際限なく落ちる水を見ていたら、それに触れたくなった。理由は分からない。肩に引っ掛けていた傘を地面に落とそうとして、聞き憶えのある声に名を呼ばれて手を止める。

「ちょーど良かった皆守ー!入れてー!」

端的に希望を告げるその声の主を、思い出そうとした脳が止まった。よく知っている人物のような気がするのだが、思い出せない。水溜りを蹴散らしながら駆け寄ってくる男を、ぼんやりと見詰めた。

「ギリギリ間に合うかなーって思ったんだけどさー」

やっぱ駄目だった、と笑いながら話すその顔には、確かに見憶えがある。心の奥が震えている。それが恐れだと気付き、漸く皆守は思い出した。彼の名前、職業、この場所にいる理由、その手の温度、そして自分の名前。ふとした瞬間に行方不明になる記憶を、まずは取り戻せた事に安堵する。そうして皆守は思い出す。彼の名を呼ぶ自分の存在を。

「葉佩」
「おう、ちょっと入れてよ」

言いながら、異常に近付いた体温に心臓が跳ねた。思わず引いた体を、葉佩が不思議そうに見ている。ああそうだ、彼は転校生で、級友で、《宝探し屋》で、排除すべき対象で、いつだったか傘に入れてやった事もあった。不必要に密着するので辟易した記憶がある。脳裡に浮かんだ映像が過去の現実であるという確証はどこにも見当たらなかったが、皆守はいつものように薄く笑って左手に持っていた傘を差し出した。頭上から傘がなくなり、冷たい水が髪と肩に触れる。鼻先で、雨に打たれた火が憐れがましく音を立てた。
 眼前にずいと差し出された傘に、葉佩が少しだけ戸惑ったように眉を寄せる。

「あの、皆守?」
「ん?どうした?」
「いや、どうしたはお前だ」
「俺はどうもしない」
「いや、明らかにどうかしてるだろ」
「そうか?」

何か間違ってしまったかと、内心でヒヤリとした。記憶だと思った映像はやはり夢で、葉佩だと思った男は葉佩ではないのだろうか。失敗をどうやって取り繕うか考えていたら、葉佩が「俺、なんかした?」と、皆守の顔を覗き込んで言った。彼の行動を(思い出せる範囲で)思い返し、走ってきて「入れて」と言った、と教えてやった。

「傘じゃないのか?」

葉佩がなかなか受け取らないので、傘はもう地面に接している。柄は皆守の手にあったが、その存在意義を果たしてはいない。傘と二人の男が、それぞれ個別に濡れていた。
 不意に、葉佩が俯いて唇を噛んだ。泣く、と思った。次にどうしてこの状況で泣くのか、という疑問が湧き上がり、しかし答えを見つけようと皆守が深淵に身を投げる覚悟を終える前に、葉佩は「ありがとう」と笑ってそれを受け取った。一分の隙もない、転校してきたばかりの頃によく見せたあの完璧な笑顔だった。心臓が潰れるような苦痛を感じたが、それが錯覚だと分かっていたので、皆守はそのまま何も言わずに立ち去った。
 雨は冷たいのに、体が酷く熱い。

 傘の柄に残った僅かな体温。それが自分の手を侵食するのが堪らなく不快で、泣きたくなるほど悲しくて、葉佩はその安っぽいビニール製の傘を握り締める事も、投げ捨てる事もできずに立ち竦んだ。そうして、傘を持っているのに雨に濡れながら空を見上げた。
 あの憐れな男を救える心が自分にあれば良かったのに、と泣きながら思った。