劉が覚醒して最初に認識したのは、大気温度の低さだった。つまり寒くて目が覚めた。周囲からは寝息と寝言が聞こえてくる。「もう飲めません」という霧島の呟きが聞こえ、劉は今に続く過去の記憶が表層に浮かぶのを感じた。
旧校舎を引き揚げて、蓬莱寺が明日は休みだという理由で酒宴を提案した。数人が賛同し、数人は眉をひそめた。しかし眉をひそめた者も、その提言が受け入れられるとは考えていなかったのだろう。警察沙汰にだけはするな(どんな状況を想定していたのだろう)、という前向きなんだか後ろ向きなんだか判じがたい言葉と共に溜息をつき、最終的には緋勇宅に向かう宴会組を見送ってくれた。
灯りも消えた部屋で、劉はぼんやりと辺りを見回した。絡まり合って床に転がっているのは、間違いなく酔い潰れる寸前までこの部屋にいた者たちだ。主犯の蓬莱寺は隅で丸くなっている。そのすぐ隣で、何かがきらりと光った。咄嗟に目を凝らし、手が無意識に得物を欲した。過たず指先が愛刀に到達し、それとほぼ同時に光の正体も察する。
「アニキ!」
「どーしたんですかー?」
「あ、すまんな、起こしてもうた?」
「・・・さやかちゃんは?」
「明日も早いからって帰ったやろ」
「あ、そうだった」
「ちゅーか、なんで起きたら真っ先に『さやかちゃん』やねん」
「え、あ、いや、ええと」
「なんや、霧島はんの朝はおはようのキスで始まるんか」
「夢見るぐらいいいじゃないですか」
「見とったんや、そんな夢」
「いえ、すっごい笑顔で紫暮さんと見詰め合ってました」
「悲しい夢やね」
「営業用の笑顔でした」
「違い分かるんかい」
「分かりますよそのくらい」
寝惚けた目で部屋を見回して、霧島が部屋の隅に視線を固定した。
空はまだ暗いが、この部屋は完全な闇ではない。窓から外の灯りが入っているので、歩くのに不自由しない程度には明るい。月のない夜は真っ暗だった故郷を思い出し、随分と遠くへ来てしまったのだと、今更ながらに切なくなる。だが、今はここが故郷なのだと劉は確信していた。彼がいる場所が、故郷だ。
霧島が、眠る仲間たちを起こさぬようにと小さく囁いた。
「劉さん、猫がいますよ」
「うん、アニキや」
「はい?」
一匹の黒猫が、囁き合う二人の様子を注意深く窺っていた。闇に在っても溶ける事なく、艶やかな毛並みが二人の視線を引きつける。猫はすぐに二人から視線を逸らし、まだ眠っている蓬莱寺の手に鼻を寄せた。冷たい鼻に触れた指が、ピクリと反応する。何かを探すように動いた手に、猫は嬉しそうに頬をすりつけた。
「む、やっぱアニキは京一はん大好きなんや」
「ええと、アニキって言うのやめませんか?」
「だってアニキやん」
「意味が分かりません」
脱力した霧島の眼前で、猫は喉を鳴らして指と戯れている。蓬莱寺が唸りながら身じろぎ、投げ出していた腕を上げて猫を抱き寄せた。腕に巻き込まれた猫は一瞬だけ固まり、全ての動きを止めた。再び寝息を立て始めた蓬莱寺の顔を見上げ、どこか不安げに小さく声を発する。
「京一はんって寝ててもやらしーなぁ」
「は、え?」
「なんやねん、なんで抵抗せんのやアニキ」
「いや、だからアニキって」
人間たちの懊悩など気にも留めず、猫は自分を拘束する腕に前足を乗せた。そのまま伸び上がって蓬莱寺の肩に登り、前足で軽く赤毛を突付き、腰を伝って腹の辺りで床に降りた。そうしてから、またしても腹から登って肩に到達する。今度は髪の隙間から覗く耳に前足を触れさせた。
「何がしたいんアニキ」
「遊んでるんじゃないですか?」
「なるほど、京一はんをもてあそんで」
「違います」
「突っ込み早すぎるで霧島はん」
何度か登っては降りを繰り返し、やがてそれにも飽きたのか、あるいは目的を果たしたのか(それがどのような目的だったのかは分からないが)、猫は蓬莱寺の顔に歩み寄った。折り曲げられた腕に前足をかけて、そっと鼻先を近づける。
その瞬間、蓬莱寺が目を開けた。
「ん、ひーちゃん?」
「なんで『ひーちゃん』やねん」
「そんな夢でも見てたんでしょう」
「どんな夢や」
「だから、そんな夢」
二人の声が聞こえているのかいないのか、蓬莱寺が寝惚けたまま今度は両腕で猫を抱き寄せた。圧死させるような勢いできつく猫を胸に抱き締め、そうしてから身を起こして辺りを見回し、腕の中で硬直している猫に気づく。猫も蓬莱寺を見上げていた。暫し無言で、一人と一匹が見詰め合う。
先に沈黙を破ったのは猫だった。腕をするりと抜け出して、蓬莱寺の顔面を鋭い爪ではたき、次の瞬間には身をひるがえして床に着地した。呆気に取られた蓬莱寺は、まだ事態を把握していない。疑問符を頭上に浮かべて猫の後姿を視界に入れ、次にゆるりと振り向いて劉と霧島を見た。
「・・・ひーちゃんは?」
「どんな夢見とったの京一はん」
「えーと、ひーちゃんが」
「言わんでええ!聞きとうない!」
劉が耳を塞いで叫んだ。その声に、眠っていた者たちから一斉に「うるさい」「黙れ」「焼き転がすぞエセ関西人」などと罵言が浴びせられる。どれが誰の声だったのか霧島には判じかねたが、苛立ちの含まれた声だったのは理解した。しかし劉の耳には届かなかったらしく(耳を塞いでいたから)、まだ何事か喚いている。
猫は窓辺に座り、しれっとした顔で外を眺めていた。まだ完全に覚醒していない者たちは、この不思議な猫の存在に気づいていない。緋勇の不在にも。
騒音に堪えかねて意識を取り戻した仲間たちが、低く唸ったり関節を鳴らしたりするのを聞きながら、霧島はそっと猫に手を伸ばしてみた。優雅な仕草でその手を躱し、猫は僅かに開いていたドアの隙間から出て行った。溜息をつき、早朝に起こされた者たちに小突かれている劉をちらりと見遣る。次に、その喧騒からは少し離れた場所で呆けている蓬莱寺を見る。
寝起き特有のぼんやりとした目つきで虚空を見ている蓬莱寺は、まるで感触を確かめるように自分の頬に手を当て、周囲を見渡し、深く嘆息した。
「京一先輩、どうしたんですか?」
「・・・やっぱ夢だよな」
「もしかしたら現実かも知れませんよ」
「ん?」
「いい夢だったんですか?」
その問いに返ったのは、目も当てられないほど幸福そうな微笑みだった。夢だけでそこまで幸せになれるなんて、羨ましい人だ。そんな事を考えながら、あの猫の行動を思い出す。最初は指先に触れ、意識の有無を入念に確認してから、恐れるようにそっと頬に顔を寄せた。
蓬莱寺はまだ頬に手を当てている。その頬に触れたのはあの人の唇ではなく猫の鼻なのだが、なんだかとても見てはいけないものを見てしまったような気がするのは何故だろう。
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