葉佩が床に倒れ込むのと、女の形をした化人が消滅したのは、ほぼ同時だった。
今の見てた?うわ恥ずかしい、などと言って笑いながら起き上がり、次の扉に向かう。そんな映像を想像した訳ではないが、皆守は彼がそうするのだと思っていた。疑う余地もなく、空が落ちるのを危惧しながら生きる者がいないように、葉佩は立ち上がって進むのだと信じていた。
眠っているように見えた。その右腕が赤く染まっていなければ、いつものように床に落ちた頭を踏んで覚醒を促す程度の事はやってのけただろう。皆守は一瞬だけ固まり、次に爪先でその血に染まった腕を踏んづけた。つまり、結局は踏んだ。
「痛い!とどめなら痛くしないで一思いに!」
「俺がとどめ刺すのにこんなまどろっこしい事する奴だと思うか」
「いや、お前はもっとサクっと済ます奴だと思う」
「よく分かってるじゃないか」
「わあい当たったぁ」
「余裕だな」
「いや、ちょっと暗くなってきた。やばいよこれ」
と言いながら、葉佩がいかにも覚束ない動作で顔を上げる。その直後、床に突っ伏した。あれ、と口中で呟いて、床に拳をこすりつける。自らの血に汚れた床を掻き、その手を皆守の靴にぶつけた。手の平で感触を確かめ、それが皆守の靴だと察して再び床に落とす。そうして探しているのが先程の転倒で取り落とした銃だと気づき、皆守はその手のすぐ横にあった小銃を爪先で蹴り飛ばした。
銃が壁にぶつかって音を立てた時には、既に葉佩は動かなくなっていた。
意外とあっけなかったな、と胸中で笑い、無防備に晒された後頭部に足を乗せる。そのまま体重をかければ、葉佩は永遠に進む術を失うのだろう。そうしてまた一人、愚かな盗掘者が《墓》に捧げられる。それだけの事だ。
ふと、アロマの火が消えている事に気づいた。足は葉佩に乗せたままポケットを探る。ライターが見つからない。これでは義務を遂行できない。遂行できなければ生きられない。ライターはどこだ。早く火を点けなければ、ほころびた場所からあれが侵入してしまう。あれってなんだ。なんだか分からないが、とにかく早く火を点けなければ。
「葉佩、火貸してくれ」
葉佩は何も言わなかった。そうれはそうだろう、死んでいるのだから。もう一度、彼の名を呼んだ。呼んでから、自分が発音した名前は誰のものだったのかと考えた。そいつはもういない。ここにいるのは一人だけだ。ついさっきまでは二人だったのだが、今は一人だけだ。どうして存在しない人に呼びかけたりしたのだろう。
「葉佩」
撫でるように、靴底でそっと柔らかく踏みにじる。死者を踏みにじるなんて冒涜的だと、脳の片隅で思った。莫迦げた習慣だと、直後に頬が笑みの形に引き攣った。死者に意思など存在しない。死体をどう扱うかは、生者の都合でしかない。後ろめたいから、罪悪感を少しでも払拭したいから、せめて抜け殻を丁重に扱うのだろう。そうすれば許されるとでも思っているのか。莫迦な、こいつはきっと許さない。でも許さないだけで、もう死んでいるのだから何もできない。
「葉佩、
ずるいぞ、お前だけ」
「踏むな」
「うお!生きてたのか!」
「勝手に殺すな」
「お、おお、それは何より」
「棒読みやめろ。殺したくなる」
「心外だな、こんなに嘆いてたのに」
「お前の国じゃ嘆くってのは踏む事なのか」
「これは、まあ、その、ほら、あれだ」
「耐えがたい心痛を破壊衝動で発散した結果だと」
「あ、そんな感じ」
「いいから足どけろ」
言われるままに足をどけると、葉佩がゆっくりと身を起こした。顔色が悪い。動きも鈍い。乾き始めた血液が、動作にあわせてキシキシと小さく鳴った。負傷した右腕を庇いながら、葉佩は慎重に呼吸を繰り返している。
「立てないのか?」
「もうちょっとしたら立つ」
「あ、そうだ、火を貸してくれ」
「あとにしろ」
「折れてるのか?」
「たぶんね」
「たぶんて」
「骨がどうなってんのか、かっさばいて確認するか?」
「え、死なないかそれ」
「さすがに死ぬと思う」
「ああ、俺もそうだろうと思ったんだ」
葉佩が額に手を当てた。左手だ。右腕は動かないのだろうか。出血は止まったのだろうか。これは夢だろうか。本当は葉佩は死んでいて、幻覚と会話しているのではないか。急に不安になって、皆守は丁度良い位置にあった葉佩の頭を膝で突ついてみた。無言で振り払われたが、そんな動作では疑念を否定する論拠にはならない。
「葉佩」
「うるせぇな、なんだよ」
「ええと、ちょっと俺を殴ってくれないか」
「あとにしろ」
「いや、できれば今がいい」
「自分でやれ」
「いや、でもそれって頭おかしい奴みたいじゃないか」
「安心しろ、お前は頭おかしいから」
「俺は正常だろう」
「そう思ってる奴が危ないんだよ」
「それもそうだな」
納得したが、自分で自分を殴るのはちょっと嫌だと思ったので、アロマを口から離して親指の間接を噛んでみた。走った痛みに、少しだけ安堵する。しかし些細な苦痛はすぐに消え失せ、赤くなってへこんだ皮膚も元に戻った。もっと激しい痛みを、と考えたが、やはり自分では無理そうだったので葉佩を呼んだ。
「なあ葉佩」
「あのさ、俺ね、瀕死なんだ」
「そうか、それは大変だな」
「おう、大変なんだ」
「殴らなくっていいから、こう、痛くしてくれないか」
「俺が元気だったら今頃お前たぶん物凄い目に遭ってるよ」
「仮定の話は好きじゃない」
「へえ、好きだと思ってたんだけどな」
「そうか?」
「もしあの時ああしてれば、みたいな話」
「過去は振り返らない主義なんだ」
「愚か者はみんなそう言うって、ロビンねえさんが言ってたよ」
「誰だよ」
「俺が尊敬する考古学者」
「なんでお前が考古学者なんか尊敬するんだよ」
「ああ、隠してたけど俺って《宝探し屋》なんだ」
「《宝探し屋》って考古学となんか関係あるのか?」
葉佩が床に寝転がった。《宝探し屋》と考古学の関係については説明する気がないらしい。横柄な奴だと感じたが、口には出さずに飲み込んだ。床に寝そべった体を踏みたくなったが、その衝動をこらえてアロマに歯を立てる。そういえば、火を貸してくれと頼んだのに葉佩はまだ貸してくれない。
「俺はこんなに我慢してやってるのに」
「そうなの?」
「こんなに我慢したのは産まれて初めてだ」
「おお、皆守のお初ゲットだぜ」
「嬉しいか?」
「あんまり嬉しくない」
「喜べよ」
「うっわあ、皆守ってば俺が初めてなんだぁ」
「踏んでいいか?」
「駄目」
「我が儘だな」
「そうだよ、知らなかった?」
「いや、うっすら気づいてた」
「うっすらかよ、意外と鈍いなお前」
「鋭かったらこんなことで生きていけないだろ」
「まあたしかにね」
寝転んで顔を背けた葉佩を立ったまま見下ろしているのは、なんだか死体を見下ろしているような気分になる。だが血まみれの床に座るのはためらわれて、せめて血が飛び散っていない所まで離れようとした瞬間、葉佩が物凄い勢いで身を起こした。何事かと振り向けば、右腕を押さえてのた打ち回っている葉佩がいた。どうやら痛かったらしい。
「何してんだお前」
「べっ別にっなんでもっねぇよっ」
「殺されると思ったのか?」
「え、あ、ああ、うん、そう、それ」
「大丈夫か?痛み止めはどうしたんだ」
「どこ行くんだよ」
「は?」
「どこ行こうとしたんだよ」
「いや、ちょっと離れようと」
「なんでだよ」
「血まみれだったから」
痛みをこらえる為か、葉佩が唇を噛んで俯く。暫くそのままじっとしていたが、やがて負傷していない方の手を伸ばして皆守の足首を握り締めた。血まみれで必死に手を伸ばすその姿は、冥府に引き込もうとする亡者のようだ。そうか、やはりこいつは死んでいて、大好きな俺と離れるのが嫌だったから連れて行こうとしているのか(どうせ俺もそのうち同じ場所へ行くのに)。そんな風に思い、迷わず地獄に落ちろというメッセージを込めてその手を踏みつけた(すぐに俺も行くから)。しかし体重はかけず、靴底で触れたまま静止する。
這うようにして皆守の足首にすがりつき、葉佩はどこか言い訳じみた言葉を呟いた。
「洗えば綺麗になるよ」
「もう染みついてるだろ」
「お前だってそうだろ」
「そうだな」
「俺ばっか汚いみたいに言うなよ」
「うん、悪かった」
「お前だって汚ねぇくせに」
「まあな」
「なんで俺だけ」
「人生なんてそんなもんだ」
「うるせぇよばか」
「葉佩」
「ばか」
「そんなに俺が好きか」
葉佩が俯いていた顔を上げ、奇妙な表情で皆守を見た。依頼を遂行できなかった寝不足の朝に八千穂にすげなくされて、直後に皆守がカレーの話題を振った時のような顔だ。肯定を表すものではないように感じられて、皆守は首を傾げた。
「違うのか?」
「むしろ何がどうしてそうなった」
「お前が俺にすがりついて離れないから」
「なんで離せとか言うんだよ」
「汚れるから」
「お前だってもう汚れてんだろ」
「更に汚れる」
「もう手遅れだろ」
「なんで離さないんだ」
「だって、お前どっか行こうとするから」
「行かないから、離せ」
そう言って振り払おうとすると、葉佩はあっさりと手を離した。言葉を信じたのだろうか。信じるも信じないも、皆守はどこへもゆけないのだから、信じなかったところで大差はない。皆守はここから動けないし、また動こうとも思わない。
葉佩が床に寝そべったまま皆守を見上げる。その瞳に自分が映っているか確認しようとしたが、薄暗いこの部屋では不可能だった。もっと近づけば見えるだろうかと考え、顔を近づけて瞳を覗き込む。やはりよく分からない。急接近した皆守を睨みながら、葉佩が小さく吐き捨てた。
「行きたきゃ行けよ」
「行かない」
「踏み殺して行けばいいだろ」
「俺が瀕死の奴を踏み殺すような人間に見えるか」
「見える」
「俺とお前は似てるな」
「やめて死にたくなる」
「似てるんだからもう同じでいいよな」
「そうだね」
「同じって事は、どっちか一つでいいって事だ」
「ああ、そうれもそうだね」
「だろ?」
だからお前は立ち上がって、どこまでも走ってゆけ。絶望など知らぬように吠え立てて、血を流しながら這ってでも進め。汚く生き続けて、いつか疲れ果てて燃え尽きるまで。そうしてお前は全てに勝つんだ。
そこに俺がいなくても、それが俺の勝利になる。
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