ゆっくりと、だが確実に、緩やかな坂をくだっているような気分だ。焦燥とは無縁の、いっそグロテスクなほどに凪いでいるこの心境は、どこか狂気を思わせる。冷静に、慎重に、自分の肉を削いでいるみたいだ。
 幻を見る。地面が傾いてゆくような錯覚。落ちるというほど暴力的ではない。いっそ一思いに突き落とされた方がましだ。












 葉佩が床を蹴った。銃弾は温存するらしい。
 彼のナイフは、光を反射しない。支給品のコンバットナイフではなく、葉佩が幼い頃から愛用しているというナイフだ。それでなくとも幼い彼が、更に幼い頃にナイフを愛用するという状況が、皆守にはうまく想像できない。少なくともリンゴの皮を剥くのに、その刃渡りは必要なさそうだ。

 化人の爪が弧を描いた。その軌道までもが容易に見えたので、軌道上にいた葉佩に靴底をぶつけた。化人の爪が虚空を薙ぐ。一瞬だけ、葉佩が視線を送ってきた。信頼のように見えるその目が、無性に腹立たしい。そんな目は、彼には必要ない。心さえ、きっと彼には必要ない。
 必要ないのに。












 米神をかすめた化人の爪を見送って、葉佩は謝意を込めて皆守を見た。なぜか射殺されそうな目で睨まれた。訳が分からない。
 助けてくれたのではないのか。それともあれか、いわゆる、「お前は俺が殺すんだから、簡単にやられてんじゃねぇ」というメッセージか。うん、嬉しくない。と思ったので、化人にナイフを突き刺してから、素直に思ったとおり口に出してみた。

「べっ別に嬉しくなんかないんだからな!」
「ちょっと待て、何がどうしてそうなった」
「だから、別に嬉しくなんか」
「いや、なんか嬉しい事したか?」
「嬉しくねぇっつってんだろ!」
「何が?」
「え、ええと、あの、あれ?」
「ん?」
「・・・なんだっけ?」

 皆守が溜息をついた。彼の溜息は、甘いから嫌いだ。溜息をつく時に少しだけ眉を下げるのも、なんだかよく分からないけど嫌いだ。アロマを持っていない方の手で髪に触れる仕草も、人差し指と中指にパイプを挟んだまま手の平を上向ける仕草も、なんだか嫌いだ。

「お前なんか大っ嫌いだ!」
「お、おお、そうか?」
「なんで喜ぶんだよぉ!」
「いや、喜んでない」
「どっからどう見ても大喜びじゃねぇか!」
「大喜びって一瞬『大喜利』に見えるよな」
「おおぎりって何?」
「ああ、うん、いや、いいんだ」
「そのお爺ちゃんが孫を見るような目やめろ!」
「そんな状況、体験した事もないくせに」

 見くだす視線で言われて(身長差があるのだから仕方ない)、事実なのだから反論もできなくて、それが悔しくて、そんな事を指摘して笑みを浮かべる彼に、どうしようもなく泣きたくなる。彼と自分は違うのだと、そんな当たり前の事にさえ打ちのめされる。












 唇を噛んで顔を逸らした葉佩が、何も言わずに歩き出すのを、皆守は無表情にただ眺めていた。そこはかとなく傷付いたようにも見えるが、たぶん腹が減っただけだろう。
 だって、葉佩は誇っていたのだから。家族など知らず、与えられた武器とすり切れた毛布と味気ない非常食だけで命をつないできた事を、彼は愚かしくも誇っていたのだから。
 足早に進む葉佩の小さな背中が見えなくなる前に、皆守は殊更にゆっくりと歩き出した。

「おい葉佩」
「うるせぇ」
「腹減った」
「大腿骨でも食ってろ!」
「カレー持ってんだろ」
「・・・」
「出せよ」
「カツアゲってゆーんだろ、そーゆーの」
「恐喝して巻き上げる、の略だな」
「まさにそれじゃねぇか」
「違う」
「どこが」
「お前は俺を恐れてない」

 葉佩の顔は見えなかったが、泣きそうなのは分かった。












 また床が傾く。まっすぐ歩けなくなる。なのに止まれなくて、だらだらと坂をくだり続ける。

 どうして彼の言う事は、こうも真実ばかりなのだろう。葉佩が家族を知らないのも、皆守を本当には恐れていないのも、紛う方なき真実だ。
 でも、違う。喉の奥で、声にならない声が叫んでいる。そうだけど、違う。うまく言葉にならなくて、衝動ばかりが胸を突く。
 本当は、あたたかいベッドで眠りたかった。誰かに食事を作ってもらいたかった。怪我をしたら、いたわって欲しかった。綺麗な石を見つけたら、見せびらかして自慢したかった。怖くて眠れない夜は、抱きしめて欲しかった。

「そうだね」
「そうだろ?」
「俺はお前なんか怖くない」
「ああ、分かってる」
「お前みたいに、だらけてない」
「今それ関係あるか?」
「守ってもらわなくっても、生きていける」
「そうか」
「そうだよ」
「それは、残念だ」
「?」

 振り向いたのは、皆守の顔を見たいと思ったからだ。彼がどんな表情でそんな事を言うのか、確かめたかったからだ。
 アロマを持つふりで口元を隠して、片目を細めて、皆守はたぶん笑っていたのだろう。

 俺は、お前を守ってやりたいと思ってたんだがな。

 声は聞こえなかったので、葉佩は遠慮なく聞こえなかった事にした。だって、そんな事を言われても、どうしたらいいのか分からない。

 数分前の願いが叶った。
 今、容赦なく突き飛ばされてものの見事に叩き落された。