深々と冷え込む夜だった。耳を澄ましても、物音ひとつしないような。
久し振りだと言いながら彼が入ってきた時も、まるで無音のように思えた。雪に濡れて、耳も鼻も赤くした知己が、当然のように熱燗を所望する。狙いすましたかのように、折よく湯が沸いたところだった。
顔を見なくなって、だいぶ経つ。遠ざかって色褪せているかと思いきや、彼が隣で笑むだけで、まるで時間など存在しないかのように、痛みさえともなって記憶があふれ出した。
よく降るな、と懐かしむように彼が言う。雪の白さも夜の冷たさも、彼の声が語れば素晴らしいもののように感じられるのが不思議だった。雪山の、彼の背中を思い出す。あの夜も、終わらなければいいと密かに思っていた。かじかむほど冷えた指すら、嬉しかった。彼に触れる理由になったから。
くいと猪口を呷り、彼が破顔する。安酒でこれほど嬉しそうな顔をする男は、そういないだろう。そんな言葉で揶揄すれば、寒かったのだと言い訳がましく彼が眉を寄せる。覚えず頬が緩むのを止められない。
ひとしきり無言で酌み交わし、ふと静寂にぽつりと色が落ちた。彼のささやきは、硬質なようでいてどこか温かい。
「あの時の事を、憶えているか?」
それがどの時でも、すべて憶えていた。猪口を口に運びながら、黙ったままうなずく。彼はかすかに声を立てて、息をつくように笑った。
「鬼を追っていたと、言った」
「ああ、あの時か」
「それより前にも何度か会ったな」
「3度だ」
「よく憶えているな」
「お前は忘れたのか?」
「お前こそ、忘れただろう」
目を伏せて、懐かしむように彼が言う。責める口調ではなく、どこまでも穏やかに、いとおしむような声音だった。それが、苦しかった。
「俺が、何か忘れてたか?」
「俺の事を」
「俺が、お前の事を?」
「あの時、お前たちは鬼を追ってあの村に着いたと言ったな」
「そうだな」
「どうして俺を呼んだ?」
幼子が知らぬ言葉を問うような、含みもてらいもない問いに聞こえた。たやすい問いだ。無知な子供に、やさしく教えてやれば良い。それなのに、どうしてか答えが出てこない。
「俺は鬼だった」
「おう」
「お前は、龍だった」
「龍閃組な」
「数度、顔を見ただけの相手だ」
「3度、あ、いや、4度だったか?」
「まるで俺を知っているようだった」
たやすい問いだ。注いだ酒が猪口の端からこぼれるように、あの時の記憶が胸にこぼれる。
冬になって、夜が明けなくなって、このままゆっくりと世界は死んでしまうのではないかと恐怖して、誰もが凍えていた。山へと入ってゆく鬼を見つけた時は、まるで光明を見たかのような心持ちになった。夢中で追って、そうして、あの場所へと辿り着いた。
目に入ったのは、赤い髪の鬼が、ふたり。それと。
「俺を、随分と気安く呼んだな」
伏せられていた目が、すうと上がった。遠い海を見るように、まぶしそうに、細められた。清く黒い瞳が、濡れているようにも見えた。
たやすい問いだ。この心は、そんな疑問すら抱かなかった。当たり前の事だ。彼を見つけたら、呼びかけるだろう。何やら逼迫しているように見えたので、助けぐらい出すだろう。距離があったので、咄嗟に口に銜えたままだった団子の串を使ったのは、あまり行儀の良くない事だったにしても。
彼の隣を歩き、彼と背中を合わせ、彼を助けるのは、当然の事だろう。
当然の事、だろう?
黒い瞳が、時折、金色に見える事が、たまにあった。光の当たりぐあいか、それとも彼の氣が網膜を透かして発するのか、それは分からないが、熱して熔けた黄金のようなそれが、ずっと好きだった。清廉にして毅然たる黒が、なまめかしく溶ける様を、いつか真正面から見たいと、ずっと思っていた。
いつからか、ずっと、思い続けていた。
「嬉しかったんだ」
「そうか」
「お前が俺を、思い出したのかと思って」
黒い瞳がゆらりと揺れて、また伏せられた。たまらず手を伸ばしてすくい上げたが、それは透明な雫になっていて、またたく間に指から零れて見えなくなった。
「思い出したら、俺を責めてくれ」
「は?」
「守れなかった」
「ちょっと待て」
「守れなかったんだ」
「おいこら、ひとりで突っ走るな!」
「守りたかったのに」
「お前に守られるほど俺は弱くねぇ!」
叩き斬るように叫ぶと、ごつんと音を立てて手刀が額にぶつかった。ほらみろ、隙だらけだ。そう言って、彼が不機嫌そうに右手を下ろす。かと思いきや、死角から二発目が飛んできた。為す術もなく、顔面でそれを受けとった。硬い手の感触が、なんだか妙に懐かしい。
そうかあれから永い時が経っていたのかと、ようやく実感した。本当に、気の遠くなるような永い時を過ごした。彼が隣にいたのは、もう遠い昔なのだ。たわむれに拳をぶつけ合って、たまに真剣まで持ち出して、母のような女に叱られて、翌日には笑いながら蕎麦屋の暖簾を並んでくぐる。あの時からは、あまりにも。
「ん?」
「?」
「なんでだ?」
「それはお前が弱いからだ」
「違う、そうじゃなくって」
「違わない。お前は俺より弱いだろう」
「いや、だから」
この記憶は、なんだ?
彼は山奥の隠れ里に棲む鬼の仲間で、いわば敵同士だった。それならば、この記憶は、どこから。
呆然と、間近にある瞳を見つめる。ずっと前から、記憶にある事実よりもずっと前から、彼が隣にいたような気がする。鬼を追って山に分け入るよりもずっと前から、この瞳に、焦がれていたような気がする。
声も出せずにいると、彼がまた同じ事を言った。
「お前は弱い」
「んだとこら」
「だから、俺が守ってやる」
「いらねぇよ」
「と、思っていたんだ」
「とんだ思い上がりだな」
「まったくだ」
やっと笑ってくれたので、安心して彼を抱きしめた。そうすると、何を思ったか髪を撫でられた。子供をあやすように、やさしく。
彼をひとりで置いてきてしまったのだと、ようやく察した。でも、彼はきっと許してくれる。
もう二度と、ひとりで置いていったりしないと約束すれば、彼はまた隣で微笑んでくれる。
蓬莱寺は雪を踏んでいた。枯れた冬枝をかき分けて、どうしてあの男はこんな山奥に居を構えているのかと愚痴をこぼしつつ、雪深い山道を歩いていた。
すぐ後ろから、同じような間隔で雪を踏む音が聞こえる。時々、振り向いて声をかけた。
「なあひーちゃん」
「なんだ」
「巫炎やってくんねぇ?」
「八雲の気分だが、いいか?」
「ごめんなさい」
そんなやり取りを何度か繰り返し、ようやく到着した頃には、そろそろ朝が迫っていた。
無遠慮に戸を開けて、家主の声も待たずに上がり込む。と、珍しく囲炉裏端で火の始末もせずに眠りこける師の姿が目に入った。この男でもそのような事があるのかと、目覚めたらからかってやろうと心に決めて、幼子のような寝顔をのぞき込む。なんともなしに不安になるほど幸せそうな顔をしていた。
緋勇でさえも、起こすのは忍びないと思ったようだ。棚を物色するにも、なるべく音をたてぬよう留意している。
ふと目を落とすと、猪口がふたつ、その傍らに落ちていた。自分たち以外に人の気配はない。そしてよく見れば、ひとつにはまだ酒がなみなみと注がれたままになっている。
顔を上げると、夜が明けていた。
男は幸せそうに目を閉じている。
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