見憶えのある木刀が床に寝転がっていた。本人の姿は見えない。あやうく踏みそうになった緋勇が、片足を上げたまま首をかしげる。いついかなる時も、あきれるほどに手放そうとしなかったのに。
先ほどまで床に寝転がっていたのは蓬莱寺本人だった。主人はどこへ消えたのかと戯れに心中で問うてみても、分かっていたが返事はない。
そっと、取り上げてみる。硬い柄が思ったよりも手に馴染み、なんともなしに安堵する。腕に感じる重さは、そのまま彼の心のようだ。軽やかでありながら、確かに感じる重量が心地好い。
切先を振ると、阿修羅はひゅうと音を立てて空を切った。この先端に風を集めて、蓬莱寺はいつも地を蹴る。彼自身が一振りの刃のようになる様が、緋勇はひそかに好きだった。
風を集め、加速させて、解き放つ。見慣れた姿をしばし浮かべて、緋勇はふと思い立った。あの男は、あそこにいるのかも知れない。
一刻ほど階段を下り続けたが、人影は見えない。お前の主人は風のようだと、心で無機物に語りかける。同意が得られた、ような気がした。器物百年を経て、などと信じている訳でもないが、永い時を共に過ごして、少しずつ持ち主の手に馴染んむよう形を変えてゆく物は、どこかいじらしく思える。
背後に迫ったタクヒに龍星脚をぶち込んで、そろそろ帰ろうかときびすを返す。
誰よりも緋勇の強さを認めているあの男は、しかし誰よりも緋勇が単独で地下に降りる事を厭う。今回の件も、ばれたら怒られるに違いない。泣きそうな顔を隠しながら、すねたような口調で、理不尽にも緋勇を叱るのだろう。まったくもって理不尽だ。あんな顔で訴えられたら、頷く以外に何ができよう。少なくとも、緋勇には頷く事しかできない。本当に反省するかどうかは、また別の話だ。
緋勇が階上へと足をかける前に、闇に紛れて異形がその眼光で空間を灼いた。阿修羅が奮え、闇が震える。緋勇が地を蹴ると、巨大な咆哮が上がった。阿修羅が呼応して、歓喜の声を突き上げる。唇の端を上げて獰猛そうに微笑む男が、隣に立っているように錯覚した。
『行くぜひーちゃん、気ぃ抜くなよ!』
お前こそ、と声には出さず返して、右手の木刀と共に低く走りこむ。同時に、清姫が地面に尾を打ちつけた。岩だらけの地面を薙ぎ払い、緋勇の足場もろとも叩き砕いた。咄嗟に跳びすさり、距離を測りつつ緋勇は身を低く沈める。今度は頭上を通過した尾が、勢いあまって天井にぶつかった。
轟音に怯む様子もなく、右手の阿修羅は虎視眈々と機を待っている。
本当はあの男に仲間など必要ないのではないかと、たまに思う。友人の不在に揺れたのも、ただ見知った縄張りの変化に反応しただけなのではないか、と。その証拠に、彼はいともたやすく行方をくらます。傷付いて、誰にも告げずに逃げ出して、ひとりで納得して、強くなって、またふらりと戻ってくる。今もそうだ。消えたのは彼なのに、きっと緋勇の不在を責めるのは彼だ。
お前の主人は理不尽だ。右手の阿修羅を強く握る。気紛れで、我がままだ。切先を高く振り上げ、真直ぐに落とす。握り込んだ柄が、熱く振るえた。誘われるままに、氣を通す。
蛇身をくねらせ、清姫が唸った。清姫とは、恨み骨髄に達し蛇へと化生した女だ。教えてくれたのはたしか美里だった。女でなくとも嫉妬はするだろうに。
刀身に滾らせた氣が、先端につどって解放を待つ。柄を逆手に持ち、全身をバネにして、嫉妬に狂った化物の眉間を狙い、阿修羅を放った。
狙いたがわず清姫の眉間に突き刺さった阿修羅を確認し、さてどうやって言い訳しようかと緋勇は途方に暮れた。
息絶えた清姫の眉間から阿修羅を引き抜き、緋勇は重たい足取りで地上に戻った。
この程度の無作法で砕け散るような阿修羅ではないが、まず勝手に持ち出して使用した事がまずい。しかもぶん投げて化物の眉間に突き刺したなどと、ばれたら間違いなく怒られる。
でも、そもそも蓬莱寺が得物を無造作に放置して消えたのが事の発端だ。そうだ、お前が悪い。我関せずとばかり右手にぶら下がる阿修羅に向けて、声ではなく言ってみる。返事はない。
ひとつ息をつき、旧校舎の壁に寄りかかる。無骨な木刀を目の高さにまで持ち上げて、しばし呆けたように眺めた。
小さな傷がいくつも見えて、それを誇りだと笑い胸を張る男の姿を幻視する。これはお前を守った証だ。そんな声までも聞こえたような気がして、緋勇は知らず唇を噛む。なんだか体温が上がったような、いや、気のせいだ。
左手で刀身を撫でると、清冽な氣が涼風のように皮膚を刺激した。なめらかな感触に指を遊ばせていると、唐突に足音が聞こえた。ほぼ同時に、横から出てきた手が阿修羅をひったくった。
「何をする」
「うるせぇばか!」
「どこにいたんだ」
「こっちの台詞だばか!」
「先に消えたのはお前だろう」
「ばか!」
阿修羅をその胸に抱き締めて、蓬莱寺が力の限り「ばかやろう」と叫んで座り込んだ。さすがに腹が立ったので、丁度いい位置にあった頭に踵を落としておいた。蓬莱寺が、のろりとした動作でそれを払う。
「どうした」
「なんでもねぇよばか」
「そんなに大事な物なら肌身離さず持っておけ」
「ちげーよばか」
語末の一言はどうにも不可分のようだ。
蓬莱寺が、胸に抱いた阿修羅をぎゅっと強く握り締めた。俯いているので、その表情は察せられない。とはいえ、表情が察せられたからといってその心境までも察せられる事が緋勇には少ないので、たとえ蓬莱寺が顔を上げても状況は変わらなかっただろう。
「どこにいたんだ」
「ちょっと、コンビニ」
「そうか」
「なんでいなくなってんだよ」
「先にいなくなったのはお前だろう」
「しかも阿修羅まで」
「それは、まあ、なんとなく」
「しかもてめぇ、何しやがった」
「投げた」
「は?」
「投げたら、刺さった」
「剣士の魂になんて事しやがる!」
「魂をそこらに放置するな」
「しかも、その、あれだよ」
「どれだ」
「さ、触り方が、やらしーんだよ、お前」
「?」
目をそらしたまま、蓬莱寺がよく分からない事を言う。分からなかったので反応せずにいると、蓬莱寺が急に立ち上がって切先を勢いよく上げた。鼻先に突き付けられた木刀は、わずかに震えている。
動作は攻撃的ではあるものの、殺意や害意は感じられなかったので、緋勇はなんの気なしにその刀身を手の平で制した。強く握り込むと、蓬莱寺がびくりと肩を揺らす。それでも掴んだ物を放さずにいると、抵抗するようにぐいと引かれた。
「だから、これは、俺の、なんつーか、あれだよ」
「ちゃんと喋れ」
「分身、つーか」
「ほう」
「ええと、あるだろ?」
「どこに何が」
「体の一部、みたいな感覚」
「分からん」
「あ、そうかお前、手甲って近すぎんだよ」
さっぱり分からなかったが、何やら納得してくれたようだ。制した得物を解放するついでに緋勇が刀先を軽くはじくと、蓬莱寺は全身を震わせて黙り込んだ。
緋勇の手を乱雑に振り払い、阿修羅が虚空をさまよう。何も言わずに歩き出した蓬莱寺の右手には、阿修羅がたよりなげに揺れていた。
どうして手を伸ばしたのか、緋勇にも分からなかった。
所在なげにしている阿修羅を掴み、引き寄せる。蓬莱寺が驚いて声を上げたが、気にせず艶やかな刀身を手の平で覆った。くすんだ黒はどう贔屓目に見ても綺麗ではないし、それでなくともつい先ほど化物に突き刺さった物だ。時に殺気を乗せて迫ってくるその切先を、優しく丁寧に両手で包み込んだ。その傷のひとつひとつを辿るように、そっと撫でる。
蓬莱寺が息を呑み、動きを止めた。
「・・・ひーちゃん」
「なんだ」
「お前、それ、わざと?」
「何がだ」
「わざとだよな?」
「だから何が」
「憶えてろよ」
「何を」
「次は俺が手甲にいたずらしてやる」
「俺にすればいいだろう」
「!?」
信じられないものを見るように目を見張り、蓬莱寺は黙り込んだ。阿修羅が震えている。できるものなら、と言外に含めた声はあやまたず刀身を通って蓬莱寺に伝わり、それを確信した緋勇は満足して切先を開放した。
いつかこの身を貫いてみせろ。この拳は、それを打ち砕いてみせる。
言葉ではなくそう告げると、阿修羅が歓喜に振るえたのが分かった。
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