雨音みたいだ。
 取手が鍵盤から指を下ろし、視線を上げてから、葉佩がそう言った。取手は微笑んで、「葉佩君はすごいね」と、ささやくような声で告げた。

 雨だれという愛称で呼ばれるその曲を、葉佩は知らない。その曲にまつわる有名なエピソードも、もちろん知らない。だからそれを知っている取手は、自分の指がそれを表現し、彼がそれを理解したのだと解釈して、微笑んだ。そして、自分の指が鍵盤から離れ、最後の音の余韻が消えるまで待ってくれたこの小さな略奪者の存在を、心から嬉しく思った。
 取手が素直に思ったまま口にすると、葉佩は何故か気まずそうに目を逸らした。思春期の少年がはにかむ仕草とよく似ていると思ったが口には出さず、代わりに「ありがとう」と言うと、葉佩は何も言わず、不思議そうに取手を見つめた。

 褒めてくれて、ありがとう。そう言いなおすと、葉佩は居心地悪そうに顔をしかめて、次いで眠たそうに目を細め、まるで諦めたかのように無表情に戻り、無言のまま腰掛けていた窓から身をひるがえした。
 彼が諦めたのは、もしかしたら伝える事だったのでは、と、ひとりになった音楽室で取手は考えた。窓の外の曇天からは、憂鬱を集めて降らせたように雨粒が落ちてくる。

 白と黒の鍵盤に指を乗せ、あの子供がどうか冷たい雨に濡れぬよう、せめて憂鬱を引き受けるつもりで雨だれを奏でる。本人はもういないのに、伝えたいと思うのは滑稽だろうか。彼は、まだこの音が届く場所にいるだろうか。誰にも伝わらないのならば、この音は無意味なのだろうか。
 否、聴く者がいなくとも、そこに心があれば、それが音楽になる。取手はそう信じていた。












 転がるように落ちてくる音は心地好く、ノイズのような雨音さえそれを飾るように感じられて、葉佩は知らず耳を澄ました。あの優しい指は、離れたものにまで影響を及ぼす。
 やがて聞こえなくなった音を胸中で繰り返しつつ、葉佩は雨宿りの屋根の下にすべり込んだ。土のついた靴を窓辺で脱ぎ、窓の外の雨があたらない場所に引っかけて、濡れた上着から水が落ちないよう留意しながら、そっと床を踏む。いつもどおり歓迎してくれない部屋の主は、ベッドと一体化したまま動かない。

「ねえ、思ったんだけどさ」
「タオルならそこの抽斗の、二番目か三番目だ」
「取手って洗脳とか得意そうじゃね?」
「お前が洗脳されやすいだけだろ」
「俺は洗脳なんてされねーよ」
「濡れたままベッドに入ってくるな」
「なんか、頭ん中でずっと鳴ってんだよね」

 指し示された方向とは反対側の抽斗からタオルを取り出して、濡れた上着の雫をふいて、再びベッドに乗り上げる。すると皆守が寝そべったまま腕を伸ばし、床に落ちたタオルを指先で引き寄せた。落とした位置が気に入らなかったのか、あるいは今日に限って即座に洗濯の気分だったのか、いや、後者はないだろう。などと考えていたら、少しだけ湿ったタオルが髪を覆った。
 ちゃんと拭けと寝言のような声で言われて、耳の後ろを無造作にこすられて、遅ればせながら慌てて身を起こす。

「皆守お前、その、いきなり触るのやめろ」
「何が鳴ってるって?」
「ええと、なんとか、の、ぜんしょう、きょく?」
「ああ、あれか」
「そうそう、あれ!」
「まだ濡れてる」

 またしても脈絡なく手を伸ばされたが、今度は如才なくそれを躱した。寝惚けているように見える時は油断ならないのが皆守という男だ。しかしこの男には、寝惚けていないように見える時がない。つまり、常に油断してはならない。あらためて心に刻み込む。
 葉佩が油断せず上着を脱ぎ、体中の水気をふき取り、これでどうだとベッドへと向きなおると、皆守は目を閉じて枕と睦み合っていた。

「だからさぁ!」
「うるさい」
「なんで寝るんだよぉ!」
「なんだ、嫉妬か?」
「誰に!?」
「うん分かってる、あの黄色いやつな」
「なんの話!?」
「赤いのもある」
「ええと、パプリカ?」
「いきなり何言ってんだお前」
「金属バットどこ入れたっけ!」
「まったく、人の話を聞かない奴だな」
「あああバールのような物しか出てこない!」
「全身凶器人間」
「失礼な、食料も持ってるよ!」
「甘いもんばっかじゃねぇか」
「辛いのもあるよ」
「なんで唐辛子を単体でポケットに入れてるのか、という疑問は口に出さないでおこう」
「あ、ポテチあった」
「飲み物ないのか?」
「水ならあるよ」

 窓の外の雨だれが、まるで取手の演奏のように聞こえる。あの曲も、雨のようだった。

 予想していたとおり、皆守はやがて動かなくなった。死んだのではなく、眠ったのだ。葉佩が眠らせたのでもなく、しばらく黙っていて、ふと顔を上げたら眠っていたのだ。
 とはいえ、葉佩が確認できたのは、死んでいないという情報だけである。本当に眠っていたのかは、分からない。
 ともかく、葉佩は音を立てぬよう部屋を抜け出して、ぬかるんだ土を踏んで地下にもぐった。耳の奥では、まだあの音が鳴っている。覚えず、喉がその音を辿る。

 葉佩には、独り言の癖がある。自分にそのような癖があると認識したのは、隣で呆れつつ指摘してくれた人がいたからだ。何か言ったか。え、いや、なんも言ってない。独り言か。そのようなやり取りがなければ、今でも知らずにいただろう。
 声が零れる。暗闇に拡散する。反響が消えるより早く、次の音を発する。そんな遊びが、葉佩は好きだった。

 ずっと遠く、思い出せないくらい遠い記憶の音がある。それは葉佩の知らない音で、どのような意味を持っているのか、今でも知らない。ただ、正確ではないが、葉佩は憶えている。
 それが音楽だったのだと、葉佩は知らなかったのだ。喉を震わせて発するこの無意味な音が、歌だったのだと。

 音楽とは、聴く者があって初めて音楽になるのだと、葉佩は定義していた。だから、ひとり暗闇で発するこの音に、名があるなどとは夢にも思っていなかった。

「ひどい歌だな」

 気配もさせず背後に立った彼がそう言って笑うまで、葉佩は本当に知らなかったのだ。自分以外に存在しない暗闇で、唇から零れ落ちたこの声は、まさしく歌でしかなかったのだと。
 自分はずっと歌っていたのだと、葉佩はこの夜に初めて知った。