鐘の音が響き、緋勇は閉じていた目蓋を開けた。辺りを見回して、目を閉じる前には確かに席に着いていた筈の蓬莱寺が消えている事に気づく。思ったより深く寝入ってしまったようだ。学生でありながら学業に重きを置いていない緋勇は、特に深くは考えずにさざめく教室をあとにした。

 無意識に耳を澄ましながら歩き、自分が何を探しているのかを察して足を止めた。彼の熱が、今日は一度も皮膚に触れていないのだと思い立つ。朝は二人ともが挨拶を交わす間もなく授業が始まるような時間に登校したし、授業が始まってからは睡魔と戯れるのに夢中になってしまった。機会を逸しただけなのだが、どうにも心が落ち着かない。
 接触すれば暑苦しい、鬱陶しいとしか感じないのに、姿が見えないとどうにも気になる。彼にとって自分は、数ある仮宿の一つでしかないのでは。そんな不安が押し寄せて、緋勇はそれを振り切ろうと再び足を踏み出した。誰かの心を占めていなければ不安になるなんて、幼稚だ、独善だ、浅ましい。浮かぶ幻を切り捨てつつ、知らず向かうのはいつもの木の下だった。

 不本意ながらも辿り着いてしまった木の下で、緋勇は無表情のまま溜息をついた。しかしそれは、決して蓬莱寺の姿を発見できなかったからではない。枝の先に、見憶えのある赤毛の猫がいたのだ。こちらを見てピンと耳を立てたが、木から降りようとはしない。例の如く全速力で走り寄ってくるとばかり思っていた緋勇は、どこか拍子抜けしたような気分で猫を見上げた。あんなにも熱心にすり寄ってきたのに、気紛れなものだ。湧き上がった感情が理不尽なものだという自覚はあったので、緋勇は黙したまま視線を逸らして踵を返した。
 その瞬間、猫が不安定な足場で立ち上がろうとして、しかし揺れた枝にバランスを崩し、後ろ足が空を蹴った。寸でのところで墜落を免れ、爪を立てて細い枝にしがみつく。そうしてから、心細げな声で小さく鳴いた。

 降りられないのか。

 無表情に見上げる緋勇を、猫がじっと見詰め返す。その視線を受けながら緋勇がまず思ったのは、「バカかこいつ」だった。自分の能力の上限も見極められないとは、なんたる無知蒙昧。冷ややかな表情で目を逸らすと、視界の外で枝葉が音を立てた。またしても落ちそうになって、どうにか踏み止まったようだ。ちらりと流し見ると、予想どおりの光景が眼前を満たしている。つまり、細い枝に爪を立てて必死ですがりつく猫の姿。
 放っておいたら、このまま力尽きて落ちるのだろうか。一般的に猫は着地が得意だと聞くし、死にはしないだろうとは思う。しかし今、猫はこの世の終わりも斯くやというほど狼狽していた。これを見捨てては、さすがの緋勇でも少々目覚めが悪いかも知れない。目覚めが悪いとなんとなく憂鬱だ。まあ往々にして、目覚めの事など昼には忘れている日の方が多いのだが。それならば目覚めなど気にする必要もないのでは。
 落下の恐怖に直面している猫をぼんやりと眺めながら、緋勇は脳内を流れる思考を追っていた。

 枝に取りすがる猫は、先に見たのと同じ体勢で緋勇を見下ろしている。全身が緊張しているのが傍目にも分かった。見開かれた瞳は、猫の表情など察する術を持たない緋勇ですら察せられるほど明確に助けを求めている。風で枝が揺れる度に、その小さな体が頼りなげに震えた。
 仕方ないなと溜息をつき、猫が待ち望む救いの手を差し伸べようとして、緋勇は動きを止めた。木に登るのは不可能ではない。だが、それよりも手っ取り早い方法を思いついてしまったのだ。腰を落として氣を練り上げる。猫が、落下に対するものではない恐怖に全身の毛を逆立てた。
 経絡を流れる氣を手の平に集中させる。陽炎のように緋勇の体から立ちのぼった氣に、大気が振るえた。猫も震えた。

 緋勇の手の平から峻烈な氣が放出され、切り裂かれた枝が猫ごと落下する。それでも枝を離さない(離せない)猫に、緋勇が舌を打った。まったく手間のかかる奴だ。枝葉と猫が地面に激突する寸前に、落下中の枝を掴んで引き寄せる。葉と細枝の先端が頬を叩き、青い香が鼻腔に触れた。墜落死は免れたもののそれを上回る恐怖を味わった猫が、まだしがみついていた枝と共に緋勇の腕の中に納まる。

 なんだか善行を施したような気持ちになって、緋勇は満足して取り留めた命と枝から手を離した。枝が重力にしたがって地面に落ちる。しかし猫は落ちなかった。先程まで枝を掴んでいたような必死さで緋勇の袖を掴んでいる。振り落とそうと腕を上げると、今度は服の胸に爪を立ててしがみついた。
 一度くっつくとなかなか取れないのがこの猫の特性だったと思い出し、まだ震えている小さな体に手を添えてやる。そうすると、更に深く爪を立てられた。早鐘のような鼓動を感じる。少しは懲りたか猿頭が。威圧する意思を持って無言で見下ろせば、何故か責めるような目で睨まれた。助けてやったのにその目はなんだ。尻尾を引っ張ってみても、小さな熱は離れようとしない。それどころか肩によじ登って襟足に鼻先をすりつけ、首筋に頬を寄せた。
 猫を相手に何を莫迦な、と思いつつ、妙に気恥ずかしいのは何故だろう。自分でも意味は分からないが(或いは初めから意味など存在しないのかも知れない)、酷く暴力的な気分になる。いつもそうだ。彼の手の平が無遠慮に皮膚を叩くと、緋勇はいつも熱すぎるスープを飲み下したような心地がする。いたたまれなくて逃げ出したいのに、気安く触れた手が離れてゆく瞬間に、何故か引き留めたくなる。取り返しのつかない喪失を想起してしまう。

 ふと、鳶色の瞳が自分を見上げている現状を思い出した。そんな訳だからとっとと降りろ。通じないとは分かっていたが、視線でそう主張してみる。予想どおり猫は視線に含まれた意思など意に介した素振りすら見せず、それどころか緋勇の首筋に牙を立てた。反射的に耳を掴んで引き剥がしたが、皮膚に食い込んだ牙が浅く傷を残す。
 放り出された猫は、空中で綺麗に一回転して着地した。不機嫌を隠さず睨みつけると、猫が負けじと眦をきつくする。だから助けられた分際でその目つきは何事だこの恩知らずが。少しばかり発剄が尻尾の先をかすったぐらいでそんなに怒るな。度量の小さい奴め。
 暫し無言で睨み合い、根負けしたのは猫だった。緋勇の靴に飛びかかり、前足で抱え込んで牙を突き立てる。無表情にそれを見下ろしながら、緋勇は攻撃する時よりも緩やかに爪先を上げた。遠くなった地面に恐怖心を思い出したのか、猫が慌てて裾にしがみつく。そのまま目の高さまで持ち上げると、進退窮まった猫が裾に爪を立てて尻尾を巻いた。枝の先で鳴いていたのと同じ体勢だ。分をわきまえずに行動するからこうなるんだ莫迦め。さて、どうしてくれようこの無鉄砲赤毛。
 足を少しだけ下ろし、勢いをつけて頭上まで振り上げる。一瞬だけ静止し、直後に踵落しの要領で一気に振り下ろす。踵が地面に接する寸前でピタリと止めた。自分に何が起きているのか理解できなかった猫が、制服の裾にしっかりとしがみついたまま呆然と緋勇を見上げる。くそ、どうして離れない。
 八雲しかないのか、と緋勇が覚悟を決めたその瞬間、背後から桜井の声が聞こえた。猫を足にくっつけたまま振り向けば、いつもの面子が歩み寄ってくるのが見える。

「やっぱりここだった!」
「二人とも、マリア先生が探してたわよ」
「ん?京一はいないのか?」
「珍しいね、ひーちゃんが単独でサボりなんて」
「あら、その猫どうしたの?」
「ところで龍麻、誰と闘ってるんだ?」

口々に発せられる声に返す言葉も見当たらなくて、緋勇が猫を乗せた爪先を上げて見せる。とれなくなったのだと端的に事実だけを告げると、不自然な沈黙が返ってきた。眉を寄せてその沈黙への疑問を表し、それでも返らない応えに焦れて猫を睨む。すると足首の辺りで固定されていた猫が、軽やかに膝を伝って再び緋勇の体をよじ登った。咄嗟に上げた腕を器用に躱し、どうやら気に入ったらしい肩に到達して誇らしげに目を細める。手の平で顔への接近を阻止しつつ、何故かほのぼのしている級友たちを見渡した。

「この子、龍麻が好きなのね」
「可愛がってあげなよ、ひーちゃん」
「・・・」

そう言って嬉しそうに笑う美里と桜井を、苦々しく見返す。噛まれたり爪を立てられたり舐められたり他にもいろいろされて、そんなにも寛大な処置を提案されるとは。もしかして自分は聖人君子か何かと思われているのだろうか。しかし二人に口で勝てないのはもう揺るぎない現実なので、反論は早々に諦めて指とたわむれる猫を睨んでおく。せめてと醍醐に視線を流せば、妙になまぬるい目で微笑みを向けられた。

「まあ、懐かれたんだからしょうがないだろう」
「うん、お似合いだよ!お二人さん!」
「なんだかこの子、京一くんみたいね」

言うな美里。頼むからそれは言うな。途轍もなく恥ずかしくなるから。逃げ出したくなるから。正体不明の衝動と戦う緋勇の頬に、猫がめげずに鼻先を寄せた。否応なく呼び起こされたある人物の記憶が、緋勇を容赦なく追い詰める。
 手の平の熱が浮かぶ。近すぎる体温が浮かぶ。時折ほんの一瞬だけ見せる透きとおった眼差しが浮かぶ。真っ直ぐに伸びる剣先の軌道が浮かぶ。唇を噛んでそれを見詰める自分を思い出す。たまらなくなって、耳のすぐ横にあった猫の額を平手で弾いてしまった。ほぼ同時に上がる、二人分の非難の声。

「あああ!ひーちゃんひどーい!」
「龍麻、それは可哀想よ」
「・・・」

この相手が今まさに脳内を侵食している彼だったら、きっと二人は緋勇を責めたりしなかった。醍醐が苦笑しているのは視界の端で確認したのだが、視界の外にいる猫がほくそ笑んでいるような気がするのは錯覚だろうか。あの野郎、あとで殴る。泣くまで殴る。不穏当な決意を胸中で固めつつ、寄り道の相談に移行した会話を聞くともなしに聞き流す。並んで帰路を踏むのだと疑わない歩調で、3人は既に歩き出していた。
 ふと、桜井が気づいて声を上げた。

「あれ?ひーちゃんキスマークついてるよ」
「?」
「あ、やっぱ違うんだ。まあ分かってたけど」
「???」
「言ってみただけだから、気にしないで」
「・・・」
「蚊に刺されたのかな?薬つける?」
「・・・猫」
「ああ、猫にやられたの?だったらそれは愛情表現だね!」
「!?」
「ひーちゃんってば愛されてるー!」
「・・・」

笑いながら緋勇を追い越して、先を歩いていた美里に飛びつく。いきなり体重を預けられ、美里がよろけて醍醐にぶつかった。それが彼女の表現方法なのだと、美里はもう知っているのだろう。いさめる言葉を発しながらも嬉しそうに笑っている。

 ところで、この猫はいつまでここに居座るつもりなのか。猫を肩に乗せたまま飲食店に入るのは避けたい。そもそも入店を断られるのは必至だ。とはいえ、振り払っても離れないのは経験済みである。醍醐にでも頼んで引き剥がしてもうらおうか。それでも離れない可能性が高いので、ここはやはり八雲の出番か。
 無言で物騒な思考をつらねていると、不意に肩の上の猫が身じろいだ。身構える暇もなく、耳をざらりと舐められる。背筋に走った感覚に、思わず首筋が総毛だった。その首筋までも生あたたかい舌に撫でられて、怖気にも似た何かがぞわりと体を這い上がる。
 そうしてから、我に返って今度こそこの不遜な猫を叩き落そうと拳を握った。しかしその拳が振り下ろされる前に、猫がひらりと身をひるがえす。とん、と軽やかな音を立てて地面に降り立ち、そのまま振り向きもせずに走り去った。












 数分後、いつもの店に到着した4人は、見慣れた顔と再会した。カウンターに座って味噌ラーメン大盛りを注文していたのは、誰あろう蓬莱寺だった。桜井の追及をさらりと躱し、緋勇に向かって片手を上げる。

「よ、遅かったな」
「・・・」
「京一くん、マリア先生が探してたわよ」
「あと犬神先生もね」
「うわ、大人気だなー俺って」
「お前、本当に卒業する気があるのか?」
「自主卒業する心の準備ならいつでも」
「そこは公的に卒業しておきましょうよ」

後着の面々もカウンターに陣取り、会話の合間に注文を済ませる。麺が茹で上がった頃には、蓬莱寺への追求も有耶無耶になっていた。
 無言で麺をすする緋勇に、ふと蓬莱寺が視線を向ける。なんともなしに直視をためらい、緋勇は眼前のとんこつスープに集中するふりでその視線をやり過ごした。何故かやけに耳が熱いのだが、これはきっと気のせいだ。腹に灼熱が溜まってゆくような気がするのは、ラーメンを食べているからだ。無遠慮に接近する熱源を思い出し、この手を切望した瞳を思い出す。つられて首筋に残ったざわめきまで思い出してしまった。
 結局、食べ終えるまで緋勇は視線を上げられなかった。

 店を出て雑踏に戻り、約束されていたように再び5人の足が来た道を踏む。帰路に寄り道が含まれているのは、口に出すまでもなく決定事項のようだ。最後尾を歩いていた緋勇に、またしても蓬莱寺が視線を送る。今度は逸らす暇もなく、口の端で笑う蓬莱寺を視界に入れてしまった。目が合った瞬間、抑えていたのだろう笑みが更に深くなる。怪訝に思って目をきつくすると、蓬莱寺が喧騒に掻き消されぬようわざわざ耳元まで唇を寄せて言った。

「襟、留めねぇと見えるぞ」
「!」
「あんまり見せびらかすなよ」

そう囁いて、牙がつけた浅い傷跡を指でなぞる。咄嗟にその手を払い、忠告に従った訳ではないが襟を閉めた。勿論、気安く急所に触れようとする不埒なやからを睨みつけておくのも忘れない。尖った眼光に貫かれて、蓬莱寺が軽く肩を竦めて両手の平を掲げる。いとも簡単に降参のポーズを見せる蓬莱寺を、そういえば泣くまで殴ると決意したのだった。しかし握り締めた拳は振り下ろされる事なく、ほどかれる事もなく、行き場を失って無為に虚空をさまよう。
 どうして彼がこんなにも嬉しそうな顔をしているのか、緋勇には理解できなかった。

 龍麻が好きなのね。
 懐かれたんだからしょうがないだろう。
 お似合いだよ!

 級友たちの言葉が、何故か脳内で繰り返し再生される。違う、それは猫に対して発せられた言葉だ。ただ本能に支配されているだけの獣に言ったのだ。人間の一方的な思い込みでしかない。自分が理解できる形に世界を構築する人間が、都合のいいように解釈しただけの発言だ。だから、こんな気持ちになる必要はない。
 溢れんばかりに自分を求めた瞳が、爪を立ててすがる手(前足)が、甘えるように鼻先を寄せる仕草が、表層に浮かび上がっては緋勇の心臓を叩く。未だ残るざらついた舌の感触が、少し汗ばんだ指先の感触と交じり合って背筋をぞわぞわと這い上がる。無意識に握り締めた拳が何を欲しているのかも分からず、緋勇はただ隣を歩く男の靴音に耳を澄ました。

 助けてやったのは俺なのに、この敗北感はなんだ。