蓬莱寺が雨音で目覚めると、腹の上に猫が乗っていた。しなやかな黒い毛並みに見憶えがある。また会ったな、と金色の瞳に笑いかけると、猫は安心したように目蓋を落とした。

 まだ半分ほど夢の中にいる意識で、眠るまでの記憶を引き寄せる。
 緋勇の部屋に来て何をするでもなく持参の雑誌などめくり、特に話す事もなくそのままだらだらしていたらいつの間にか寝入ってしまったようだ。思い出すほどの事もなかったな、と、やはりぼんやりと視界を巡らせる。緋勇の姿が見えない。こんな雨の中、どこへ出掛けたのだろうか。
 不遜にも腹のでくつろぐ猫に手を伸ばすと、するりと躱された。腹の上には乗るのに、撫でられるのは嫌いなのか。軽やかな動作で床に降りた猫を睨み、蓬莱寺はふと既視感を覚えた。優雅に尻尾を揺らす後ろ姿をじっと見詰め、次いで窓を見る。施錠されている事を確認し、そうしてから漸く根本的な疑問に気付いた。
 この猫はどこから入ったのだろう。緋勇が招き入れた可能性もあるが、彼の性格を考えると確率は低そうだ。迷い込んだにしては、この威風堂々とした物腰が引っ掛かる。実は隠れて飼っていたのだろうか。ほぼ毎日のように来ている蓬莱寺にも気付かれずに、というのは、緋勇には不可能なように思われた。
 漂っては流れてゆくばかりの思考を早々に放棄して、窓辺に座る猫を見た。猫は、寝心地の悪いベッドなど興味は失せたとばかりに外の景色を眺めている。可愛くねぇなこの野郎。心中で呟き、昼寝の続きでもしようかと再び床に寝転んだ。背中を向けた猫から視線を外し、今度は腹這いになって目を閉じ、たと思ったか隙あり!

 一瞬の隙を突いて飛びかかり、僅かに初動の遅れた猫を腕の中に閉じ込める。皮膚に刺さる爪に顔をしかめながらも、何故か蓬莱寺の頬には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。鋭い爪に裂かれた皮膚は、見るも無残に蚯蚓腫れだ。ほんっと容赦ねぇなこいつ。
 右手で小さな体を固定して左手で尻尾を掴むと、抵抗が更に強まった。そんなに俺が嫌いか。口中で呟くと、予想外にその言葉は心臓に深く刺さった。その隙を見逃さず、猫がひらりと身をひるがえす。そのまま軽やかな音を立てて床に着地し、しかし逃げも隠れもせずに少しの距離を空けただけで蓬莱寺を睨み上げた。凛呼とした金色の瞳が、薄暗い部屋できらりと光る。
 おもしれぇ、やる気か。負けじと金色の瞳を睨み返す。一人と一匹が動きを止めると雨音がやけに耳につき、不意に不安が湧き上がった。緋勇はどこにいるのだろう。用があるとは言っていなかった。彼がふらりと消えるのはよくある事なのだが、その度に蓬莱寺は胸の奥がざわめく音を聞く。
 彼は二度と帰ってこないかも知れない。隣に立っていた友人の事など忘れてしまうかも知れない。

 猫はまだ蓬莱寺を見詰めている。影のように佇む姿が酷く冷淡に見えて、それが耐えがたく苦しくて、蓬莱寺は乞うような気持ちでそっと手の平を差し出した。だが、触れる寸前に叩き落とされた。ふいと鼻先を逸らして、もう飽きたとでも言わんばかりの素っ気無い仕草で蓬莱寺に背を向ける。

 緋勇はまだ帰ってこない。雨脚が弱まる気配もない。猫のお陰で昼寝もできない。ほんと、どっから入り込んだんだこの猫。まるで緋勇と入れ替わりのように現れて、あれ?いや、おい待て、何を考えてんだ俺。思考が不意に湧き上がり、勝手に組み上がってゆく。
 窓の外を眺めている黒猫を、そっと盗み見た。猫の表情など分かりはしないが、その横顔はどこか物憂げに見える。艶やかな黒い毛並みは美しく、容易に触れさせないその気高さは多分にあの人を想起させる。容赦のない攻撃といい、それでいて誘うように見せる隙といい、どうしても勝てないあの男によく似ている。いやでもまさかそんな。

「・・・ひーちゃん?」

何を莫迦な事を。続けて口中で呟くが、声にはならない。
 猫がピクリと耳を動かし、こちらを見た。心臓が徐々に音量を増す。
 真っ直ぐに自分を見据えるその瞳は、もう彼のものにしか見えなかった。












 猫がふと鼻を上げた。つられて視線を上げると、窓に男が貼り付いていた。思わず声を上げて後ずさる。

「開けてぇな、京一はん」
「おま、なに、え、どっから」

窓の外で情けない声を上げているのが濡れそぼった劉だと気付き、戸惑いながらも鍵を開けた。床に落ちた水滴に、猫がさっと身をひるがえす。タオルを投げてやりながら、家主に無断で客を上げても良いものか、と考えたが、どうでもいいかとすぐに思いなおす。知らぬ仲でもあるまいし。

「アニキは?」
「さあ」
「あ、おった」
「いや、それアニキじゃねぇから」
「え、でも今『ひーちゃん』って」
「!!!」
「やらしーなぁ京一はんは」
「・・・てめぇ、いつからいやがった」
「そんな心配せんでええよ、ついさっきやから」
「いや、心配っつーか」
「ほんまになんも見てへんで。そんな、嫌がるアニキに力尽くで迫ったとか」
「脳みそ洗って出直してこい!」

上着を脱いで髪を拭いた劉が、さっそく猫に手を伸ばす。しかし水気を含んだ劉の体はお気に召さなかったらしく、すいと滑らかにその手を躱した。蓬莱寺が心の中でほくそ笑む。それを見て、劉が悔しそうに蓬莱寺を睨んだ。心の中のつもりが、表情に出てしまっていたようだ。

「アニキに嫌われたー」
「俺には乗っかってきたけどな」
「嘘や!アニキはそんなふしだらな人やないで!」
「お前がいなきゃ甘えてくるしな!」
「なんでや!アニキに無理矢理あんなコトしたくせにっ!」
「どんなコトしたってんだ」
「あ、抵抗できないアニキってちょっとええと思わん?」
「・・・想像させんな!ちょっとどころじゃなくイイに決まってんだろ!」
「アニキ、あいつには近付かん方がええで」

 部屋の隅で冷めた目をしている猫は、すっかり我関せずのポーズで窓の外を眺めていた。耳だけがこちらを向いているのだが、果たして会話の内容を理解しているのだろうか。ふとよぎった疑問に、蓬莱寺は慌てて否定を被せた。そんなまさか。だってこいつは猫なんだし。
 蓬莱寺の一瞬の懊悩など知る由もなく、劉がめげずに手を伸ばした。

「アニキー寒いーあっためてぇなー」
「なあ、その呼び方もう固定なのか?」
「アニキはアニキやもん」
「いや、だから」
「だって、アニキやろ?」

劉の顔から笑みが消え、どこか不安げな色が浮かんだ。そんなまさか。もう一度、否定の言葉を探して脳内をかき回す。
 寝入る前、確かに緋勇はこの部屋にいた。窓際に座って、何をするでもなくぼんやりしていた。
 鍵は閉まっていた。外は雨で、部屋のどこかが開けばたとえ寝ていても気付くだろう。しかも腹の上に乗られていたなんて、どうして気配すら察知できなかったのか。それは、もしかしたら、もう隣にあるのが当たり前の馴染んだ気配だったから?

「いや、ちょっと待て」
「京一はん、相棒の氣も分からんの?」
「え、ええと」
「なんや、その程度かいな」
「おい!」

 雨はやまない。緋勇は帰らない。もしかしたら、永遠に。払っても払っても、そんな気持ちが湧き上がっては拡散する。急に寒くなったような気がして、蓬莱寺は身を震わせた。視界に入った猫も寒そうに見える。人に媚びてすり寄れば簡単にぬくもりは手に入るのに、何故そうしない。人を信じていないのか。まだ人が怖いのか。まだ俺が信じられないのか。
 こんなにも想っているのに、彼には届いていないのか。

「おい、劉」
「なんやねん」
「あの猫、ひーちゃんなのか?」
「何をおもろいこと言っとんのや」
「・・・はい?」
「なんでアニキが猫やねん」
「え、いや、だって」

劉の頬が笑みの形に歪んでいる事に気付き、漸くからかわれたのだと察した。声を上げて笑い出した劉に拳を落とし、部屋の片隅で丸くなった猫をひったくる。驚いて暴れだした猫を両腕で拘束し、床に寝転がった。

「ああ!アニキ嫌がっとるよ!」
「うるせぇ!お前もとっとと帰れ!」
「ここアニキの部屋やないか!そんなん言われる筋合いないわ!」
「あ、たしかに」
「アニキ!こっちの方があったかいでー!」
「アニキってゆーな!」
「アニキって呼ん」
「うるせぇ!」

怒鳴りながら、腕の中で無駄な抵抗を繰り返す猫をこれでもかと抱き締める。諦めろ。どうしたって離してやるつもりはねぇ。そんな隅っこより、こっちの方があったかいだろ?心で呟くと、劉が何を思ったか猫ごと蓬莱寺を抱き締めた。

「おいこら!何してやがる!」
「あ、京一はんあったかいわー」
「お前はくっつくな!」
「ワイが風邪でも引いたらアニキが悲しむで」
「んな訳あるか!修行が足りねぇとか言われるに決まってんだろ!」
「そ、それもありそーやなぁ」

 心の声が聞こえた訳でもなかろうが、猫が諦めて据わりの良い位置に収まった。ついでに、何故か劉もくっついたまま寝る体勢に入った。振り払えなくなってしまったのは、触れた体温が本当に冷たかったからだ。よく見ると顔色も良くない。体調が悪かったのだろうか。それで緋勇を頼ってきたのかも知れない。それにしては元気一杯だったように見えたが。
 弱った顔を、緋勇の前では見せるのだろうか。俺だって仲間だろうが。そんなにあいつばっかり頼るなよ。取り留めのない言葉が表層に浮かび、しかし明確な形にはならず睡魔に希釈されてゆく。いつか伝わるだろうか。願いではなく、望みや祈りなどでもなく、ただ漠然と誰にともなく問う。
 いつか、伝わる日が来るのだろうか。

 遠い雨音と近すぎるぬくもりに、いつしか目蓋は落ちていた。












「おい劉、起きろ」
「んー?」
「あ、ばか動くな」
「なんやねん・・・って、あれ?」
「ひーちゃん、いつ帰ってきたんだ?」
「さっぱり分からんかった」
「なあ、しかも、なんで」
「あれ?アニキは?」
「は?」
「猫の方のアニキ」
「ああ、そーいやいねぇな」
「で、なんでアニキが」
「やっぱややこしいからアニキって呼ぶな」
「ワイらの間で寝とるん?」
「・・・さあ」
「まあええか、あったかいし」
「いいのか?」
「何が悪いん?」
「・・・まあいいか」