ふらりと、風に混じった匂いが鼻腔に触れた。小さく舌打ちをして、俺はいつものように走り出す。ただ一点を目指して。
 手頃な大きさのゴミ箱があったので、とりあえず投げる。まるで非難するような言葉が、それはそれは嬉しそうな声で飛んできた。ガードレールは長いから投げにくい。咄嗟にそう判断して、その横の標識を引っこ抜いて、しかしやはり投げるには長かったので振りかぶる。

 思い出したくもないその昔、授業でやらされた野球のバットを思い出す。あの時は、こんなにも全力で振れなかった。ずっと怖かったから。異質なものを見る、あの目。
 あいつが振り向いた。見開かれた目が猫のように細められる一瞬前に、街の灯りを映し出してきらきらと光る。そんな目は知らない。無知な俺を嘲笑するように、黒いコートの裾がひるがえった。俺は手を伸ばす。掴んだと思った手は無為に虚空を掻き、黒は夜空に溶け込んですぐに輪郭を現した。

「ほんっと、元気だよね」
「脊髄もらったぁ!」
「なにそれ、どこで憶えたのそんな台詞」
「動くんじゃねぇ!」
「動くよ、だって俺は動物なんだから」
「おおよ分かってんじゃねぇかおめーは人間じゃねぇんだよ!」
「やだなー人間も動物だよー」
「ひらひらしてんじゃねえぇぇ!」

 叩き潰す。心に決めて振り下ろした標識が、コンクリートに激突してひしゃげた。軽やかにそれをすり抜けて、黒い男は不適に笑う。見透かすように、優しげに。それが気に食わない。
 嫌われているのに、憎まれてすらいるのに、どうしてそんな風に笑えるのだろう。飄々と手首がひらめく。一本目のナイフ。いつ見ても血糊ひとつ付着していない綺麗な刃。あいつの瞳に似ている、ような、そうでもないような、まあいいや。

 何も怖くないとでも言うように、言い聞かせるように、黒い塊がくるりと足元に転がってきた。懐に入られて、ナイフが首にぶつかる。化け物が、と呟いた声は、含み笑いのように耳障りで内臓が煮えたぎる。
 普段は温厚な俺の精神が、この男の匂いを嗅ぐと沸騰する。溶岩みたいに噴出する先を探して暴れまわる。首なし妖精とか仕事の先輩とか、そういう奴らにはまったく反応しない俺の中の何かが、こいつを殺せといきり立つ。命じられるまま、俺は拳を振り回した。

 傷付けたくないとか、壊したくないとか、そういう事を考えている俺は、この時どこにいるのだろう。どこでもいい。どうでもいい。今の俺は、喧嘩人形だ(操っているのは誰だ?)。
 弱くて臆病なくせに自尊心だけは高くて、人を見下す事でそのぐらぐらの不安定な自己を保てると思い込んでいるようなちっぽけな奴らが、俺を見て怯える。じゃあ、怯えないこいつは違うのだろうか。どうでもいい。この男が本当はどんな人間でも、俺には関係ない。人ラブとか抜かすその言葉が本当は歪んだ自己愛だったからって、だからどうした。

「おいこらやっと観念したかよノミ蟲」
「観念って。なに、時代劇でも見たの?」
「うるせぇお前は黙って人ラブとかほざいてろ」
「あくまでラブなのは人だからね、化け物とか人形は含まないよ。あと黙ってほざくのは、さすがの俺でも無理」

 長くなりそうな台詞をぶった切って、掴んだ頭部をコンクリートに叩きつける。俺には理解できないものが詰まった頭が、コンクリートと衝突する。それが砕けて散らばるより早く、ぞくりと心臓に走った刺激が怖気なのか快感なのかは分からない。追求しようとも思わない。

 こいつが死んだって、俺が死んだって、何も変わらない。誰が何を言おうと、何をしようと、俺は俺だ。俺が何を言おうと、何をしようと、こいつはこいつでしかない。言葉も行動も無意味だ。どうせ伝わらない。俺の言動が誰かに影響を与えるなんて有り得ない。
 こいつが死んでんでも、俺はきっとその時は喜んでも、すぐにまた日常に戻る。俺は最強で、化け物で、自動喧嘩人形。何も変わらない。俺が死んでもこいつは変わらない。俺が死んだら、たぶん誰にも邪魔されずに一人で生きていく。あるいは、あんな顔を俺以外の誰かに見せるのだろうか。でも俺みたいな奴はいないだろうから、ずっと独りなのだろう。こいつが望む限り。

 ただ、こいつが壊れてしまったら、俺のこの衝動はどうすればいいのだろう、というまったくもって今更な疑問が一瞬だけ脳裡をかすめて、すぐに消え失せた。潰れたと思った頭蓋骨が、意思を持って動き出したからだ。

「いててて、ひどいな」
「俺はひどくない」
「真顔で笑わせないでくれる?」
「笑うな」
「またこの子は、すぐ無茶を言う…」
「てめーは無茶言わねーみてぇな発言やめろ」
「俺は無茶ってあんまり言わないよー?」
「あとこの子とか言うな眼球ハジくぞ」
「やめてください」

 俺が掴んでいたのは、頭部ではなく正確には髪だった。つまり、こいつの髪の長さ分(マイナス俺が掴んでいた部分)だけ、可動域が生まれる訳だ。実際、それは距離にしてほとんどゼロに等しいものだったが、こいつには衝撃を逃がすのに充分な空間だったと、そういう事だ。納得しておけ。

「死んだらどうすんのさ」
「むしろ死ね」
「あ、でも一瞬やべぇ殺しちゃったとか思った思った?」
「なんで二回言った」
「重要な事なので」
「まあ、ちょっと軽くイきそうにはなった」
「しまった予想以上にそっちの人だったか!」
「どっちだ」
「俺から見てあっち側」
「さっぱり分からん」
「もう、おバカさんなんだからぁ☆」
「っだああああぁぁぁぁ!」
「え、イノキ?」
「いいから死ね早く死ね今すぐ死ね!」

 こいつが死んだら、この煮えたぎるものは消えるのだろうか。もしマグマだけ残ってこいつが消えたら俺はきっと壊れる、とは思ったが、まずはこいつを消さないと落ち着いて一服もできないので、とりあえず殺しておく事にした。でもどうせこいつは逃げ切るだろうから、俺は明日からまたこいつの匂いを探さないといけなくなる。俺の安らかな一服のためには是非もない。

 こいつが死んでも俺が死んでも何も変わらないけど、だったら生きていても何も変わらないはずだ。
 でも何も変わらないんだったら、俺はせめて殺したい。