いつものように手土産と称したカレー弁当を片手に、夷澤は皆守の部屋のインタフォンを押した。放っておけば平気で断食を続ける皆守に、夷澤は定期的に差し入れをしていた。その行為は、組織内で一部の者に「餌付け」と呼ばれている。まあ、大きく外れてはいないだろう。一向に懐く気配はないが。
 インタフォンを押して30秒ほど待ったが、応答はない。夷澤は取り出した携帯で皆守を呼び出しながら、ドアノブに手を掛けてみた。もし鍵が開いていたら、本格的にやばいぞあの人。心の中で呟く。抵抗なくドアが開いた。

「・・・鍵ぐらい閉めろよ!」

怒鳴りながら靴を脱ぎ、足音を殊更に響かせて部屋に入る。居間に続くドアを開けた瞬間、夷澤が動きを止めた。
 皆守が、半裸で床に倒れていた。予想外の展開に、夷澤の脳も止まった。皆守は、うつ伏せに寝転んだままピクリとも動かない。死は、いつでも其処にある。願いなど無視して容易く日常に滑り込む。夷澤はその事を知っていた。足元でゴツリと音がした。弁当と一緒に購入した缶ビールだろう。その音で我に返り、夷澤が皆守に走り寄った。震える手で肩を掴み、揺さ振りながら名を呼ぶ。室内に争った形跡はない。きっちりと閉められた窓は、ひび一つ入っていない。見える範囲に外傷もない。

「皆守先輩!」

眠っているだけだ。そうに違いない。もう一度、強く呼ぶ。皆守が呻いた。

「・・・あと24時間・・・」
「・・・まあ、そんな事だろーと思ってましたよ」

どうして床なんだ。そしてどうして半裸なんだ。サービスか。嬉しくない。俺は脱がせる方が好きだ。違うそうじゃない。落ち着け俺、と、夷澤は自分に言い聞かせた。まさかとは思うが、それでも恐怖はある。その時は、いつか必ず来る。いつだって、それは唐突に訪れる。それが今だったとしても、何ら不思議ではなかった。だから紛らわしい真似はしないで欲しい。
 安堵と共に怒りが湧き上がる。夷澤は、無防備に晒された襟足を引っ張った。

「何すかその格好。掘られたんすか?」
「風呂に入ろうとして・・・力尽きた」
「そのぐらい頑張ってくださいよ!」
「寒い・・・」
「でしょーね」
「床が硬い・・・」
「服を着てベッドに行けば全部解決しますよ」
「・・・頭いいなお前」
「そりゃどーも」

夷澤が提示した解決策は、しかし皆守には実行不可能だった。脱ぎ捨てられたシャツには何とか手が届いたが、全身を覆うにはまだ足りない。床に突っ伏したまま、皆守は二秒だけ頑張ってみた。諦めて体を丸めた皆守に、夷澤が拳を突き下ろした。拳と床に挟まれて、皆守の頭蓋が軋む。

「お前・・・いい度胸だな」
「ありがとうございます」

凄絶な目で睨まれても、夷澤は皆守を無表情に見下ろしていた。一瞬でも恐怖した自分が恨めしい。覚悟など出来ない自分に、どうしようもなく腹が立つ。しかも何度目だ。いい加減慣れろ。拳に力を込めた。皆守が、寝起きとは思えないほど鋭くその手首を掴んだ。寝転がったままの姿勢で、踵を振り上げる。夷澤が手を引く前に、側頭部に皆守の踵が激突した。しゃがんでいた体が真横に吹き飛ぶ。眼鏡も飛んだ。

「お前、今・・・何した?」
「・・・」
「殴ったよな?俺を」
「いや、ちょっとぐりぐりしただけっすよ」

夷澤の額に、皆守の爪先が置かれた。冷たい、と思ったが、それ以上に痛い。冷たい爪先に押されて、後頭部が床に押し付けられる。ゆっくりと、皆守が体重を掛けた。

「その度胸だけは褒めてやる」

多分、殺しはしないと思う。いくら皆守でも、そこまでは、と思う。だが、物凄く痛い。乗せられた足首を掴んで荷重を移動させる事は可能だ。だがその瞬間に全体重を乗せられたら、間違いなく死ぬ。皆守にその気がなくとも死ぬ。ちょっとした弾みで死ぬ。それは嫌だ。冷たい足首に手を掛けたまま、夷澤は進退窮まっていた。皆守がしゃがみ込んだ。重心は床の上の右足だ。器用に片足で夷澤の頭部を固定して、皆守は拳を握った。乗せていた足を下ろすと同時に、米神に拳を叩き付けた。夷澤の胴体は左足で固定されている。吹き飛ぶ事も出来ずに、夷澤の脳が激しく揺れた。

「・・・次やったら、その程度じゃ済まないからな」

いっそ優しげにも聞こえる声で言い放ち、皆守はドアを開けて去って行った。だがその声は、夷澤には届いていなかった。完全に落ちていた夷澤は、風呂から上がった皆守に頬を叩かれるまで、冷たい床の上で伸びていた。

 今日も、誰も死なずに済んだ。誰も殺す事なく一日を終えた。この手の罪が増える事もなく、あの人が背負った罪を増やす事もなかった。それを、奇跡などとは呼びたくはない。
 皆守が温くなった黒ビールを飲みながら、ソファで紫煙を燻らしている。腹は満たされていて、今のところ呼び出しもない。室内は適温に保たれ、耳障りな音もない。名を呼べば声が返り、戯言には笑みが零れる。
 それは奇跡じゃない。当たり前の日常だ。

 明日には壊れてしまうかも知れない、ただの日常だ。