喧嘩をした。
 と、葉佩は思っている。控えめにいっても相手に鬱屈とした不満を感じていた。相手も同じ気持ちだろうと、そう考えている。だから顔を会わせた時は気まずかったし、しかもカレーを作ったなどとちょっと上機嫌で言われて戸惑った。

 事の発端は、些細な出来事だ。進むべきだと主張する葉佩に、皆守が異を唱えた。いってしまえばそれだけだ。結局、葉佩が意識を失って、皆守がそれを担いで連れ帰った。

 葉佩はベッドの上で目覚めて、まず驚き、そして嘆き、最後には拗ねた。自分は間違ったのではない。強制的に作業を中断させられたのだと、それはもう泣きそうな勢いで主張した。もうあとわずかでも時間があったら、絶対にあの遺跡は踏破できたのだと、まるで気に入ったおもちゃを取り上げられた子供が不満を訴えるように言った。
 それに対し皆守は、軽く肩をすくめてキッチンに消えた。葉佩の機嫌よりも、鍋の中身が気になったからだ。

 そして3時間ほどが経過した。キッチンからは、食欲を刺激するスパイシーな香りが漂ってくる。葉佩は毛布に頭までくるまって膝を抱えていた。
 感情に任せて怒鳴っても、皆守は何も言わなかった。それがなお一層、葉佩を苛立たせる。彼は何も感じていないのかと、それが不安である事にも気付かずに口中で小さく毒づく。
 折れた左手の小指が、鼓動に合わせてずきずきと痛む。普段は意識にもいたらない末端が、少し傷付いたぐらいで痛むのも気に食わない。存在そのものが失われても、きっと生活に支障は来たさない。それなのに大袈裟な痛みを発して悲鳴を上げる指が、厭わしくて仕方ない。いっそ切り落としてやろうかと、奥歯を噛み締めながら思う。そうすれば、落とされた小指は反省するだろうか。もう痛まないから、どうか戻してくれと懇願するだろうか。

 悪夢のような空想をもてあそびながら、そっと耳をそばだてる。油の焼ける音と香辛料の匂いが同時に届き、彼にとって自分はこの小指のようなものだと、自棄ぎみに考えた。キッチンからは肯定も否定も返らない。代わりに、空腹という苦痛を誘う香りだけが漂ってきた。

 間違っていなかったと、もう何度目か心で言葉にする。きっと正しかった。扉は開いていた。進むべきだった。探求を続けるべきだった。後悔ばかりが押し寄せて、葉佩を孤独の浜に閉じ込める。
 間違っていたのは彼だ。何度も繰り返す。進まないのなら、生きているべきではない。それは半ばほどは自棄だったが、残りの半分は確信だった。ずっと葉佩はそう信じてきた。
 命は手段でしかない。為さぬなら、命に価値はない。でなければ、今まで葉佩が奪った人と人でないものの命にさえ、価値があるという事だ。そんなのおかしい。守るべきものを守れず、与えられた役目さえ果たせなかったのだから、死んで当然だ。この身も等しく。
 そうだ、この敗北は死と同等だ。彼は自分を殺したのだ。

 ひとしきり攻撃的な自虐に酔いしれ、葉佩はかぶっていた毛布を少しだけ下げた。目だけを出して、キッチンを窺う。どうしてよりによってその瞬間、皆守が顔を出したのだろう。
 慌てて毛布をかぶりなおしたが間に合わず、皆守が口の端を曲げるのが見えた。片方の眉だけを器用にしかめて、呆れたように頬を歪める。
 大人が子供を見るような目に、屈辱を感じられずにいられない。彼にとってこの怒りは、子供の稚気のようなものなのだ。取るに足らない瑣末な出来事なのだ。自尊心が打ち砕かれたと、またその自尊心が本当はつまらない虚栄心なのだと、認識するほど葉佩は冷静ではいられなかった。

「皆守のばか!」
「うるせぇ怒鳴るな」
「ばかぁ!」
「前から思ってたんだが」
「しかもカレー作りながらアロマ吸うってどうなんだよ!」
「お前って怒ると語彙が子供になるよな」
「ちょっとアロマ鼻から離してみろ、すごい事になってるぞ!」
「まあ落ち着いて深呼吸してみろ」
「カレーとラベンダーが選挙戦してるこの空間で!?」
「慣れると調和してるような気がしてくる」
「気のせいだ!」

 この期に及んで空腹を感じる我が身が鬱陶しい。もう死んだのに、誇りは失われたのに、生きる価値はなくなったのに、どうしてこんなにも生きていたいと叫ぶのだろう。負けたくせに。
 皆守に背を向けて毛布で全身を包み、可能な限りの拒絶を体現する。それが通じないのか無視しているのか、皆守は腕を伸ばして葉佩に触れた。跳ね除けたいのに、小指が痛くて動けない。

「葉佩」
「俺は葉佩じゃねぇって何度言えば分かるんだよ」
「名前なんかどうでもいいだろ」
「じゃあ俺の事はご主人様って呼べ!」
「分かった、ご主人様」
「やっぱやめてください!」
「もう少し考えてから言え」
「そんなさらっと言うなんて思わなかったんだよ!」
「《宝探し屋》のくせに」
「関係ねぇ!」
「あるだろ?」
「ねぇよ」
「《宝探し屋》なら、常に最悪の事態を想定しておけ」
「ちくしょう、なんでちょっと正論っぽく聞こえるんだよ」
「何故ならそれは、正論だからだ」

 絶対に違う、と低く唸るような声で発したが、皆守に届いたかどうかは分からない。どうでもいい。どうせ届いても、彼に到達するまでに変質してしまっているだろう。星のようだと思い、すぐにそれを打ち消す。光の速さで数千年もかけて、仮に伝わったとして意味があるのか。あるはずない。無意味だ。愚かだ。滑稽だ。

 もうすぐできるからな、とささやくように告げて、皆守はまたキッチンに戻っていった。カレーは嫌いだ。辛すぎる。食べるなら甘い物がいい。チョコレートが食べたい。カレーなんか食べたくない。キッチンに向けてそう言ってみたが、やはり反応はない。
 彼には自分の気持ちなど理解できないのだと、憐れみを欲する心境で唇を噛む。孤独だと嘆くほどには、葉佩は孤独ではなくなっていた。

 かつて葉佩が星ばかり見ていたのは、誰も自分を見ないのだと分かっていたからだ。それを嘆く事も知らなかった。あの男に会うまでは、自分が憐れな存在だなどと知らなかった。知らずにいられた。












 腹に衝撃を受けて、葉佩は目を開けた。右手にカレーライスの入った皿を、左手にスプーンも持って、皆守がベッドの横に立っていた。ちなみに、左足は葉佩の腹の上だ。

「おはよう、ご主人様」
「真顔で言うのやめてください。あと重いです」
「内臓破裂するほどじゃないだろ」
「それがセーフの基準なの?」
「骨折もしてない」
「してるよ」
「小指だろ」
「小指でも痛いんだよ」

 まるで正解を口にした子供に微笑むように口の端を上げて、皆守は目を細めた。そうしてから、葉佩の鼻先に皿を突きつけた。葉佩が顔をしかめても、どこか眠たげな柔らかい笑みを浮かべてスプーンを差し出す。
 鼻先をくすぐる香りは、否応なく本能的な欲求を刺激する。数分後には屈するであろう自分が、殺したいほど許せない。

「俺のカレーが食えないってのか」
「食えねぇよ」
「なに拗ねてんだ」
「皆守は俺を殺したんだよ」
「そうだな」
「お前といると、俺は《宝探し屋》じゃなくなってく」
「ほお」
「俺は星を見たい」
「見ればいいだろ」
「星しか見たくない」
「足元注意だな」
「お前なんか嫌いだ」
「そうか」
「俺の邪魔ばっかする」
「まあな」

 何より許せないのは、カレーから果実の香りがする事だ。つまり、皆守の作ったカレーが、葉佩が好む味に仕上がっているという事だ。辛くても甘くても同じように食べていた自覚のある葉佩は、悔しくて仕方ない。
 自分が甘い味を好むなどと、自分でも知らなかったのに。

「しょうがない奴だな」

 悔しい。