ひととおりの物色を終えても、昼休みの終了にはまだ少し余裕があった。屋上にはいなかったので、保健室にでも向かおうとして、ふとその足を止める。日の当たる廊下で立ち止まり、耳を澄まし、葉佩は頬が笑みの形になるのを自覚した。
 取手が、ピアノを弾いている。ガラス玉が光を反射しながら転がり落ちるような、そんな情景が浮かんだ。これは幸福な幻だ。一瞬で消えてしまっても、心の奥底にはずっと残っているに違いない。それはとても幸福な事だ。音楽がもたらす幸福だ。彼の指が、葉佩に音楽というものを教えてくれたのだ。

 葉佩は、彼が努力しているのを知っている。
 難しい曲なんだけど、と言って見せられた楽譜は、葉佩にはそれがどのように難しいのかも理解できなかった。それでもその難しい曲の楽譜を、取手はどこか嬉しそうに、子供が宝物を自慢するように葉佩に見せてくれた。葉佩がそれを正確に理解できないと知っていても、彼は誇示せずにはいられなかったのだろう。それが、葉佩には嬉しかった。
 もしかしたら、この音が、あの難しい曲なのかも知れない。階段を駆けのぼりながら、葉佩はそんな想像をした。

 葉佩が音楽室の前に着くのと、取手が音楽室から出てきたのは、ほぼ同時だった。

「あれ、終わっちゃった?」
「あ、ごめん、もうすぐ授業が始まるから」
「まあいいや、聞こえたから」

 取手は何も言わずに、少しだけ寂しそうに、申し訳なさそうに微笑んで、音楽室の戸に鍵をかけ、ようとしてその手を止めた。内側から戸が開いたからだ。
 息を呑んで硬直する取手の横で、葉佩はこっそり舌を打った。戸を開けた皆守は、あからさまに舌を打った。

「まだいたのか」
「え、ええと、いたのかい?」
「いた」
「い、いつから」
「ずっと」
「どのくらい、ずっと?」
「昨日の昼ぐらいから」
「え、えええ!?」
「嘘だけどな」
「だよね」
「ああそうか、鍵か」
「え、ええと?」

 ひとりで納得して頷いて、皆守はそのままどこへともなく去って行った。取手がちらりと、助けを求めるような目で葉佩を見る。葉佩は気にするなというメッセージをこめてその肩を軽く叩いた。

「誰もいないと思ってたよ」
「まあ、あいつ寝てるとほんとに気配ないからね」
「あ、もしかして、昼寝の邪魔しちゃったかな」
「だったら自分でどっか行くだろ」
「そう、だね」

 もしも取手がここで立ち止まらずに、鍵をかけて教室に戻っていたら、皆守は内側から鍵を開けて、そのまま立ち去っていたのだろう。つまり、施錠をせずに音楽室を放置する事になる。
 生徒に管理が任されている音楽室に、それほどの貴重品があるとは考えにくい。しかし、たとえば校内に、日用品や雑貨などを収集するのが趣味で、窃盗癖のある人物がいたとしたら、皆守の行動はあまりにも軽率だ。つまり皆守は軽率だ。












 取手が授業に出る気なので、葉佩もなんとなく教室に戻った。分かっていたが、皆守の姿は見えない。またサボりかな、と八千穂が耳打ちする。

「もしかして皆守クン、本当にどうでもいいって思ってるのかなぁ?」
「そうかもね」
「卒業できなくってもいいのかなぁ」
「あ、むしろ卒業したくなさそう」
「でも、そんなの寂しいよ」
「うん、そうだね」
「一緒に卒業したいよね」
「うん俺も、やっちーと一緒に卒業式やりたい」
「九チャンならできるよ!」

 その事とうまく関連付けるのはとても難しいが、葉佩は声にも表情にも出さずに八千穂の髪からオレンジの香りがする理由について考えていた。また、八千穂とオレンジはとてもよく似合う、とも考えていた。
 八千穂の行動と葉佩の思考を関連付けるのは、非常に困難である。つまり、葉佩は八千穂の話をあまりちゃんと聞いていなかった。この時の迂闊な一言が彼女の心を深く傷つけるなどと、今はまだ想像もしていない。葉佩はやがて、彼女を裏切るのだ。

 滞りなく授業が終わり、世界は放課後となった。葉佩にとって、今日はこれから始まる。才能も特殊な技能も持たない葉佩にとっては、これが最後かもしれない放課後だ。
 また明日、と、願ってやまないが、ともすれば嘘になるかも知れない、約束と呼ぶにはあまりにささやかな言葉を交わして、八千穂と別れた。オレンジ色に染まった道を、八千穂はまっすぐに走って行った。

 彼女が葉佩をこんな気持ちにさせてくれるのは、彼女の意思が働いているからだろうか。これが最後でも、後悔しないように。
 八千穂の背中が見えなくなるまでその場に立っていた葉佩は、ふとそんな事を考えた。もしそうだとしたら、とても嬉しい。












 重装備で寮の廊下を歩いていたら、夷澤と目が合った。夷澤はあからさまに顔をしかめたが、何も言わずに葉佩の横を通り過ぎようとして、立ち止まった。葉佩が彼の腕を掴んだからだ。
 不快を隠そうともせずに、あるいは何かを隠して不快を表したのか、尖った犬歯を見せて夷澤が凄む。その左目の下の擦過傷が、同時に歪んだ。

「なんだよ、気安く触んないでくださいよ」
「口調がぶれまくりだな。ここ、どうした?」
「あんたには関係ねぇだろ」
「うん分かってる、俺には関係ないね」
「だったら」
「よし、可愛くない後輩には、これをあげよう」
「・・・なんすか、これ?」
「大腿骨」
「俺を犯罪に巻き込まないでください」
「だいじょぶ、合法だから」
「あそこ、一応っすけど立入禁止っすよ」
「えーそーなんだー知らんかったー」
「で、誰の骨っすか?」
「さあ?」
「どうしろと」
「食うと傷が治るよ」
「・・・」

 なんとも言えない顔をして、夷澤は骨を受け取らずに立ち去った。
 彼の身体がいつも傷だらけなのは、彼が不注意なせいでもあるが、それ以上に、彼の心が満足していないからだ。ここではないどこかを目指しているからだ。滑稽だと揶揄されても、足掻き続けずにはいられないからだ。葉佩は、彼のそんなところを、こっそり好ましく思っている。
 大腿骨はスープにでもしよう。葉佩は受け取ってもらえなかった大腿骨をポケットに入れて、立入禁止だと知ってはいたが無視していた墓地へと向かった。












 濁った空気で肺が満ちてゆく。そんな空想をもてあそびつつ、逆手に持ったナイフを人型の異形に突き刺した。聞くに堪えない断末魔が壁に反響して、いつまでも耳に残る。まるで人を殺したような気分になる。口中に溜まった唾を飲み込み、腹の底で渦巻く衝動を抑えた。抑えたと、自分に言い聞かせた。腹に渦巻いているのは、自分が狂人なのではないかという恐怖だ。

 クエストは終了した。もうここに留まる理由はない。さっき作ったスープに、今夜は何を入れようか。肉の気分ではない。根菜でも入れて、あっさり仕立てよう。
 疲弊した身体を引きずって部屋に戻り、重たい装備を脱いでベッドに突っ伏して、この苦痛がいつか価値ある何かになると信じて、葉佩は目を閉じた。