夕暮れに、思わせぶりに取手が去って、八千穂が力説する。彼を助けたい。彼の心を救いたい。それに同意する葉佩が本当は何を考えているか、皆守には分からなかった。軽薄な笑みを浮かべつつ、今夜の装備の事など考えているのだろうか。もしかしたら、本気で取手を救いたいとでも思っているのかも知れない。
 無駄な事を。心の奥の方で皆守は冷笑する。

 取手が闇を抱えている事は知っていた。その闇が、自分の闇とよく似ている事も。自分の闇は救われなかった。助けてくれる人なんて、どこにもいなかった。取手には救いの手が差し伸べられて、自分は薄ら寒い闇の中に一人で放置される。そんな酷い話があるか。許される筈がない。その一方で、世の中は理不尽にできているのだと、皮肉に笑う自分の声を聞く。
 一人は助けられ、もう一人は見捨てられる。そんな事が往々にして起こるのだ、この世界は。












 一人の少年が控えめに、しかし晴れやかに笑った。皆守は分かっていたさと薄く笑いながら、心を深く沈める。
 取手は傍らにあった光から目を逸らし続け、闇だけを見詰めていた。それに憐憫を感じぬ訳ではないが、救われる事はないのだと、皆守はそう思っていた。呪いとはそういうものなのだと、頑なに信じていた。

 ありがとう、という素直な言葉に返された葉佩の応えは、実にシンプルだ。

「俺は、《墓》を見たかっただけだから」

彼を救うのが目的ではなかった。だから謝意は必要ないと、隠さず、いっそ酷薄に言い放つ。あの時あの場所で、彼を本当に心配していたのは八千穂だけだった。それを聞いた取手が、今度は少しだけ困ったように笑う。

「僕の為じゃなくっても、僕は君にありがとうって言わなくちゃいけないんだ」

内省的な取手の言葉に、皆守は再び暗鬱とした気持ちになった。
 彼の闇よりも、皆守の闇の方が深い。それは有する《力》の大きさが物語っていた。火神が持つ壮絶な破壊力は、皆守の苦悩をその根拠としている。まるで矜持のように、その事実を心に浮かべた。
 物思いに沈んだ皆守には気付かず、取手はポケットから鍵を取り出した。それを受け取った葉佩が、大袈裟なほどの喜色を浮かべる。貰った鍵の使い道に思いを馳せている葉佩に、取手は「それじゃあ」と短い挨拶を残して去って行った。その背中をぼんやりと見詰めながら、皆守は一瞬だけよぎった想像にまた冷笑を浮かべる。

 普段の友好的な言葉とは裏腹に、酷く冷淡な心を持つこの男が、何かの間違いで皆守を救う。隣で、入手した音楽室の鍵をもてあそんでいる男が、あの赤い部屋でどんな言葉を吐くというのか。
 どんな言葉も無意味だ。この傷を癒すのは言葉ではない。このどこか心地好い闇を照らすのは、無粋な銃火などではない。誓いのように繰り返す。












 気だるい午後を愛するカレーと過ごしつつ、皆守は目の前の葉佩(オススメをあっさり無視して和風ハンバーグを食べている)に何度目かの忠告を発した。《生徒会》の役割とその支配力。《墓》を荒らす者に下される制裁の意味。眠たそうな声に乗せた哀願は、しかし葉佩の意識に影響を与えなかった。葉佩は、付け合わせのサラダを箸で食べるのに全神経を集中させている。コーンに特に苦戦しているようだ。

「スプーン使えよ」
「いや、ちょっとは練習しとかないと」
「箸、苦手なのか」
「そーゆー訳じゃないけど」
「見ててイライラする。使え」
「・・・うん」

 スプーンと指を使い、葉佩は目の前の皿を空にした。それを見届けた皆守が話を再開しようと口を開いたその瞬間、店員の舞草が叫び声を上げた。パニックになった客(生徒だった。つまり彼らもサボりか)と店員に紛れて、葉佩が獣のような身のこなしで舞草に向かって走る。皆守が声を発する暇もなかった。
 何が起きたのか把握できないまま、場違いに冷静な声が皆守の鼓膜を振るわせる。千貫の声だと認識した時には、危機は既に窓の外だった。

 原因不明の爆発の後始末を葉佩に押しつけ、皆守はその場を離れた。荒れ狂う不快感の正体が形になりそうな気配を感じて、歩きながら思考を無理矢理に押し留める。その答えを知ってしまったら、きっともう二度と戻れない。
 葉佩が走った理由は、考えるまでもない。あの場所で最も力を持たない人間の安全を守る為だろう。ただ立ち尽くしていただけの皆守よりも、よほど正しい行動だ。普通は女を庇うだろう。しかし、後ろめたい事がある皆守は、そんな当たり前の行動にすら揺らされる。
 気付いているのではないか。この体が持つ、不自然な力に。まさか、と慌てて否定する。葉佩がどれほど有能だったとしても、少なくとも、今はまだ。繰り返す自分の声に、もう一つの声が重なる。もう気付いているのかも知れない。既に何もかも暴かれていて、葉佩は自分を嘲っているのではないか。
 お前は自分でなんとかしろよ。今までだってそうしてきただろう?
 それが内なる自分の声だと、皆守は理解していた。これは爆発しそうな何かを抑える、神性を伴わない儀式だ。つまりが一人遊びだ。要するにいつもの事だ。すぐ近くにいた皆守ではなく、少し離れた舞草を庇った。だからどうした。そんな事実が刃になって、皮膚を傷つけるなんて有り得ない。こんなものは自傷行為ですらない。

 新しいスティックに火を移し、葉佩が来るであろう方向を見据えた。待っている訳ではない。ただ立ち止まっているだけだ。言い聞かせるように何度も繰り返す。
 やがて見えた人影に、思わず目を凝らした。葉佩がこちらに気付き、一直線に向かってくる。後始末を押し付けた事を、どうやら彼は怒っているらしい。緩みそうになった自分の頬を渾身の精神力で制し、多大なる労力を費やして皮肉な笑みに作り直す。それを無駄な努力だとは思わなかった。












 同じ日の夕刻になる少し前、葉佩に向かって、人形のような少女が唇の両端を吊り上げた。それが微笑である事を悟った皆守に、自分でも信じられないほどの激情が湧き上がる。
 死は恐れる事ではない。それは眠りと同等の意味しか持たない。時が来れば必ず目覚める。
 ならば何故、魂すら失ったこの心が、これほどまでに叫ぶのか。溢れ出た感情を押し留めようと、皆守が拳を握り締める。怒りによく似ているが、違う。これは悔恨だ。自分に向かう嘲りと罵倒だ。

 別れの挨拶だけは忘れずに去った少女の姿が見えなくなるまで、皆守は固く握った手の痛みに気付かなかった。暫しの沈黙に僅かながらも冷静さを取り戻し、ゆっくりと息を吐き拳をほどく。
 消えてゆく《転校生》。沈黙を続ける《墓》。粛々と義務を果たす《生徒会執行委員》。永遠に存在し続けると思っていたその内の一つは、既に壊されている。執行委員である取手は、魂を取り戻した。《転校生》の前で、なんの含みもない笑みを浮かべた。羨ましいとは思わない。それでも、かすかに水底が揺らめくのを感じた。濁った沼の澱のように、黒い砂が掻き乱されてもやもやと胸中を漂う。

「まさか、あの子も取手クンと同じ・・・」

八千穂の声に、皆守は自分の立場を思い出した。同時に、荒れ狂っていた感情がスイッチを切ったように静かになる。
 葉佩は扉を開く。その事実を確かめ、少女の罪が暴かれるのを想像する。未だそれを罪とは知らずにいる彼女は、自分が犯した罪と向き合うのだろうか。その時、何かを得るのだろうか。きっと失うだけだ。そう結論を出し、皆守は帰路を急いだ。一刻も早く暖かいベッドに身を預けたかった。

 携帯電話が音を立てる。発信者は確認するまでもない。
 全てを預けて義務を得たのは、こんな激情から逃げたかったからだ。悠久の時を経て、この《學園》は眠り続けている。少しずつ破綻を始めたその機構に、皆守はそれでも縋り付く。こんな細く頼りない糸ならいっそ切れてしまえと望みながら、どうせ引き上げてくれる人などいないと冷笑しながら、メールの着信を告げる携帯に手を伸ばす。

『きょうはとりでといっしょにいくから
 おまえはねてろ』

 頼むから早く死んでくれ。