その日、緋勇が如月骨董品店の引き戸を開けても、店内には誰もいなかった。鍵は開いている。商い中の看板も出ていた。よほどの急用でもあって外出しているのだろうか。如月にしては珍しい。特に用があった訳でもないので出直そうかと踵を返すと、それを引き留めるように慌てた足音と声が背後から飛んできた。
「やあ、いらっしゃい」
「いたのか」
「すまない、ちょっと奥にいたんだよ」
「忙しいのか?」
「そういう訳じゃないんだ」
「そうか」
「君も上がっていくかい?」
断る理由も、特になかった。
実はさっき蓬莱寺が来たんだ。そう言って如月は台所に消え、緋勇は一人で襖を開けた。
目に入ったのは、冬の暖房器具の代名詞、炬燵だった。卓の上には籠に入った蜜柑。この誘惑に勝てる者など、恐らく世界中どこを探しても存在しないだろう。緋勇は遠慮なく炬燵に足を突っ込んだ。その瞬間、爪先が柔らかくて生あたたかい物に触れた。思いも寄らない感触に驚き、炬燵から出て布団を捲り上げてみる。
赤毛の猫が、じろりとこちらを睨んでいた。どうやらこの猫を踏んでしまったようだ。炬燵の中に先客がいるなどとは聞いていない。俺は悪くない。そんな所にいるお前が悪い。視線でそう主張すると、通じたのかそれ以外の理由からか、猫はいかにも億劫そうに炬燵から出てきた。
茶托を盆に乗せた如月が襖を開けると、そこは戦場だった。緋勇は腰を落とし、鋭い眼差しで猫を睨んでいる。猫は全身の毛を逆立てて、畳に低く構えている。何はさておき、室内での死闘は遠慮して欲しい。如月は殊更に声を張るでもなく、ともすれば聞き逃しそうなほどの低音で言った。
「壊したら弁償してもらうからね」
一人と一匹は即座に構えを解いた。
気を取り直して着座を勧めると、緋勇はまだ猫を睨みながらも炬燵に入った。その手元に湯のみを置きつつ、如月がふと顔を上げる。
「蓬莱寺は?」
「いない」
「おかしいな、さっきまでは確かに」
と辺りを見回し、視界に入ったのは猫だった。明るい毛並みが、彼の髪の色とよく似ている。緋勇の膝に前足をかけて鋭く叩き落されているその様も、なんだか既視感を覚えた。彼はよくこうして緋勇の肩に肘を置こうとして叩き落されている。だからなんだという訳ではない。ただ、思い出したのだ。
「ついに猫になったのかな」
「お前もそう思うか」
真顔でそう言った緋勇に、如月は額を押さえて感情を抑えた。この人は純真なんだ。決して何かが足りないとか、そういう事じゃない。突っ込んだら負けだ。そうだ、きっと冗談だ。そうに違いない。真顔だけど。
脳裡を走り回る衝動と闘う如月を、緋勇はどこまでも澄み切った目でじっと見詰めている。実際には見詰めているのではなく、ただ如月を視界に入れているだけなのだろうが。
「いや、忘れてくれ」
「何を」
「人間は猫になんかならない」
「そうだな」
「ああそうさ」
「でもこいつは京一だと思う」
「・・・大麻でも持ってくるかい?」
「それは前に試しただろう」
「そうだったね」
膝に乗るのは諦めた猫が、今度は緋勇の背中を登り始めた。後ろ手にそれを引き剥がそうと悪戦苦闘している緋勇は、それでも真顔だ。肩にまで到達した猫が、誇らしげに目を細める。嬉しそうに黒髪に頬を寄せる姿は、控えめに見ても愛らしいと表現する事に抵抗がない程度には愛らしい。如月も猫は嫌いではない。
「蓬莱寺にしては、可愛すぎないかな」
「京一は可愛いぞ」
「そ、そうだったのか!」
「知らなかったのか」
「知りたくなかったよ、そんな事実」
「諦めろ事実だ」
「君はいろいろ諦めすぎじゃないかな」
「そうか?」
傾いで遠くなった首を追って、猫が前足を伸ばした。髪にじゃれつく猫を手の平で制しながら、緋勇は「俺は何も諦めてない」と小さく囁いた。ああそうだ、彼は何も諦めていない。視線だけでそれを肯定すると、緋勇が少しだけ満足そうに瞳を伏せた。その顔のすぐ横では猫が無邪気に遊んでいるのだが、それは無視する。そもそも本当に無邪気なのかどうか、そんな事を推し量る術を如月は持たない。
蜜柑の筋を取る作業に思わず熱中していたら、場に相応しくない暴力的な音が如月の鼓膜を震わせた。大きい音ではなかったが、衝撃を想起させる音だ。顔を上げると、緋勇が耳を押さえて物凄い目で猫を睨んでいた。猫が畳に叩き付けられた音だと察し、何事かと緋勇を呼ぶ。
「なんでもない」
「いや、でも」
「なんでもない」
「ええと、たとえ蓬莱寺だったとしても」
「なんでもない」
「猫に掌底は可哀想だと思うよ」
「これが京一であると仮定する」
「は?」
「可哀想だと思うか?」
蓬莱寺ならば、それほど可哀想ではない。だがこの猫は、彼のように戦う術を持っていないように見える。細い爪と牙は、彼が武器とする愛刀とは比べるのも愚かしいほど脆弱だ。緋勇が、服にしがみついた猫を引き剥がせないのも、爪が折れそうで怖いからだろう。
つまるところ、緋勇の問いに対する答えは、是だ。仮にこの猫が蓬莱寺だとしても、猫である事実は如何ともしがたい。緋勇の方が圧倒的に強いのだから、苛めているようにしか見えないのが現実だろう。如月がそう言うと、緋勇は眉根を寄せた。
その隙を見逃さず、猫が飛びかった。緋勇の肩に爪を立て、その耳に顔をこすりつける。緋勇が両手でそれを制しつつ、しかし反撃の目算は立たぬままに眉間に皺を寄せている。それを許容と判断したのか、猫は嬉しそうに目を細め、黒髪の隙間から見える耳を舌で撫で上げた。緋勇が目を見開いてぞくりと身を震わせるのを、如月はただ無表情に見ていた。
緋勇の右腕が閃いた。刃と同じ鋭さで、研ぎ澄まされた指先が猫の腹に向かう。如月が咄嗟に声を上げなければ、憐れな猫は絶命していただろう。そんな攻撃だった。
間一髪でそれを躱し、猫が着地した畳できらりと瞳を上げる。舐められた耳を押さえつつ、緋勇が猫を睥睨する。室内に、暴風のような氣が吹き荒れた。
それを感じとりながらも、如月は綺麗に筋を取った蜜柑を一房、口に入れる。咀嚼して嚥下する間に、一人と一匹は暴発寸前まで盛り上がっていた。黄金の氣が満ちた空間で、この猫はどうしてそんなにも嬉しそうにしているのだろう。鈍いのだろうか。それとも、知っているのだろうか。緋勇が本当には殺意など抱いていない事を。
「龍麻」
「なんだ」
「その絵皿」
「ん?」
「一つ800万円」
「・・・」
「あと、そこの掛け軸は」
「分かった。俺が悪かった」
珍しく言外の声を察した緋勇が、これまた珍しく自分の非を認めた。もし彼が本気で攻撃の意思を持っていたら、そんな言葉では止まらなかっただろう。しかし緋勇は、まだ耳を押さえながらも猫から視線を外して炬燵に戻った。当然のようにその膝に乗り上げようとして叩き落された猫は、それでも諦めきれないらしく緋勇の周りをうろうろしている。前足で緋勇の肘を突付いたり、跳び上がって黒髪に触れようとして失敗したりと、何やら楽しそうだ。
「その猫、随分と懐いてるね」
「そうだな」
「君が好きなのかな」
「さあな」
「少しぐらい、抱いてあげてもいいんじゃないかな」
蜜柑を手刀で切り裂こうとしていた緋勇が、手を止めて顔を上げた。同時に、炬燵がぎしりと変な音を立てた。直後、緋勇の手の中にあった蜜柑が砕け散って汁を飛ばした。それと一緒に飛んできた緋勇の視線は、控えめに表現しても意味不明なほど狼狽していた。驚愕に見開かれた目が、彼の戸惑いと混乱を如月に伝える。
「た、龍麻?」
「・・・見失ったぞ」
「何を?」
「そ、そんな、事を、お前が言うとはな」
「ああ、『見損なった』って言いたかったのかな?」
「それだ」
片手で顔を覆った緋勇が、俯いたまま頷く。蜜柑は既に消し炭と化していた。ほのかに香ばしく、多分に焦げ臭い。猫も不思議そうにそれを見上げている。
緋勇が視線を上げた。底冷えするような眼光で猫を睨み、すぐに逸らす。しばらくそのまま両手で顔を覆っていたが、やがて座っていた体を横にした。座布団を枕にして、肩まで炬燵にもぐり込む。どうやら寝る気のようだ。それも仕方ない。何故なら、ここには炬燵があるのだから。ところで、いったい何が緋勇をそこまで打ち砕いたのだろう。遊びたがっている猫を構ってやれ、という発言を、彼はどんな意味にとったのか。
様子を窺っていた猫が寝転んだ緋勇にトコトコ寄ってきて、その髪に鼻を近づけた。緋勇が僅かに身じろぎ、更に深く潜る。対面に座っていた如月の足に、炬燵の中で緋勇の足がぶつかった。この場所は譲れないと胸中で呟き、不遜な客人の足を、如月も同じように足の裏で押し返す。緋勇はすぐに領土侵犯をやめて丸くなった。無防備に見えるが、軽く突付くだけでその体が一瞬にして戦闘態勢に移行する事を、如月はもう知っている。その体を、猫が軽く突付いた。
「くっ!上等だ!」
「だからなんで瞬殺の構えなんだい龍麻!」
「赤毛の分際で俺に楯突くとはな!」
「楯突いてるんじゃなくって遊んで欲しいんじゃないかな!」
「俺は忙しい」
「そうは見えないけど」
「お前がやれ」
「いいのかい?」
「?」
「君がいいなら、僕は構わないけど」
どうせ自分以外の誰かが猫を構ったら拗ねるくせに。思ったが口には出さず、如月はまだ緋勇の周りをうろうろしていた猫をすくい上げた。顎の辺りをくすぐると、猫は嬉しそうにその手にじゃれついてきた。甘く歯を立てられて、思わず頬が緩む。
足は炬燵に突っ込んだまま畳に肘を付いて、楽しそうに右手と戯れる猫を見詰める。繰り返すが、如月は猫が嫌いではない。むしろ好きだ。
ふと、数分前に交わされた会話が浮かぶ。ついに猫になったのかな、と言ったのは如月自身だ。挑戦的な瞳も、嬉しそうに自慢の武器を振るう姿も、あの男を思い出させる。如月は彼と顔を合わせれば互いを軽んじる言葉ばかり投げ合うが、実のところ憎んでいるのではない。彼も、本心から如月を厭っているのではない。きっと不安なのだろう。あの人の目が自分を見ていないと、たまらなくなるのだろう。それを知っていればこそ、からかいたくもなるのだが。
如月が思考に気を取られて手を止めると、猫はとん、と畳を蹴って緋勇の所に走っていった。性懲りもなく黒髪に前足を伸ばして素気無く振り払われている。
不意に、緋勇が小さい声で呟いた。
「誰でもいいのか」
ほらやっぱりね、とは言わず、緋勇に気づかれぬよう忍び笑いを漏らす。炬燵に潜って丸くなった緋勇の顔は確認できない。確認はできないが、しかし想像はできた。その想像した映像が真実であるという確信は、どこにもない。どこにもないのだが、如月は肩を竦めて溜息をついた。
猫はまだ緋勇の肩に乗ろうとして落とされたり、顔に近づこうとして額をはたかれたりしている。それすらも楽しんでいるようだ。緋勇の鼻先で尻尾を揺らし、誘うように何度も行き来する。しかし緋勇の手がそれを掴もうと伸ばされると、ひらりと軽やかに身をひるがえす。堪えかねて緋勇が起き上がるのを、起き上がって真正面から自分を見詰める時を待っている。
ほどなく猫の望みは叶うだろう。
店の戸が開いた音を聞き、如月が腰を上げる。後ろ手に閉めた襖の向こうで何が起こっていたのかなど、如月は知りたいとも思わない。思わないが、つい想像はしてしまうのだ。
脳裡に描いた映像がもしも真実だったなら、こんなに幸福な事はない。
あの人が蜜柑の乗った炬燵に潜り、猫と昼寝をしているなんて、こんなに幸福な事はない。
「なあ如月、なんで先生と蓬莱寺が」
「ああ、気にしないでくれ」
「いや、気になるだろこれは」
「いいじゃないか、龍麻だって昼寝くらいするだろう」
「いや、昼寝はいいんだけどな」
「起こすと面倒だから、寝かせてやってくれ」
「なんで先生と蓬莱寺が」
「四辺ある炬燵の一辺に二人で入ってる理由かい?」
「さすがに話が早ぇな」
「蓬莱寺が猫だったからさ」
「は?」
「それで、この札なんだけど」
「いや、猫って」
「村雨」
「な、なんだよ」
「何が知りたいんだい?」
「ええと、だからなんで」
「龍麻が蓬莱寺と同衾している理由なら」
「同衾とか言うな」
「蓬莱寺が猫だったから、だ」
「つまり、それは、あの、あれか?」
「他に何か質問は?」
「先生がタチって事か?」
「滅殺されたくなかったら口を閉じたまえ」
「!?」
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