回転しながら飛んできて、地面に激突して轟音を立てたのは、「とまれ」と記してある道路標識だった。それは一時停止して左右を確認せよ、という指示を表す物体で、更にいうなれば道行く人々の安全を守る為に存在している物体だ。仕事を終えて晴れやかな気分で家路についた善良な情報屋を死に至らしめる目的で存在しているのではない。 ひときわ低い声で名を呼ばれる。それでも「くん」付けで呼ぶという事は、いくばくかの敬意を含んでいるからでは、などと思ったので、否定されるのは分かりきっているが、ちょっとした悪戯心でそれを指摘してみた。 「君、そんなに俺が好きなの?」 「ははは、お前っておもしれぇな」 「そうかな、まあ、よく言われるよ」 子供が見たら泣き出しそうな笑顔でその男は街灯を引き抜こうとして勢いあまって握り潰してしまい、小さく舌打ちをした。しかし街灯が思うように引き抜けなかったのが俺の所為だと主張するほどには理不尽でなかった彼は、気を取りなおしてガードレールに手をかける。 「あああほんっとおもしれぇな、お前」 「そりゃどうも」 「面白すぎて殺したい」 「君さ、その起点から結論までの経過をすっ飛ばして口に出す癖、やめた方がいいと思う。説明って大事だよ。いきなり結論だけ出すと、プロセスを想像できない人には唐突な感情の発露としか見えないんだ。なんか変な電波受信してるんじゃないかって思われちゃうよ?」 「本物の電波受信してるお前に言われちゃあ、しょうがねぇな」 「そんな、人を変な奴みたいに言わないでよ」 「変な奴じゃないみてぇに言うなぁ!」 ガードレールは、車両から人間を守る為にある。彼がまるで武器のように扱う物は、往々にして人命を危険から遠ざける目的で存在している。ガードレールもさぞや不本意だろう。 頭上を通り過ぎていったガードレールの切れ端を憐れむ暇もなく、俺は身をひるがえした。振り向いて距離を測りつつ、退路を確保しようと周囲を見回す。ついでに、ちょっと軽口も叩いておく。 「変っていうならさ、君の方が変だよ。異常だよ。自覚ないの?」 「だあああうるせぇ!」 「ほらそうやって反論すら放棄して怒鳴るって事はさ、認めたも同然なんだよ」 「動くなっつってんだろ!」 「あと、大声で脅かしても身をすくませるのは小動物だけだって、知ってるよね。シカの鳴き声に怯えるライオンなんていない。君は自分より弱いものを攻撃してるって、ちゃんと分かってるんだ。分かってて、キレたって言い訳して、俺の所為にして暴力を振るってる。暴力が嫌いだとか言って、悪いのは自分を怒らせる周囲だって、自分の暴力衝動の言い訳してるんだ」 「もらったぁ!」 「え、ちょっ…」 本音を言おう。俺は少しだけ期待していた。言い当てられて、この男が自分を省みて、ほんのちょっとでも自分の行動について考えてくれる事を。 俺が悪かったよ。怪獣と話そうなんて試みた俺が愚かだったよちくしょう。 頬をかすめた標識は、うまく避けられた。避けると同時に走る体勢に入って、あらかじめ目視しておいた路地へと向かう。あそこなら、得意の長物(標識とか)も振り回せないだろう。 一歩目が地面を踏むより早く、標識と同じ軌道で脚が飛んできた。いつ見ても無駄に長いよね、そんなに長くて邪魔じゃないのかな、と常々思っていた、あの脚が。 体勢を低くしていたとはいえ、爪先が米神に激突した。なにこの会心の一撃。 一瞬だけ目の前が暗くなったが、かろうじて意識の糸をたぐり寄せて気絶だけは免れて、がんがん揺れる頭をどうにか固定して目を上げて、俺は久し振りに体が震えた。 「いー眺めだなぁオイ」 「うっわ、嬉しそー」 「誤解すんじゃねぇぞ、俺は別に嬉しくなんかないんだからな」 「こんなに萌えないツンデレ初めて見たよ」 「ごみはごみ箱にってな」 「あ、そうだ思い出した。前から言おう言おうと思って忘れてたんだけどね、このご時世にポイ捨ては豪胆すぎるよ」 「部屋の掃除するとすっきりするだろ?」 「それでなくてもお金ないのに、罰金までとられたらさすがに君でも生きてくの難しいんじゃない?」 「そんな気分だ」 「あと、俺の部屋はだいたいいつも片付いてるよ」 ジャケットの襟を掴まれてはいたが、両手は拘束されていない。本物のバカかこいつと思いながら、ポケットに手を入れる。ほぼ同時に、右腕を捻り上げられた。今まさに取り出そうとしていたナイフが、地面に落ちて硬質な音を立てる。ついでとばかりに体中をまさぐられて、所持していたナイフを全て落とされた。 それで少しばかり心細くなった俺は、やはりナイフに依存しているのだろうか。なるべく頼らないようにしていたつもりだけど、怪獣の前で武器を奪われたこの状況では、真冬に衣服を奪われたような気持ちになるのも仕方ない。こんな小さなナイフで、彼がどうこうできる訳もないのは分かっているが。 地面に落ちたナイフを、あいつには気づかれないようにそっと盗み見た。届かない。 そのうちの一つを拾い上げて、彼はサングラス越しに莞爾と微笑む。今度はバカかこいつとは思わなかった。バカだなこいつと思った。 それとも、嘘つきなのだろうか。俺を本気で殺そうとは思っていないのだろうか。だとしたら、こんな思いをしているのが俺だけだという事だ。それは面白くない。 ナイフを拾う際に、この男は俺から視線を外した。俺の上着は掴んだままだったが、上着は俺の上着なだけで俺ではない。つまり、この男が掴んでいたのは俺ではない。 袖から腕を抜くだけで、俺はたやすく解放された。凄まじい頭脳戦を繰り広げた末に出し抜かれたような顔をした男の脇をすり抜けて、錆びた手すりを乗り越えて階段を駆け上がる。 脱色しすぎてひどく傷んだ金髪を見下ろせる位置まで移動してから、俺は振り向いた。見上げてくる男は、まだ手にナイフを持っている。そんな物は必要ないくせに。どんな武器も必要ないくせに。 その気になれば手だけで人を殺せるくせに、この男は物を使う。そうすれば手が汚れないとでも思っているのか。あらゆるものを破壊に使っておきながら、散々人を傷つけておきながら、自分だけは綺麗なままでいようというのか。 その汚さは、不本意ながら、ちょっと嫌いではない。 だから俺は、逃げるのをやめて微笑んだ。見せる為ではなく、俺が嬉しかったから。 「君にナイフなんて似合わないよ、だってそれは人間の叡智の結晶なんだから。削ぎ落とすとか、切り離すとか、必要最低限の破壊でそれらを行う為にあるんだ。ね、似合わないでしょ。本来の存在意義を無視して、まったく見当違いの方法で使用するのが君って奴じゃないか。君が武器だと思い込んでる道路標識ってのはね、本当は混乱や事故を避ける目的で存在してるんだよ。何かを壊したり、誰かを殺す為なんかじゃない、むしろ逆なんだ。道具っていう人間が作り出した物、特にナイフという作るのにも使うのにも高い技術を必要とする道具を君が持つなんて、人間への冒涜にも等しい行為だ」 「いいから動くな!」 「ああまったく、言葉さえ通じないなんて、絶望したくなるよ」 「おお、しろよ絶望!」 「なんで倒置法?」 「とーちほーぐれぇでぐだぐだ言ってんじゃねぇ!」 「あれ、もしかしてそれすら通じてない?」 「俺がてめーの言う事を聞くと思うのかよ」 「うん、思わない」 「だったら死ねえぇ!」 「『だったら』の使用方法も間違ってるよ」 「おめーは産まれた事が間違いだったな」 「何ちょっとうまいこと言ったみたいな顔してんだよ!全然うまくないからね!」 駆け上がってくる足音を聞きながら、俺は屋上から飛び降りた。勿論、足場は確認してある。落ちたナイフを回収しようかと一瞬だけ考えたが、さすがにそれは危険だと断念した。 俺があいつを殺す時は、素手でやってやろう。 遠くなる怒号を背中で聞きながらそんな事を考えて、そのあまりの非現実感に少しだけ笑った。 俺が笑う理由と、あいつが怒る理由は、もしかしたら同じなのかも知れない。 |