どうしてかは分からない。気がついたら俺はそこにいて、その隣では子供が泣いていた。否、まだ泣いてはいないが、泣きそうな顔で膝を抱えていた。
空が赤い。
夕暮れだと思った理由は、傍に子供がいたからだ。朝焼けの時間に子供がこんな場所にいるのは、不自然だと思ったから。少しだけ安堵する。これは終わりを告げる赤だ。もうすぐ世界は終わる。この子を悲しませている世界は、もうすぐ終わる。
うずくまって微動だにしない子供を、視線だけ動かして観察する。子供はひどく荒んだ目をしていた。裏切られたような目をしていた。悲しみと怒りが幼い瞳の奥で炎のようにゆらめいていた。こんなに小さいのに、この子はもう知ってしまったのだ。多くの子供はまだ気づかない事に、気づいてしまった。
かわいそうだな、と、ぼんやり思う。守ってあげる人はいなかったのかな。誰もこの子を助けられなかったのかな。俺がそこにいたら、助けてあげられたかな。
子供はこちらを見ない。見えていないのだろうか。見えるが無視しているのだろうか。でもこんなにも無防備に悲しんでいるという事は、きっと見えていないのだろう。気づいてしまったのなら、人前で、しかも見ず知らずの人間の前で、そんなに無防備にはしていられない。
だとしたら、声も聞こえないのだろうか。
「何がそんなに悲しいの?」
返事はない。斜陽に照らされた瞳は動かない。やはり聞こえていないのか。なんともなしに溜息をつきたいような気分になったが、自分が何を期待していたのかは分からない。傷ついた心を暴いて、かわいそうにと慰めて、無責任に微笑みかけて、時間が来たら、さようなら。暴力よりもタチが悪い。
「それとも、怒ってるのかな?」
そちらの方が真実に近いような気がした。根拠はないが、この子供にはその方が似合う。悲しみよりも怒りを、慟哭よりも鬨声を。怒りは痛みを凌駕するのだと、その幼い背中は証明しているように感じる。根拠はないが。
「でもさ、裏切られるって事は、それまでは信じてたって事なんじゃないかな」
まあ子供なんてバカだから、根拠とかなくてもすぐ信じちゃうけどさ。どうせ聞こえないのなら、言ってもよかったかも知れない。喉まで出かかった言葉を吐き出すか呑み込むか一瞬だけ考えて、呑み込んだ。
「ほら、つまりさ、逆に考えればいいんだよ。裏切られてショックなほど何かを信じてたってのはさ、大人になったら分かるだろうけど、価値のある事なんだよ。大きくなると、信じられるものってすごく少なくなるからね。だから君がそうやって座り込んでこの世の終わりみたいな顔してられるのは、君が子供だからなんだよ。子供の特権ってやつだ」
反応はない。
「大人になったら、裏切られてもそれはお前がバカだからだって言われるんだ。あんな奴を信じる方が間違ってるってね。誰も可哀相だなんて思ってくれない。騙される方が悪いんだって、まあ俺もそう思うけどさ。だから君みたいに『俺って可哀相!』って顔してる奴を見ると、なんかイライラしてくるんだよねぇ。信じた自分がバカだったなぁって、思わない?」
何に裏切られたのか、そもそもこの子供がどうしてこんな顔でひとり夕焼けを睨んでいるのか、それすらも知らないのに、なんとなく腹の辺りに苛立ちが募る。
どうしてそんなに悲しむのだろう。この子がこんなにも心を痛める必要なんて、どこにもないのに。この子が受けた痛みは、まったくの無意味なのに。この世界には、彼が心を痛めるほどの価値なんてないのに。
憂いと表現するには強すぎる瞳で、子供は終わりの赤をじっと睨んでいる。
まだ諦めきれないのだろうか。裏切られたのだから、とっとと見限って絶望してしまえばいいのに。くだらない望みなんか絶ち切ってしまえばいいのに。
「誰も君の事なんか愛してないって、気づいたんだろう?」
夕焼けはまだ終わらない。いつまでも未練がましく居座ってないで、早く夜に譲ってしまえ、お前の役目はもう終わったんだ。今だけは同じ色に染まっても、どうせすぐに元の色に戻る。果かないからこそ綺麗だなんて、誰が思ってやるものか。綺麗なものは、果かなくとも果かなくなくとも綺麗だ。
「誰も君なんか愛さない。君がどれだけ愛しても、同じ量で同じ重さの愛は返ってこない。君が叫べば叫ぶほど、人は君から遠ざかってく。それが悲しいんだね」
子供が視線を鋭くした。もともと険悪な目つきだったが、それが更に研ぎ澄まされる。思わず目を逸らしてしまったが、なんだか負けたような気分になって面白くない。でも逸らした視線を戻すのは億劫だったので、そのまま空を見上げた。
自分が吐き出した言葉が、夕空に霧散するのをぼんやりと眺める。空虚な言葉だ。俺は空虚だ。
情報は、文字にすればやがて消え失せ、声にすればたちまち消え失せる。どうしたって消え失せる。それでも、俺は形にせずにはいられない性分なんだ。厄介だが、そんな自分が実は嫌いではなかったりする。
「でもさ、君とは関係のない、ただの通りすがりに愛されなかったからって、君が悲しむ必要なんてないじゃないか。家族や友達だって、自分自身じゃない、ただの他人だ。君を本当には理解しないし、きっとそのうち違う道を行く。ただ偶然に同じ家庭に居合わせたってだけの、つまりが通りすがりと一緒だ。君の事なんか何も知らないただの通りすがりが君を嫌ったって、君にはどんな影響もない。そうだろう?」
綺麗なものは、もっと強い。風にも雨にも嵐にも折られず、どれだけの時間が経っても変わらず綺麗でなければ、それは綺麗とはいえない。完然として、揺るぎなく、誰よりも強い。それが俺の定義する綺麗なものだ。簡単に俺の手に入るような、そんなものは綺麗じゃない。
「それでも、悲しいの?」
風にたやすく揺らぐような、そんなものは綺麗じゃない。
「愛してるのに愛されなかったら、そりゃあ悲しいだろうさ。でもさ、愛してないのに悲しいなんておかしいよ。もしかして君は、全人類を愛してるとでも言うのかい?」
「お前、うぜぇよ」
あ、聞こえてたんだ。
「ちょっと人ラブって言ってみない?」
「意味分かんねぇ」
この子、誰かに似てる。
という夢を見た。
夢の中のあの子の人ラブと、自分が言う人ラブは、随分と違うものだなぁと、寝惚けた頭でぼんやり考える。
顔を洗って着替えると、ようやく目が覚めてきた。頭の隅っこに貼り付いていた夢の残滓を欠伸とともに吐き出し、PCを起動させる。
俺が寝ている間にも人は動いているのだ。ずっと起きていられたらいいのに、とたまに思う。俺が眠っている間に何か面白い事が起こったら、どうしてくれるんだ。
夢の中のあの子が誰かに似ていた、という情報は、俺には必要なかったので早々に忘れた。
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