蝉の声がさわがしい。それに運動部の掛け声が混じる。ミスを責める声がひときわ大きく響いて、そんな声を出さずともきっとその部員には聞こえているだろうと、他人への理不尽な暴言に、身勝手に憤る。
耳を澄ますまでもなく暴力的なまでに飛び込んでくる音に、蓬莱寺は顔をしかめた。
プリントの空白が、すべて埋まった。記されたその解答が正しいかどうかは分からない(それが分かるようなら、蓬莱寺は今ここにいはいないだろう)が、終わったら帰ってもいいという言葉を疑う理由はない。蓬莱寺は袱紗包みを掴んで立ち上がり、解き放たれたように教室を出た。
視界に人影はなく、動く物も存在しない。それなのに、音は絶え間なく耳に届く。蝉の声、人の声、車のクラクション、少しテンポのずれたこの曲は、吹奏楽部だろうか。教室では不快だったその音たちが、ひんやりとした廊下では、どこか心地よく感じられるのが不思議だった。同じ音なのに。
靴を履きかえて校庭に出ると、白い日差しに目がくらんだ。野球部が、怒号を発しながら白球を追いかけている。汗の染みたシャツの背中を横目に、迷いなく校門に向かう。
立ち止まった蓬莱寺に、木陰の黒い影が顔を向けた。緋勇だ、と認識して、ようやく蓬莱寺は自分の足が止まった理由を理解した。変な顔をして立ち止まった蓬莱寺に、終わったのかと緋勇が声をかける。
応と発する声は、自分の声だった。当たり前の事に安堵して、木陰から出ようとしない緋勇に歩み寄る。その膝元にアイスの棒と袋が置かれているのが目に入り、急に喉の渇きを自覚した。しかもその棒に「あたり」と記されていれば、やる事はひとつだ。コンビニ行くぞ、と言って促すと、緋勇はさも億劫そうに立ち上がった。
ふと目に入った白い腕が少しだけ赤くなっていて、ひりつくような痛みを想像する。喉が渇いた、と呟けば、緋勇は無言で頷いた。彼も喉が渇いたりするのかと、思った自分に驚いた。彼だって、喉ぐらい乾くだろう。緋勇をなんだと思っているのか。
強い日差しに照らされて、思考が散漫になってくる。隣を歩く緋勇は、相も変わらず涼しげだ。汗もかいていない、ように見えるが、それは蓬莱寺に見えていないだけで、彼も暑いだろうし、喉も乾いているのは間違いない。コンビニのアイスだって食べるし、と何気なく緋勇の手元を見て、蓬莱寺は足を止めた。
「おい」
「?」
「棒はどうした」
「?」
「アイスの、さっき食ってたやつ」
「食った」
「棒も!?」
まさかとおもいつつ、その可能性を否定しきれずに、全力で問う。すると緋勇は、心底からあきれたように目を細めて蓬莱寺を見た。彼が何か言うより早く、蓬莱寺は自分の非を認めた。認めて、誤魔化す事を選択した。
「いや、食ってないのは分かってるけどよ」
「お前は時々本気だからな」
「そっそんな訳ねぇだろ」
「いくら俺でも生では食べない」
「いちばん重要なことろは否定してないよな、それ」
正体不明の疑惑は依然として虚空をさまよっているのだが、それはさておく事にして、蓬莱寺は起点に戻る。
「で、棒は?」
「お前は何を言ってるんだ」
「え、なんで俺が失敗したみたいになってんだ?」
「ゴミはゴミ箱に入れる、常識だろう」
「ああ、なるほどー」
「分かってくれたか」
「お前に常識を期待した俺が悪かったよ」
「?」
つまり緋勇は、棒の「あたり」を見ていなかったか、見ても意味が分からなかったのだろう。
「ばかやろう!」
「!?」
「ひーちゃんのばか!」
「え、ええと」
「お前なんか俺に食われてしまえ!」
「ほう、できるのか、お前に」
「そこには食い付かなくっていい!」
唐突に浴びせられた罵倒(?)に戸惑った緋勇が、数歩だけ後ずさりした。その腕を掴み、引き寄せる。緋勇がちょっと本気で嫌そうな顔をした。珍しい、などと心の片隅をよぎった不思議な色の悲喜は無視して、引き寄せた腕から続く肩を取ろうとして、鮮やかに透かされてたたらを踏んだ。
追撃はない。緋勇の戸惑いがそんなところにも見て取れて、蓬莱寺は雑多な感情を自分でもうまく把握できず、無為に息を吸い、吐き出す。
「あたりだったんだよ」
「?」
「あたりが出たらもう一本もらえるんだよ」
「何を?」
「アイス」
「?」
彼は本当に知らないのだと、こんな些細な無知にさえ心が乱される。そしてもう一本のアイスが自分の物だと信じて疑わなかった蓬莱寺は、深く、それはもう深く溜息をついた。緋勇が居心地悪そうにその様子がうかがっている。
「という訳で、お前のおごりな」
「!?」
「どーせあのアイスだって、自分で買ったんじゃねぇんだろ?」
「裏密がくれた」
「どーゆー状況だ」
「すれ違った時に渡された」
「いや、さっぱり分かんねぇ」
「だから、校庭を俺が歩いていて」
「いや、そうじゃなくって」
「?」
「ああ、まあいいや」
あの裏密が、よりにもよってあの裏密が、夏休みの校庭でなんの違和感ももたらさない物、むしろどちらかと言えば常識的に気が利いた物をくれる、という状況に、納得できる理由がないと不安になるのは、蓬莱寺にも説明の難しい感情だった。なので説明はあきらめて、ただあるがままに受け入れる事にした。
「もったいねぇ事したな」
「そう、だな」
「次あたったら俺に言えよ」
「なんで」
「あたりじゃなくっても」
「なんで」
「アイス食いたくなったら、俺に言えよ」
「おごってくれるのか」
「なんでだよ」
「お前の言う事は分からん」
それが本当に理解不能を表す声音で、蓬莱寺はやるせないような、救われたような、おかしな気持ちになる。そもそも自分でもよく理解できないのだから、緋勇が理解できる道理もない。そんな事を、漠然と思う。
不快ではないが、嬉しいのとも、少し違う。深く静かに、何かが込み上げてくるような、不思議な感覚だ。緋勇はきっと、こんな感情も知らないのだろう。それが少しだけ悲しくて、嬉しかった。
コンビニに入った瞬間、心地好い冷気が肌を撫でた。あーすずしーと無意識に声が発せられる。緋勇も、心なしかほっとしたような顔をしている。やはり彼も暑かったのだと、蓬莱寺はこっそり安堵した。
色とりどりの包装を眺めながら、緋勇が子供のように無邪気に問う。
「どれがあたりか、分からないのか?」
「分かっちまったらつまんねぇだろ」
「そうか」
「分かんねぇから楽しいし、あたった時に嬉しいんだよ」
蓬莱寺にとっては当たり前の事なのだが、緋勇は感心したように軽く息を吐いて、もう一度そうかと呟いた。自分の当たり前が、彼にとってもそうであるようにと願い、同時に逆の事を考えた。彼が初めて知る事は、すべて自分からだといい。
空色の氷菓をかじりながら、緋勇がいつ「ひとくち」と言い出すか、蓬莱寺は辛抱強く待っていた。
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