暗いのに明るい。

 雑踏で呟いた声が聞こえたのは、緋勇が耳を澄ましていたからだろうか。先程から、蓬莱寺は不機嫌だ。理由は、緋勇にはよく分からない。
 朝は教室にはいなかったので見ていない。昼休みになって顔を見せた蓬莱寺は、その時にはもう不機嫌だった。愛刀を肩に乗せて、遅刻したのに態度が大きいと揶揄する桜井にちらりと視線を流し、そのまま机に突っ伏した。そして放課後まで眠りこけて、放課後になってから目を覚まし、尖った目付きで周囲を見渡し、緋勇が帰り支度をしているのを見てようやく腰を上げて、何も言わずにそのあとに続き、今にいたる。

 暗いのに、明るい。蓬莱寺は空を見上げていた。その横顔を、斜陽が照らす。緋勇はようやく理解した。黒い雨雲が頭上を覆い、傾き始めた陽光が西から差し込んでいる。真上は暗いのに、街は明るい。
 納得したが声には出さなかった。蓬莱寺は、きっと同意など望んでいないと思ったからだ。彼が欲するのは、寄り添うものではない。根拠は特にないが、緋勇はそう考えた。

「なあ、龍麻」
「そうだな」
「何が?」
「暗いのに明るい」
「それはもういい」
「違ったか」
「傘、持ってるか?」
「持ってない」
「だろーな」

 少しだけ彼が微笑んで、緋勇は密かに安堵する。彼が笑わないと、なんだかつまらない。空も雲も風も光も、色がないような気がする。
 降りそうだなと、蓬莱寺がまた空を見た。今度こそ遅れないように緋勇は同意する。傘がないから、二人とも濡れちまうな。そう言って笑った顔がなぜか嬉しそうで、その笑顔を咲かせたのが自分なのだと勘違いして、真実などには目もくれず、意味も知らぬまま誇らしくなる。

「紗夜ちゃん、どうだ?」
「どう?」
「好きか嫌いかっつったら」
「さあ?」
「考えるふりぐらいしろよな」
「・・・」
「あ、その顔」
「?」
「考えてるふりして、なんも考えてねー顔だ」

 彼にもこの心は察せられないのだ。まったく別の事を考えていた緋勇は、したり顔の指摘に否定も肯定も返さない。蓬莱寺は唇の端を持ち上げて、泣き顔のように笑った。いっそ泣いてしまえばいいのに。
 ふと、蓬莱寺が庭先の青いアジサイを指差した。

「あれってさ」
「あ?」
「アジサイ。あの花、ほら、あそこの」
「ああ」
「おいもしかして、アジサイ知らねぇとか言わねーよな?」
「知ってる」
「ほんとかぁ?」
「アジサイがどうした」
「あれ、花じゃねーんだよ」
「ほー」
「なんか、ええと、花の下の、あれ」
「萼」
「それ」
「お前もだいぶ知らないだろう」
「うるせぇ」

 脛を蹴られたが、もう不機嫌ではないようだ。何か大切なものを取りこぼしてしまったような、奇妙な心地になる。ねじれてうずくまった彼の心が何を見ていたのか、知る術はすでに逸してしまった。
 2発目を躱された蓬莱寺が、わざとらしく渋面を作ってみせる。

「小難しい事はいいんだよ」
「言い出したくせに最後まで言い切れなかったのはお前だ」
「あれ、お前っぽいよな」
「は?」
「なんか、色とか、そんなんが」
「たしか土壌の酸性度で変わるんじゃなかったか?」
「そんなとこも」

 さっぱり分からなかった。分からなかったが、緋勇はまた自分が沈んでゆくのを感じた。落ちるというほど早くもないし暴力的でもない。ただゆっくりと穏やかな感触が、浮遊にも似てどこか心地好い。
 花でもなく、雨に濡れそぼつ無為の青が、彼の心を優しくするのなら、それもいい。

 気付けば辺りは夕暮れになっていた。雲は変わらず頭上にあるし、今にも雨が降りそうだ。しかし斜陽は地表に届き、彼の示した花に射す。
 まるで理解したかのように頷いて、緋勇は歩き出す。蓬莱寺がそれに続いた。やがてアスファルトに雫が落ちて、二人の歩が早まる。
 競うように走りながら、緋勇が雨音に紛れて呟いた。

「だったらお前は、あれだな」
「ん?」

 無骨な指が差したのは、少しばかり気の早いヒマワリ。
 日に向かうというその花が、緋勇は好きだった。

 西の空が赤い。