基本的に動物には嫌われる緋勇だが、人生に於いて一度だけ、猫に懐かれた記憶があった。赤茶けた毛並みも、真っ直ぐに見上げてくる瞳も、全ては記憶の中のあの猫と符合する。違うのは大きさだけだ。あの猫は手の平に乗るほど小さかった。細い爪を夢中になって立ててきた。あの時は本気で逃げ出したかったのだが、今なら認められる。邪険にしても懲りずに鼻先を寄せる姿が、確かにこの心を慰めたのだと。

 猫が脹脛に額をすり付けた。どうしてこの猫は自分を怖がらないのだろう。そんな事を考えながら、そっと手の平を差し出してみる。警戒する素振りすら見せず、猫は鼻先を近付けた。ざらりと指先を舐められて、思わず手を引く。マタタビなんて持ってないぞ。どう対応すべきか決めあぐねていると、再び猫が身を寄せてきた。少し迷い、意を決して持ち上げてみた。意外と重い。無防備に腹を見せる猫は、緋勇の懊悩など一向に気に留めていないようだ。嬉しそうに身を預けて喉を鳴らしている。
 腕の中でくつろぐ猫を無下に落すのもためらわれて、緋勇はその状態のまま途方に暮れた。

 暫し空を見上げて黙考し、思い立ったのは蓬莱寺の顔だった。彼はなんだか動物の扱いに長けている、ような気がする。いつだったか、瀕死の子猫を抱いて緋勇の部屋を訪れた事もあった。物言わぬ相手にも怯まず構えず平坦に接するような、そんな男なのだ。自分が時々動物とほぼ同等の扱いを受けている事を、緋勇はまだ知らない。
 しかし、頼れる相棒は留守だった。無人の部屋の前で、緋勇が理不尽にも機嫌を降下させる。それを察知したのか、はたまた人間には計り知れない何がしかの衝動からか、猫が緋勇の首筋に歯を立てた。その動作は攻撃や威嚇ではなく、じゃれつくような甘さを含んでいる。しかし急所の近くに獣の武器を当てられた緋勇は、反射的にビクリと身を竦ませた。危うく落ちかけた猫が、慌てて肩に爪を立てる。結構どころではなく痛い。

 心中で毒づきながら、緋勇は途方に暮れたまま暮れかけた街を歩いていた。猫は既に、支えを必要とせず緋勇の肩で安定している。この能天気赤毛が。精一杯の眼光で睨んでみても、猫は幸せそうに喉を鳴らすばかりだ。いよいよあの飄々とした男を想起させる。緋勇がどうしても勝てないあの男。或いは、打ち負かそうという気力すら萎えさせるあの男。拳士として、これほどまでに心煩わされる相手もいない。

 我知らず戦闘の氣を昂ぶらせていると、背後から聞き馴染んだ声が飛んできた。

「よお先生、一人かい?」
「俺が何人に見えるんだ。乱視か?」
「思ったんだが、俺はあんたが不機嫌なところに出くわしてるんじゃなくって」
「俺は不機嫌なんかじゃない」
「俺が話しかけると不機嫌になるのか?」
「自意識過剰も甚だしい」
「そりゃ良かった」

村雨はそう言って、薄く笑いながら猫に向かって手を伸ばした。人差し指で額を突付き、迷惑そうに顔を逸らす猫にまた笑う。可愛げがねぇのも相変わらずだな、などと呟き、そのままの表情で緋勇に向きなおった。

「今度は同意の上か」
「何が」
「いや、前は随分と難儀してたじゃねぇか」
「今もしてる」
「そうは見えねぇけどな」

威風堂々と背筋を伸ばして立つ緋勇と、その肩でくつろぐ猫。緋勇のしかめ面はいつもの事として、当然のような顔をしてその肩に顎を乗せている猫が、村雨の胸に奇妙な既視感を募らせた。不愉快だの引き剥がせだのと散々な物言いの果てに、豪快なスライディングで放り出された猫を受け止めた緋勇を思い出し、堪えきれなくなって破顔する。ほぼ同時に猫と緋勇に睨まれ、緩んだ頬を引き締める。

「そういや、相方はどーしたよ」
「知らん」
「へえ、そりゃ珍しい」

と言いながら、村雨にそれほど思うところがある訳ではなかった。蓬莱寺はよく一人で路地裏に顔を出すし、常に行動を共にしてはいない事など承知している。
 ふと、猫と目が合った。挑むような眼差しが、どうにもあの男を思わせる。鼻先でも弾いてやろうと手を出したら、今度は緋勇に叩き落された。大袈裟に肩を竦めて手を引けば、猫が誇らしげに目を細め、伸び上がって緋勇の耳に頬をこすり付ける。緋勇が大きく上体を傾がせた。学ばねぇ人だな、と村雨が心中で苦笑する。

「そんな嫌そうな顔するこたぁねーだろ」
「俺がどんな顔をしようと勝手だ」
「そりゃまあそうだけどよ」
「だいたい、こいつは俺の表情なんか見てない」
「ああ、たしかに」

緋勇が苦い顔をしつつも傍に置いているという事は、つまりが受け入れているも同然だ。異形を打ち倒す時、緋勇は一筋の容赦も見せない。拒絶すると決めたものには、冷然たる否定を突きつけるのが緋勇という男だ。この猫がそれを知っているのかは確かめる術もないが、そう思って見ればなかなかお似合いの一人と一匹ではないか。
 そんな村雨の感想を読み取った訳ではないが、緋勇が諦めたように嘆息した。猫が嬉しそうに首筋に鼻をすり寄せる。眉間に皺を寄せていた緋勇が、ほんの少しだけ頬を緩めた。呆れた表情にも見えるが、まあ要するに許容したのだろう。首にすり寄ったり耳に噛み付いたり頬を舐めたりする、その行動を。
 ちなみに、村雨の脳裡にはさっきから蓬莱寺の顔がちらちらとよぎっているのだが、口には出さない方が良いと過たず認識している。犬も食わないというか、猫も跨いで通るというか、ちょっと違うか。

「蓬莱寺にもたまにはそんな顔見せてやれよ」
「なんでここで京一が出てくるんだ」
「いや、ええと、まあいいや」

それとも、意識せずとも彼の前では見せているのだろうか。こんな、なんというか、村雨としては目を逸らして見なかった事にしたくなるような表情を。羨ましいとは思わないが、村雨の心臓の近くで小さく何かがさざめいた。
 だが溜息をついて脱力する前に、村雨はささやかな悪戯を思いついてしまった。札を指先でくるりと返し、攻撃する時と同じように掲げてみせる。緋勇は訝しげな顔をしているものの、特に構えるでもなく冷ややかに村雨を見ていた。
 その目が高温の光を放つ様を間近で見たら、どれほどこの心は沸き立つのだろう。

 不意に容量を増した疑念を抑えきれぬまま、村雨は手の中の紅葉に氣を送った。前触れもなく現れた炎に、緋勇が咄嗟に注意を向ける。その一瞬の隙を逃さず、村雨は彼の髪をかき上げて耳に噛み付いた。全身の毛を逆立てて、猫が閃くような速さで爪を薙ぐ。だがその爪が皮膚を切り裂く前に身を引き、何をされたのかいまいち理解していない緋勇に視線を流した。
 害意には驚くほど敏感なのに、ひとたび懐に入れた相手には拍子抜けするほど無防備だ。つまり、自分も一応は仲間だと認識されているのか。そんな事を漠然と考えてから、村雨は自己嫌悪に舌を打ちそうになった。この気難しい男が、どうして仲間でもない人間にこんなにも気を許すというのだ。その傷だらけの体は、一体なにを守っていたというのだ。愚かしいほどひたむきに、彼は信じてくれたのに。自分は今、彼を試すような真似をした。

 緋勇は噛まれた耳に手を当てて、村雨の行動が攻撃なのか否かを考えている。考えている時点でそれは許容されたのと同じ事なのだが、村雨はそれを指摘せず笑ってやった。その肩で怒りも露に牙を剥く猫は、害意だと確信しているようだ。それとも、別の理由で怒っているのかも知れない。
 まだ怪訝そうな顔をして、緋勇が疑問を漸く口にした。

「なんだ今のは」
「そんな顔すんなよ、ただの挨拶だ」
「そうなのか?」

眉根を寄せる緋勇よりも、明らかに敵意をむき出しにして睨み付けてくる猫に向かけた言葉だった。取りゃしねぇよ、と声ではなく猫に語りかけ、我に返って肩を竦める。惚気にあてられた気分になって、村雨は逃げるようにその場を立ち去った。












 馴染んだ路地裏で、くだを巻く中年の男からどうやって金を出させようかと考えていたら、背後から名を呼ばれた。気安い口調で落された声は蓬莱寺のものだ。片頬で笑いながら振り向くと、予想どおりの顔があった。カモの物色をやめて、歩み寄る蓬莱寺に向きなおる。

「よお、随分とご無沙汰だな」
「まあな」
「今日は相棒と一緒じゃねぇのか」
「ああ、龍麻が世話になったってんで、ちょいと礼でもしてやろうかと思ってな」
「ん?」

薄く笑みを浮かべた蓬莱寺が、得物を肩に乗せた。そうか、こいつは本気で怒るとこんな風になるのか、と頭の隅で冷静に思う。ところで疑問があるのだが、彼はどうしてこんなに怒っているのだろう。

 緋勇はといえば、朝になって顔を見せた蓬莱寺に「ひーちゃんは無防備すぎる!」と詰め寄られ、何がなんだか分からなかったのでそのように告げると、何故か耳を噛まれたらしい。この妙な挨拶は巷で流行っているのだろうか、と首を傾げていた。