷。眉の下に裂傷。いずれも浅い傷だが、白い皮膚にその色はやけに目を引いた。自分も同じような面相なのだろうとは思ったが、自分で自分の顔は見えないので気にならない。
鋭い鉤爪を砕いた拳が、今は無防備に投げ出されていた。俗にいう殴りダコは、やはり右手の方が目立つ。触れたら、また怒られるだろうか。そんな事を考えながら、手を伸ばす。
「どうした」
「うわびっくりしたぁ!」
「どうかしたのか」
「え、いや、寝てると思ってたから」
「何が不安だ?」
「は?」
予想外の言葉に、蓬莱寺は素直な疑問を表して首を傾げた。緋勇が目を開けて、蓬莱寺を見据える。黒い瞳はどこまでも静かに凪いでいて、というか眠たげで、今の彼にとっては蓬莱寺よりも睡魔の方が魅力的に見えるのだという事実を明確に主張している。しかし緋勇は睡魔と戯れるよりも、身を起こして蓬莱寺に声を発する事を選択した。ゆらりと音もなく、緋勇の体が縦になる。黒髪がさらりと重力にしたがって首にかかった。
「京一」
「お、おう、まだなんもしてねぇぞ」
「無限なんて存在しない」
「そうか?」
「すると思うのか?」
「さあ、知らねーけど」
「どんな物にも果てはある」
「ふうん」
「それが不安か?」
無限だったらいいと、蓬莱寺は心のどこかで考えていた。果てしなく、どこまでも続く永劫の闇。決して息絶えぬ魔物、傷すら消し去る薬、それを喜んで受け入れる自分の体。魔獣の牙が皮膚に食い込む感触すら、どこか甘く心地好い。それを砕き、叩き折るのはもっと心地好い。
隣に立つのは、自分と同じ業を背負った獣。二匹の獣が無限の修羅場を駆け抜ける。そんな幻が、いつしか蓬莱寺の脳裡に棲み付いていた。
そうか己は不安だったのかと、その時に初めて蓬莱寺は理解した。
「何がしたいんだお前は」
無意識に緋勇の傷に手を伸ばしていた。しかし今度は振り払われず、指先がかさぶたに触れる。こんな些細な傷では、彼は倒れない。もっと重大な傷でも、彼は倒れなかった。
死んでしまうのではないかと、地の底で何度も思った。その度に、蓬莱寺は心の暗い部分が薄く笑うのを感じた。ほらやっぱり。そう嘯いて、魔獣が微笑んでいる。どうせ死んでしまう。いつか彼も朽ち果てる。あの美しい黄金も、いつか汚れて泥になる。清らかな冷水はぬくまり、濁り、干上がる。永遠なんて在り得ない。そんなものを信じるなんて莫迦らしい。
「ひーちゃん、触っていいか?」
「は?」
今度は緋勇が眉をよせた。返事を聞かず両手で頬に触れる。何事かと戸惑う緋勇は、永遠など無いと言う。やがて何もかも潰え
て忘れ去られると言う。全ては流れ去ると言う。ならば無駄ではないか。この震える手も心も、やがて何も残さず消え失せるのならば、鋼に刻んでも、それすら永遠ではないのだから。
白い首筋に噛み付くと、緋勇が髪を引っ張った。しかしそれは先程のような引き剥がす動作ではなく、感触を楽しんでもてあそぶ動作に思える。願望が見せる幻覚だろうか。真実は分からないが、それを許容だと断じて蓬莱寺は更に深く歯を立てた。冷たい。甘い。噛み砕きたい。ミント味の飴のようだ。
「おい京一」
「ん?」
「おにぎり五つでは足りなかったのか?」
「腹減ってんじゃねぇよ」
「そうか?」
「ひーちゃん」
「なんだ」
「今夜も行こうな」
「そうだな」
「ぜってー最後まで行こうな」
「当然だ」
「最後まで行ったら、どうする?」
広い背中にすがり付いて、蓬莱寺が問う。
終わりなど無くていい。願う心を捨て置いて、現実はどこまでも薄情だ。この命すらいつか終わる。もしかしたら、それは今夜かも知れない。彼と自分の亡骸を思い浮かべる。それはやがて腐って土になる。そうしたら、この心はどこへゆくのだろう。どこへもゆけず、消滅するのだろうか。あるいは怨念などと呼ばれて、無様に在り続けるのだろうか。
返らない声に焦れて、重ねて問う。
「なあひーちゃん、どうする?」
「それがそんなに不安なのか」
「質問してんの俺だぜ」
「答える義務はない」
ああこの男は莫迦だ。どうしようもない莫迦だ。いっそ砕くような気持ちで腕に力をこめて、服の上から爪を立てた。
何度でも言おう。この男は大莫迦だ。こんな男にこんなにもすがり付く自分が憐れでならない。欠片も残さず消え去って欲しい。存在したという事実ごと無かった事にしたい。泣きたい。殴りたい。否定したい。でもどうやったらいいのか分からない。
「上等じゃねぇかこの莫迦」
「なんだいきなり」
「どこまで俺を莫迦にすれば気が済むんだ莫迦」
「おい、どこ触って」
「うるせぇ莫迦」
「何がしたいんだお前は」
「どーせお前には分かんねぇよ莫迦」
「語尾に不穏な言葉をくっつけるな」
「この莫迦ふざけんな」
「語頭ならいいってもんでもない」
「終わったら憶えてろよ」
「何を」
「やってやる」
「だから何を」
「それはこれから考える」
「・・・そうか」
さて、どうしてくれようか。
いつかこの身が潰えても、忘れ去られても、今この心臓はここに在る。どれほどの時間が過ぎようと、形を変えようと、黄金は黄金でしか在り得ないのだ。やがて地中に沈んでも、塵芥にまで分解されても、今この時が永遠だ。在ったという事実が、この場所に在り続ける。その揺るぎない真実を、どうやってこの分からず屋に教えてやろうか。
などという事を今まさに緋勇が考えていたなんて、蓬莱寺はまだ知らない。
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