何度か似たような夢を見た記憶がある。玄室に立ち入った葉佩と、その隣に立つ自分の姿。夢の中で、もう何度も見た光景だ。葉佩は何と言うだろう。裏切られたと、皆守を謗るだろうか。或いは、いつものように「ああ、そうなんだ」で終わるだろうか。
「ついに、ここまで辿り着いたな」
口が勝手に言葉を作る。「おめでとう」などと嘯き、葉佩の反応を見た。もう、とっくに気付いているのかも知れない。気付いていて、どうでもいいとでも思っているのなら、それでいい。誰も、彼を束縛する事など出来ない。それならば、もう何も望まない。葉佩は自由で、我侭で、薄情で、そうやって、ずっと生きてゆくのなら、もう何も。
辺りを見回していた葉佩が、視線を皆守に向けた。少しだけ逡巡し、口を開く。
【愛】
心臓の近くで、音が鳴った。聞き憶えの無いような、よく知っているようなその音に、皆守はずっと支配されていた。葉佩が笑う度に、涙を浮かべる度に、その音は鳴っていたに違いない。そうして、少しづつ皆守は落ちていった。
戻れないと知った時には、もう遅かった。
「そうだな・・・俺もお前の事が・・・」
そこで目が覚めた。心臓が、恐ろしいほどの速さで脈打っている。有り得ない。何がって、全部が。わななく手でシーツを握り締め、湧き上がる恐怖をどうにか押し殺す。何だってこんな夢。呟くが、動悸は治まらない。悪夢なら飽きるほど見たが、これほどの悪夢は初めてだ。夢の中で自分が囁いた言葉の、続きを想像してしまった。これは、立ち直るのに時間が掛かるだろう。
時刻は深夜だったが、再び眠りに落ちる気にもなれず、皆守は部屋を抜け出した。
墓石に凭れて、紫煙を燻らす。死にたい、と、声に出してみた。静寂に染み入り、言葉が音を奪われて消える。
暫くぼんやりと、欠けた月に向かって紫煙を吐き出していた。ふと我に返り、東の空が白んでいる事に気付く。そろそろこの場を離れないと、葉佩が地上に戻ってきてしまう。いま顔を見たら、きっと冷静ではいられないだろうと思い、皆守は墓石から腰を上げた。上段蹴りでは、きっとこの心は静まらない。だが、コンボを決めるほどの気力も残っていない。
甘い溜息を吐き出し、皆守はその場を立ち去った。背後で物騒な音が聞こえた気がしたが、振り向かずに足を速めた。
自室に戻り、愛するベッドに身を預ける。起きたら葉佩を殴ろう。心に決めて、目を閉じた。
緩やかに覚醒する意識を感じ、それに抗おうと低く呻く。自分が発した声で、完全に意識が覚醒してしまった。重たい頭をゆらりと揺らし、眠った時と変わらずに自分を包む毛布を、縋るように引き寄せる。その耳に、聞き慣れない音が触れた。訝しんで身を起こすと、部屋の隅で葉佩がナイフを砥いでいた。
「あ、やっと起きた?」
「何してやがる」
「刃ぁ砥いでんの。もう夕方だぜ」
言われて窓の外を見れば、夕映えの秋空が広がっていた。その空をガラス越しに背負い、葉佩は小さな石を用いて丁寧に刃を磨いている。聞き慣れない音の正体を確認したので、もう起きている理由は無い。鈍い動きで枕に突っ伏した皆守を、葉佩は見ていなかった。視線は手元の刃に落としたまま、葉佩が独り言のように呟く。
「時間差っての、考えたんだけど」
「あー有意義な一日だった」
「どうよ、俺の夢とか見なかった?」
「・・・思い出した」
「お?」
「起きたら殴ろうと思ってたんだ」
「何で?」
「何でかは忘れた」
寝言のようにそう言って、皆守がうつ伏せのまま体を伸ばした。僅かに上がっていた葉佩の視線が、再び伏せられる。調合の失敗で落ち込んでいるのだろうか、などと考え、皆守は即座にその可能性を否定した。そんな些細な失敗で落ち込むような真っ当な神経の持ち主なら、この《學園》は平和だったに違いない。
「で、俺も飲んでみたんだ」
「何を?」
「媚薬を」
「・・・へえ」
「そんな訳で、お前の顔を見に来た」
「・・・で?」
「犯ってやろーと思ったんだけど」
「まあ落ち着け」
「どうもそんな気にならないんだよね」
「そ、そうか」
「レシピは間違ってないと思うんだけどなぁ」
尖らせた刃先で夕日を反射させながら、葉佩が溜息を吐いた。布切れで刃を拭い、やはり丁寧な動作でそれをポケットに仕舞う。暫く呆けた表情で虚空を見詰め、やがて皆守に向き直った。
「これはもう、アレだね」
「どれだよ」
「俺はもう皆守が大好きだから、薬は効かなかった!」
「薄ら寒いからその仮説は却下」
「えええ!ひどくね?」
「清々しいほど意味が分からない」
盛り上がってきた葉佩が、ベッドにも乗ってきた。皆守が、寝転んだまま手を伸ばしてアロマを銜える。着火の音を聞きながら、葉佩が皆守を押し退けて布団に潜り込んだ。壁際に寄せられた皆守が、足の裏で葉佩の頬を押しつつ険悪な声を発する。
「おい、死にたいのか」
「・・・カレー臭がする。足の裏までスパイシーって、どんだけカレー漬けだよ。カレー風呂か。そうなのか。それともアレか、みかん食べると指が黄色くなるアレか」
「加齢臭はお前だろこの年齢詐称。どの面さげて高校三年生だ」
「うっさいなー黙れよカレラベ男。言いづらいんだよカレラベ」
「勝手に略して言いづらいとか言われても」
「カレーとラベンダーをCompoundしてみた」
「説明しなくていい。あと横文字がうざい」
葉佩が無造作に、顔面に押し付けられた足を持ち上げた。皆守が拘束されていない方の足で、葉佩の額を踵で押す。少しの間黙り込んでいた葉佩が、唐突に「Compound!」と叫んだ。やはり意味は分からなかったので、皆守は素直に応える事にした。
「うるさい」
「えー何だよー慰めろよー」
「お前の落ち込み方は分かりづらい」
「だってさーレシピは完璧なんだぜー」
「語尾を伸ばすな。気持ち悪い」
「あーくそーもう寝るー」
「帰れ」
「あ、なんか枕いい匂いする」
「嗅ぐな!」
枕を狂人の手から奪い返し、尚も寝具たちに狼藉を働こうとする葉佩の頭頂部に拳をぶつける。期せずして果たされた誓いはさておき、皆守は心が欲するままに、葉佩の無防備な背中に踵を落とした。
もしも葉佩が戦闘態勢に入っていたら、こんな攻撃は当たらないだろう。ふとよぎった思考が、皆守の心臓で音を立てた。それには気付かず、葉佩はシーツを巻き取る作業に夢中になっている。もう一度、踵を落とす。葉佩が汚い声で呻き、鋭くその足を掴んだ。皆守が、丹念に尖らせたナイフの存在を思い出す。その懐に、今も忍ばせているであろう銃の存在を思い出す。薄ら寒い仮説を思い出し、瞬時にそれを否定する。
そうこうしてる内に、葉佩が皆守の足首を抱えた。脹脛で固定し、圧力を掛ける。少しばかり崩れたヒールホールドのようにも見えるが、痛みは感じない。
「あれ?極まってない?」
「固定する場所が違うんだ。それじゃ極まらない」
「ん?こっち?」
「貸してみろ」
と言って、葉佩の膝を絡め取り、足首を抱えた。葉佩が身じろぐ。脱出する為の動作ではないような気がして、皆守が顔を上げた。葉佩は、嬉しそうな表情で「やべ」と呟き、皆守に向かって真っ直ぐに言い放った。
「勃ってきた」
皆守が、陸に上がった鯨を見るような目で葉佩を見た。可哀想だが、俺に出来る事はない。そんな目だった。
「効いてきたのかな!」
「いや、お前は素面でも変態だった」
「よし!これで皆守がその気になったら!」
「どの気だ」
「性交、じゃなくって!成功だね!」
「今のはわざとだろ」
トイレに向かってやや前かがみで走り去った葉佩を見送り、皆守は視線を窓に転じた。夕暮れは終わり、世界は夜になっている。一日寝倒したので、眠気は全く無い。逃避する術を一つ失い、皆守が途方に暮れた。
安息は疾うに砕かれた。微睡みすら、最近では危機に瀕している。カレーは既に葉佩から得られる物として認識され、ベッドも蹂躙された。花の香りだけだった部屋も服も、気付けば微かに硝煙の匂いが染み付いている。
失ったものを思い、得たものを思う。
それでも葉佩を憎む理由がどこにも見当たらないのが、最大の問題だ。
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