葉佩の歯が、皆守の肩に刺さった。尖った犬歯が皮膚を破り、骨に迫る。咄嗟に皆守は、自分の顔のすぐ横にある葉佩の米神に拳を打ち付けた。揺れた葉佩の頭部が顎に当たり、視界の端に星が散った。肩に刺さった歯が一瞬だけ緩む。短く刈り込まれた髪を汗の滲んだ手で掴み、引き攣れる痛みを無視して顔を遠ざける。視界に入った顎に、額を打ち付けけた。濁った声を発して、葉佩が身を離す。衝突した際に、前歯が皆守の皮膚を傷付けていた。目尻に落ちた血を拭い、立ち上がって葉佩から距離を取った。葉佩は、弾ける直前のバネのように体を曲げている。
 その口元が赤く染まっているのを見て、皆守が恐怖した。唇に付着した血を舐め取り、葉佩はゴクリと音を鳴らしてそれを飲み込んだ。葉佩は笑っていた。違う。それは威嚇だ。獣の証である頑丈な歯を、皆守に誇示している。
 ぞくり、と、皆守の背中に戦慄が走った。首筋が粟立つ。体が震えそうになるのを、必死で叱咤する。葉佩が笑っている。獣の息遣いで、皆守を見ている。皆守という獲物を見ている。

 不意に皆守は、自分の隣で子供のように笑った葉佩を思い出した。
 料理の腕を褒められて、嬉しそうに体を揺らした葉佩を思い出した。
 八千穂に叱られて、目に涙を浮かべていた葉佩を思い出した。
 肩の痛みを思い出す。

「・・・葉佩」

名を呼ぶ。それは彼の本当の名前ではないのかも知れない。でも、皆守はその名しか知らない。

「葉佩!」

もう一度、強く呼ぶ。お前には名前がある。お前を呼ぶ為に、声を発する人間がいる。
 忘れてしまったのなら、思い出すまで呼んでやる。

 葉佩が動いた。身を低く前傾させ、皆守の死角に走り込んだ。葉佩の姿を見失い、皆守が本能的に後方に跳ぶ。足元に感じた気配に、確かめる余裕もなく爪先を振る。だが、振り上げた爪先は空を切った。伸び切った膝越しに、葉佩の黒い瞳が見えた。失策を悟った皆守が、目を見開く。恐ろしいほどの握力で大腿を掴まれた。薄い生地越しに爪が食い込む。掴まれた足を大きく持ち上げられ、バランスを崩して皆守が後ろに倒れた。唯一で最強の武器を掌握され、乗り上げられた。汚れた歯が、血と肉を求めて皆守に迫る。

「葉佩っ・・・!」

もう一度、名を呼んだ。届かない。恐怖と屈辱と悲しみが、涙腺を決壊させる。混乱した脳裡には、それでも葉佩の矜持が浮かんだ。お前は人間だ。自分の意思で行く道を決め、誇りを持って進む、人間だ。
 喉笛に、歯が差し入れられた。その感触に皆守が叫んだ。叫びながら、必死で抵抗を試みる。間近にあった耳を引っ張り、眼球を狙って指を突き出す。目蓋を浅く傷付けた爪に、葉佩が噛み付いた。それを引き抜く事はせず、皆守はそのまま口内に手を突っ込んだ。指の付け根の尖った部分で上唇を打つ。その衝撃に葉佩が顔を引いた。逸らされた首を目掛けて拳を振る。葉佩がそれを躱すと同時に、皆守の腹の両脇に付いていた膝を上げた。電光に、葉佩の全体重が圧し掛かった。上擦った声で苦痛を散らす。その時、皆守は葉佩が勃起している事に気付いた。
 やばい。こいつ、本気でやばい。
 薄い肉を突き抜けて、骨に走った痛みに涙が出る。涙の理由は痛みだけではなかったが、皆守はそんな事どうでも良かった。喉から溢れる声は、限りなく嗚咽に近い。

「葉佩っ!」

名を、それでも呼ぶ。悲鳴のようだ、と、自分でも思った。







 無様な悲鳴に、耳障りな唸り声が混じった。同時に、弾けたように葉佩が吹き飛んだ。事態を把握できずに、皆守が唖然と目を見開く。自分の荒い呼吸音だけが、耳の近くで繰り返される。その音に、場違いなほどゆったりとした声が被せられた。

「人の嗜好に口出す趣味はありませんが、ここでそのプレイはどうかと思います」
「・・・夷澤」
「盛り上がってるとこ、お邪魔してすいませんね」
「・・・大助かりだバカヤロウ」

呆然とした表情のまま、皆守が夷澤を見上げた。その顔が洒落にならないほど汚れていて、夷澤は器用に片眉だけを顰めた。血と涙と汗と涎と洟、ほとんど凡ゆる体液を付着させている。その顔から視線を逸らし、夷澤はうずくまる葉佩を見た。
 地面に転がった葉佩は、右足を抱えて呻いていた。

「・・・何した?」
「凍気ぶっ放しただけっすよ」

 よく見ると、皆守のシャツの腹の辺りも少しだけ凍っていた。他の部位が尋常でない激痛を発していたので気付かなかったが、意識するとほんの僅かにひりつくような違和感がある。直撃を受けた葉佩の痛みは、その比ではないだろう。足を抱えたまま、呻きながら地面を掻き毟っている。
 兎に角その場を離れようと膝を立て、皆守は漸く悟った。掴まれたあの一瞬で、葉佩は膝を極めていた。砕かれなかっただけマシか、と、夷澤の手を断って立ち上がる。大きな血管は傷付いていない。骨も折れてはいなかった事に安堵し、皆守は重い体を引き摺ってその場を後にした。







「首謀者の片割れ、回収しましたよー」
「うむ、ご苦労」
「首謀者?」
「通報があったんすよ。中庭で不純同性交友してる奴がいるって」
「・・・通報したの誰だ」

それについては守秘義務があるらしい。不純である事も、同性である事も認めるが、交友とは違うだろう。はっきりと生命の危険を感じた皆守は、釈然としないまま濡れたタオルを受け取った。鈍痛を発する関節に湿布を当て、噛まれた傷を消毒する。保険医がいなくとも、それぐらいの処置は皆守でも出来る。
 もう少しでも皆守の目が悪かったら、間違いなく喉笛を食い千切られていただろう。現場を目撃してしまった夷澤は、その予感に思わず身震いした。葉佩に躊躇いは見えなかった。あの獣を前にして、自分はどれだけ戦えるだろう。恐怖せずに、立ち向かえるだろうか。その怯惰を、慌てて打ち消す。

 粗方の応急処置を終え、皆守は事情聴取に応じた。

「何が原因だ」
「・・・媚薬」
「詳しく話せ」

背後では、書記が真面目に記録している。それをなるべく意識しないように、皆守は事の発端を説明した。

 葉佩が、『媚薬』なる物の調合に成功した。
 誇らしげに見せびらかした葉佩に、皆守はその効果を疑う発言をした。
 むきになった葉佩が、効果の有無に夕食を賭ける事を提案した。
 それを受け入れ、皆守と葉佩は同時に、葉佩曰く『媚薬』を飲んだ。

「以上だ」
「・・・」

それは多分、媚薬じゃない。傍らで聞いていた夷澤は、素直にそう思った。具体的にその効果を知っている訳ではないが、想像は出来る。想像した媚薬の効果と葉佩の行動は、どう捻っても符合しない。というか、あれが熱烈な愛情表現だと思うと凄く嫌だ。その可能性が決して低くないのが、堪らなく嫌だ。
 放置された葉佩は、皆守が立ち去った直後に麻酔銃を撃たれて捕獲された。という報告を聞きながら、阿門は皆守に、保健室に直行する条件付で退出許可を出した。

 皆守が去った部屋で、神鳳が溜息を吐いた。

「何と言うか・・・高校生らしい動機の死闘ですね」
「媚薬なんて作れるのねぇ」

神鳳に応じているように見せかけて、双樹は独り言を発した。供述内容を記録していたのだが、その効果を理解するには至らなかったらしい。脳内で展開された映像を、夢見るような目付きで見詰めた。
 抑圧された若者がひしめくこの學園では、欲求が歪んでいる事など誰も指摘しない。「お前もだろ」「そうだな」で終わってしまうからだ。異分子である筈の転校生すら、むしろその筆頭に上げられる。しかし生徒会長がそれについて何も言わないのなら、神鳳が何事か発言する理由は無い。思考する理由さえ存在しない。

 目を覚ました葉佩に対する皆守の態度は、以前と変わらなかった。それならば、言える事など何も無い。そして可能ならば、神鳳は関わりたくなかった。それが許される立場ではないのが、堪らなく憂鬱だ。

 歪んだ若者の下で、《墓》は今日も永い眠りを貪っている。