彼には重大な欠損がある。それは目に見える形の欠損ではなかったが、蓬莱寺はずっとそれが悲しくて仕様がなかった。
どうにかしてその欠損を埋めたくて、でもどうしたら埋まるのか見当もつかなくて、蓬莱寺はただ彼の隣に立っていた。せめて彼がその欠損を自覚して悲しい気持ちにならぬよう、わざと自分の欠損をさらけ出して見せたりもした。
そんな涙ぐましい努力は、しかしなんの意味もなかったのだと、全てが終わってからようやく知る事となる。
決戦を終えた朝、緋勇は少しだけ目を細めて笑い合う仲間たちを見ていた。遠く過ぎ去った日々を見るように、優しくも寂しい瞳だった。勝利に沸いていた精神が、ゆっくりと沈んでゆくのを自覚する。
ここは苦難を乗り越えて辿り着いた念願の朝だ。ずっとこの朝を目指して走ってきた。折られるかも知れないと思ったのは一度や二度ではない。膝を付き、ここまでかと奥歯を食い締めた記憶もある。長い夜をやっと越えて、どうして彼はそんなにも悲しそうな目をするのだろう。
蓬莱寺の視線に気づき、緋勇が目を伏せた。再び上げられた瞳は、怖いほど透き通っている。蓬莱寺の疲れ果てた体が弾けるように地を蹴り、衝突するような勢いで緋勇の背中にぶつかった。同じように疲弊している緋勇の体は、しかし揺らぎもせずにそれを受け止めた。喜びはしゃいでいるのだと解釈した緋勇が、応えて軽く拳を突き出す。お前は相棒だと言って笑う時、蓬莱寺はよくそうやって緋勇に拳を当てた。心を預けるように、または預かるように。
重たい拳が胸を打った瞬間、心臓までもが貫かれたように錯覚した。この朝に勝利など存在し得なかったのだと、蓬莱寺は風穴の開いた心臓を見下ろしてようやく理解した。
緋勇の存在理由は果たされてしまった。これでもう、彼が生きる理由は失われた。誰よりも彼自身がそう考えているのだ。蓬莱寺の胸中で肥大化してゆく不安に一石を投じたのは、冬の名残に凍てついたある早春の夕刻だった。
監視するように片時も傍を離れない蓬莱寺に、彼はゆるやかに微笑んで見せた。凛とした冬の空気がほんのわずかに花の香を含むような、恐ろしいほど綺麗な笑みだった。その目が自身の死を見詰めているのだと察して、蓬莱寺の全身が総毛だつ。ほとんど無意識で得物を上げ、緋勇の鼻先で静止した切っ先を見てから我に返って、しかし震える切っ先は下ろせぬまま、憎しみすらこめて非情な男の瞳を睨んだ。突きつけられた矜持を、緋勇が動揺すら見せずにそっと手の平で包む。戦い続けた硬い手が、無機物を伝って蓬莱寺の心臓を痛いほど刺激する。
柔らかな拘束を振り払い、心を焼く激情のままに再び木刀を上げた。それは真っ直ぐに緋勇へと向かって、過たず彼の左肩に触れた。砕きたいのではない。ただ刻みつけたいだけだ。この想いを、欲望を、切望を。
せめて、緋勇の体に無数に存在する傷の一つになりたかった。
刀先と肩が接触した瞬間、緋勇がするりと重心を移動させた。流れた切っ先を撫でるように、刀背を両手の平で挟み込む。完全に武器を掌握され、奥底で何かが燃え上がる。それを知ろうともしない愚鈍に、灼熱を叩きつけようと奥歯を食い縛った。
掴まれたままの刀先に氣を集め、もっと熱くと願う。震えて破裂して、いっそ世界ごと砕け散れ。刃と同じ鋭さで滾った氣に、緋勇が弾かれて手を離す。空いた距離を一息で詰め、届けと一心に命じて木刀を突き出した。
数え切れない夜に、蓬莱寺は研磨され続けた。鋭く尖った精神が僅かな間隙を見出して、思考より早く体が動く。
正中線をガードする左腕が揺らいだ。次の呼吸で攻撃に出る。一歩目は左足、この間合いなら蹴りが来る。誘って伸び切った足を砕き、永遠に彼の移動手段を奪ってしまおう。二度と歩けなくなればいい。そうすれば、きっとどこへも行けなくなる。憎まれるだろうか。あの瞳で見てくれるだろうか。心の全てで俺を憎んでくれ。甘美な夢想に一瞬だけ酔い痴れ、それすらも膨大な熱に押し流される。
予想どおりに踏み出した緋勇を誘い、獲物が飛び込んでくるのを待つ。しかし緋勇は、踏み出した足を止めて目を見開いた。少しだけ戸惑い、記憶を探るように視線をさまよわせ、そうしてからもう一度、蓬莱寺を怪訝そうな顔でじっと見詰めた。熱した精神が渦巻くこの身は、そのような冷静さには耐えられない。温度差で壊れてしまいそうだ。整わぬ呼気で疑問を投げる。
緋勇が手を伸ばした。攻撃の為の動作ではないと判断し、冷めやらぬ体で手の行方に目を凝らす。ゆるやかに接近した緋勇の手は、知っていたが傷だらけだった。何度も破けて硬くなった皮膚が、訳も分からずただ悲しい。その手で掴んだ栄光は、早い話が虚無でしかない。ぼんやりと思ってから、自分の頬が濡れている事に気がついた。
唇の横に指が触れて、落ちた雫を乗せて離れてゆく。呆然とそれを見送って、やっと自分は泣いているのだと認識した。指先の雫をどうすべきか迷っている緋勇は、ちょっと気味が悪そうにこちらを見ている。無理もない。自分でも気持ち悪い。
右手の愛刀を握り締め、左の袖で頬を拭う。あとからあとから流れ出るのでなかなか乾かない。もういいやと口中で呟き、続きを催促しようと視線を上げた。まだ足りない。この心はこんなにも飢えている。もっと熱く、何も分からなくなるほどに。突き刺して、彼が絶命するまでは。
音を立てて空気を斬ると、緋勇が薄く笑みを浮かべた。それが本当に幸福そうで、請け負った仕事をやり遂げた充実感のようで、もう彼の愚かさを指摘するのも面倒になって蓬莱寺は断ち切るように走り出した。
緋勇が深く腰を沈め、唸りながら突進してきた木刀を寸でのところで躱す。水のような動きで蓬莱寺の左側面に移動し、柄を支えて曲げられた肘を掴んだ。取り戻そうと腕を引けば極められると、蓬莱寺はもう学習している。動きの制限された肩を緋勇の胸に押しつけ、体重をかけた。もろとも倒れ込み、その動作で解放された肘を緋勇の鳩尾に突き刺す。受身をとる流れで肘を払い除けた緋勇が、落下のエネルギーを使って地面を転がり距離を取る。追って木刀が空間を薙いだが、僅かに届かず大腿をかすめた。浅く皮膚を裂いた風が、緋勇の心臓にも火を点ける。
きょういち、と、熱をはらんだ声が大気を震動させた。それが自分の名前なのだと少し遅れて気づき、更に遅れて声を返す。緋勇の隙を探しながら構え、先程の昂揚を取り戻そうと神経を研ぎ澄ませる。そうすると、緋勇がまた微笑んだ。冬の陽射しのように透き通った瞳で、穏やかに囁く。
「お前に殺されるのなら」
「ひーちゃんのばかっ!」
あまりに幼い罵倒に、緋勇が瞬いて言葉を途切れさせた。右手の得物が急に煩わしくなり、投げ捨てて拳を握る。真正面から緋勇に向かって歩き、握り締めた拳を振り上げる。そのまま勢いを乗せて振り下ろし、あっさりと手の平で受けられて流された。だがこんな程度で負けを認めるようなら、そもそも緋勇の相棒などやっていられない。もう一度、緋勇の顔面に拳を突き出す。
「おい、京一?」
「ばか!さいってーだお前!」
「な、え、あの」
「お前がばかすぎて泣けてきたんだよ!」
「え、いや、お前の方がばかだろう」
「いーやお前の方がばかだっ!」
緋勇が途方に暮れて視線を泳がせた。それでも当たらない拳が悔しくて、伝わらない想いが悲しくて、これで終わりだと本気で考えている緋勇に腹が立って、それすらも通じないこの男はやはり愚かなのだと心の底から思う。こんな男に切なくなるほど望んでいる自分も大概ばかだ、とは思ったが、それはもう考えても仕方のない事なので気にしない。
右拳を受け止められて、横っ面を狙った左拳も同じように固定された。つまり、緋勇も両手が塞がっている。緋勇が察して目を見張った時には、彼の顔面に蓬莱寺の額が音を立てて衝突していた。たまらず仰け反った緋勇に乗り上げて、胸倉を掴んで引き寄せる。二発目は完全に見切られた。緋勇は咄嗟の判断で、顔面ではなく頭頂部で頭突きを受けたのだ。汗に濡れた彼の髪の匂いと、自分の血の匂いが涙腺を刺激する。鼻水も出てきた。
「ひーちゃんのくせに!」
「え、ええと?」
「ばかっ!」
緋勇の腹に乗り上げたまま、彼の頬に雫が落ちるのを見る。涙かと思ったが、赤いからたぶん鼻血だ。喉の奥が苦い。眉間が熱い。呆気に取られて見上げてくる彼の瞳が、たまらなく苛立たしい。
「お前は俺がぜってぇぶっ殺すからな!」
「そ、そうか?」
「勝ち逃げなんて俺が許すと思ってんのか!」
「お、思ってない」
「よし!」
やっと分かったか、と涙混じりに頷いて、まだおろおろしている緋勇の肩を両手で掴んだ。そのまま胸に抱き込んで、絶対に離してやるものかと叫ぼうとしたが、もう声が出てこなかったので心の中で叫んでおいた。やはり緋勇には伝わらなかったが、背中を叩いた手が彼にしては優しかったので満足だ。
次はやってやる!と宣言したら「やってみろ」と返されたので、これが死ぬまで続けばいいと考えて笑い出したくなった。
彼の欠損は、きっと永遠に埋まらない。
だから俺がいるんだと、蓬莱寺は泣きながら笑った。
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