葉佩が喋りだしたのは、信号が赤になって立ち止まった時だった。それまでは特に会話らしい会話もなく、無言のままふたりは駅に向かっていた。
 乾いた風が吹いて、皆守が思わず目を細める。ぼんやりと道の向こう側を見詰めたまま、葉佩が呟いた。

「ねえ皆守、なに考えてた?」
「チキンとマトン、どっちにしようかと」
「カボチャがいいな」
「季節外れだな」
「冬至に食うと長生きするんだってさ」
「じゃあ冬至に食べろ」

 葉佩は前を見詰めたまま、ぼんやりと皆守を呼ぶ。まるで、実在しない人に心の中だけで呼びかけるように。
 皆守も前を向いたまま、ゆっくりと思考を辿る。自分は何を考えていたのか、どうしてこんな場所で彼と肩を並べて信号待ちなどしているのか。あのまますべてを遠い記憶にする事も、不可能ではなかったはずだ。通りすぎただけの旅人を、どうして追いかけようなどと思ったのだろう。

 葉佩が問う。

「なに考えてた?」
「質問の意図が見えん」
「あの時」
「ああ、あの時か」
「そう、あの時」
「昆布だしをシーフードと称するのは適正なのかと」
「ほんとに死ぬ気だった?」

 まさかここでその話になるとは、予想だにしていなかった。
 信号が青になり、葉佩が歩き出す。数秒ほど送れて、皆守も歩き出す。葉佩は前を見たまま、同じ問いを繰り返した。「なに考えてた?」と、まるで独り言のように繰り返す声は、乾いた風にかき消される事もなく、聞こえなかったふりをする皆守の耳にもはっきりと聞こえた。

 葉佩が何を問うているのか、不本意ながら皆守には把握できた。
 あの夜の事だ。皆守が薄く微笑んで手を振ったあの夜を、葉佩は今になって思い出したかのように、唐突に話し始めた。実のところ、皆守はこの男があの夜を忘れているのではないかと疑っていた。それほどに、葉佩は何も言わなかった。まるであの夜など存在しなかったかのように、皆守をバディと呼び、当然のように肩を並べた。
 許されているのだと、そう思った。自分のあまりの愚かさに、思わず舌打ちが出る。葉佩は傷ついていたのだ。口にすれば痛みだすほどに、それは深い傷だったのだ。

「何をいまさら」
「いまさら?」
「いまさら、だろ」
「ああ、そうかもね」
「まあ、忘れろ」
「無理だった」
「そうか、じゃあしょうがないな」
「うん」
「なるべく思い出さないように努力しろ」
「それも無理だった」
「努力も無理か」
「うん、無理だった」

 あの夜が、葉佩の傷になったのだ。いつまでも残り、いつまでも痛む、消えない傷に。

 駅に着いて、改札を抜けて、ホームに立つ。皆守の故郷の駅よりも、そこはずっと静かだった。まるで世界の果てのように。よぎった言葉はあまりに無意味で、口に出す前に消えてしまった。消えた言葉を惜しむ間もなく、茫洋としたままの葉佩が問う。皆守は答えられない。その繰り返し。

「俺はね、悪い事しちゃったかなってずっと思ってたんだ」
「ほお」
「皆守は死にたかったのに、俺が邪魔した」
「まあ、結果的にはそれでよかったんじゃないか?」
「よかった?」
「まあ、今となっては」
「ほんとに?」
「死んだ方がよかったか?」
「よくない」

 間髪いれずに即答してきた葉佩が、少しだけ憐れに思えた。

 あの夜の事を、葉佩は信号で立ち止まったあの瞬間まで、決して口にしなかった。銀色の朝に絶望して、そのまま行方をくらましたので、その後の彼を皆守は知らない。再会して、つい先ほど信号で立ち止まるまで、この男はずっと考えていたのだろうか。忘れようにも忘れられず、傷付いて血を流したまま。
 皆守の心臓の近くでじわりと湧き上がったのは、悦びとも痛みとも似て、それでいてどちらでもない、不可解な熱だった。葉佩はこちらを見もしない。

「怒ってない?」
「は?」
「皆守、怒ってない?」
「なんで俺が怒ってると思うんだ」

 不機嫌そうな皆守の問いには答えず、葉佩はほんの少しだけ後退した。直後、アナウンスもなく電車がホームに入ってきた。風が起こり、皆守が目を細める。
 電車は停止したが、目の前のドアは開かない。いぶかしむ皆守の横で、葉佩は手動でドアを開けた。

「ここいらの電車は、自分で開けないと開かないんだよ」
「不便だな」
「そうかな?」
「荷物が多い時は開いたほうが便利だろ」
「そういう時は、頼めば駅員さんが開けてくれるよ」

 乗り込んだ車両に、先客の姿は見えない。運転席の車掌は、自室にいるかのように寛いでいる。ひとつだけ開け放たれた窓の前に立ち、葉佩はふと思い出したように言った。

「昆布だしはフシーフードじゃないと思う」
「そうか?」
「フードって食べる物だよ」
「だしは?」
「飲み物」
「だしが染み込んだ根菜は?」
「それは根菜であって、だしそのものじゃない」
「昆布だしはフードではない、か」
「うん、そう思う」

 その意見に、咄嗟に異論は思いつかなかった。素直に「なるほど」と言って頷いてみせると、葉佩も満足そうに頷いて口を閉じた。そうしてから、痛みを覚えたかのように目を細めて、窓の外を見て、皆守を見て、また窓の外を見る。視線はどこかに飛ばしたまま、葉佩が問う。

「ねえ皆守、死なないでよかった?」

 それが問いではないと、皆守がようやく気付く。
 消えない傷がいつしか誇りになるなんて、皆守はこの時まで信じていなかった。