俺は人を愛している。地球上に存在するすべての人間と呼ばれる生物を愛している。それが嘘だと言うのなら、喜んで受けて立とう。否定する論拠が俺を頷かせてくれたのなら、俺はそいつに最上級の敬意を捧げてもいい。それは人が持ち得る最も尊くうつくしい感情の一つだと、俺は信じている。もしかしたら、明日には気が変わるかも知れないが。

 雑踏も嫌いではない。様々な情報が細切れになって俺の耳と目と鼻と肌と舌と、その他のあらゆる器官を刺激をする。俺には利益をもたらさない情報の奔流を受け取り、瞬間的に取捨選択し、気に入ったものだけをそっとポケットにしまう。
 そんなつかの間の平穏は、聞きなれた怒声に打ち砕かれた。
 真直ぐに、ひたむきに、殺意が俺に向かって飛んでくる。唯一というのはそれだけで価値があるのだと、そんな事を考えながら、わざと彼が嫌うような笑みを浮かべて振り向く。

 大声で名前を呼ばれた。熱烈だなぁと笑いながら、飛んできた自販機の着地点から退避する。立て続けに、今度はコンビニのゴミ箱が飛んできた。
 「燃えるごみ」と書かれた箱から、プラスチックの容器がこぼれ出る。分類としては「燃えないごみ」だが、本当はプラスチックだって燃えるのだ。プラスチック容器を捨てた見ず知らずの(あるいは俺が知っている誰かなのかも知れない。その可能性は高くないが皆無ではない)人に、お前は間違っていないと心の中で呟く。

 何度も名前を呼ばれて、ありとあらゆる物が俺に向かって飛んでくる。いらない物ばかりだったので、受け取りはしない。名前さえ、彼が呼ぶのなら必要としない。
 自分の力を憎んで壊れかけた男が、その力を行使して俺に向かってくる。
 のみむし、このやろう、おまえがいるとくうきがよごれる。

 幼い語彙で罵る声を聞きながら、俺は少しだけ愉快な気分になって、わざとではなく笑った。
 乱雑な言葉で、暴力を用いて、この男は甘えているだけなのだ。指摘する必要はない。自覚したところで、閉じ込められて抑圧されて奥底で歪んでそれでも消えてくれなくて、結局は憎悪として表現されたその感情は、どうしようもないのだから。
 でも一応、言っておこう。

「何かにたとえるってのはさ、その類似点を強調するからこそ成り立つんだよ。りんごのように赤くて白い、とか、月のように静かで不義、とかってさ。俺とノミの共通点っていったら、そうだな、動物ってとこかな。あと、跳びはねるのも嫌いじゃないね。まあ、ノミが好んで跳びはねてるのかどうかは知らないけど。たぶんだけど、ノミはそうするしかないから跳びはねてるんだよ。そこは、俺とは違うね。で、本題なんだけどさ、キミは暗喩を用いて俺を表現するでしょ。それってさ、より情熱的な感じがするよね。『キミはバラのようだ!』って言われるのと、『キミはバラだ!』って言われるのと、ちょっと今ここで比較してみてよ、どう?」
「避けてんじゃねぇノミ蟲が!」
「俺は断然、後者の方が称賛として強い意味を持つと思うんだよね。まあ感覚的なものなんだけど、そもそも比喩ってのが感覚的に訴えかける手段なんだよ。詩を論理的に分解するなんて無粋だって言う人もいるかも知れないけど、感情的に好むものを色んな角度から眺めようって試みは、決して間違ってないよね。誰だって好きな事はもっと知りたいと思うでしょ。そりゃあ、知りたくなかった事実なんてのもこの世には存在するけど、それを含めて見る覚悟ってのは、人を愛するのに必要だよ」
「おめーはノミ蟲より胸糞悪ぃんだよ!」

 ガードレールに八つ当たりしながら、やけに平和な名前の男が怒鳴る。こんなに言葉を尽くしても(いや、尽きてないけど)伝わらないなんて、悲しくなってくる。ちゃんと聞いていれば、きっとこの男でも理解できるはずなのに。
 熱烈で暴力的なその行動を、俺はちゃんと分かっていると、こんなにも伝えようとしているのに。

「つまり俺はね、ノミと俺に謝れって言いたかったんだよ」
「ノミに謝るのはいいが、なんでお前に謝るんだよ」
「だって俺とノミは違うものじゃないか」
「うん、ノミに失礼だったな」
「俺は人間だよ」
「へえ、そうだったのか」

 サングラスの奥の片目が眇められて、唇が凶悪そうに歪んだ。出来の悪い嘘を見透かすように。まったく嫌になる。どうしてこんな男が、そんな顔をするのだろう。
 この男が察したとおり、俺は嘘をついた。俺は知っている。俺が人を好きだと思うのは、俺が人ではないと思っているからだ。俺と俺以外の間に画然たる線を引き、俺以外の全部と、俺一人を、等価の別物としているからだ。
 思春期によくある感情だ。自分は特別だと信じ込む。本当は分かっているのに。

 もっと幼い頃は、意識するまでもなく世界の中心は自分だった。だけど世の中のほんの一部を垣間見ただけで、その自信はたやすく崩れ去る。本当はつまらない、くだらない、世界にとっては自分もノミも大して変わらないちっぽけな存在なのだと、だいたいの奴は気付いてしまう。
 だから、夢を見る。自分は特別。自分の代わりはいない。世界が大声で否定するのを、耳を塞いでやり過ごす。本当は分かっているのに、まだ信じたくないと、もう少しだけ夢を見させてと、無駄に足掻く。
 それが俗にいう中二病ってやつだ。実をいうと俺も長患い中である。

 間近に迫った瞳はきれいな色で、俺は惨状を忘れてそれを観賞したくなった。だから俺は、刳り抜いてあとでじっくり自室に戻ってから心行くまで観賞しようと考えて、目蓋にナイフを突き立てた。
 がきんと硬質な音がして、手から腕までがじんと痺れる。目の前で、きれいな瞳が細められた。

 言葉は、どこにもなかった。罵倒とそれに応える哄笑と、飛び道具と化した公共物がコンクリートに激突する。
 フェイントすら使わずに手当たりしだいに俺へと投げられる物体は、数式など持ち出すまでもなく着地点を予測できるような分かりやすい放物線を描いた。予測できたので、そこから移動するだけで俺は被害を免れる。
 しね、ころしてやる、と凄む声は疑うべくもなく吹っ切れていて、人並み外れた怪力に懊悩していた事などすっかり忘れているようだ。文字どおり我を忘れるほど何かに夢中になれるなんて、羨ましい。しかもその相手が俺だなんて、楽しくてたまらない。笑い声を上げた俺に更に激昂したのか、怒号がほとんど雄叫びになった。

 自由だなぁ、と、コンクリートの壁に突き刺さった一方通行の標識がたわむのを見ながら思う。向けられる恐怖の眼差しも、傷付けてしまった後悔も、彼の心にはなにもない。
 ただひたすらに、ころすころすころすころす。

 ああ、なんて情熱的な人に出会ってしまったのだろう。
 この人に求められる度に、俺は誰かの唯一になれるのだと錯覚する。