夜明け前に探索を引き揚げて、午前4時頃にはベッドに入れた。四時間ほど熟睡し、覚醒と共に身を起こす。微睡みという至福の時間を、葉佩は体験した事が無い。眠りとは落ちるものであり、目覚めとは即ち行動開始だった。常に微睡みと夢とを行ったり来たりしている級友を思い浮かべ、少しだけ羨ましく思う。彼にも彼なりの苦悩や痛みがあるのだろうが、微睡みに酔いしれる様は実に幸福そうだ。
そんな事を考えながら、友人の部屋のドアをノックした。予想どおり返事は無い。ポケットから工具を取り出し、鍵穴に差し入れる。犯罪だという知識はあるが、それ以上の感情は出てこなかった。やがて伝わった開錠の感触が、心地好く手に響く。「お邪魔しまーす」などと言いながら、勢いよくドアを開ける。その瞬間、ゴツっという鈍い音が鳴った。見下ろせば、脳内で噂の級友が床に転がって頭を押さえていた。
「あ、わりぃ」
「・・・」
「なんでそんなとこで寝てんの」
「・・・」
無言のまま葉佩を睨み上げた皆守が、側頭部を撫でながら上体を起こす。緩慢な動作に、彼がまだ完全には覚醒していない事を察する。皆守は気だるげな表情で室内を見回し、自分の足を見下ろした。足首を擦り、もう一度室内を見た。暫くそのまま虚空の一点を見詰めていたが、やがてのろのろと立ち上がってベッドに向かう。
「皆守ー」
「おはようおやすみ」
「おはよう」
「あー背中いてぇ」
「あんなとこで寝てるからだよ」
感触を確かめるように布団を撫でてから、皆守がベッドに突っ伏した。仕方ないので、葉佩も同じベッドに入ろうと歩み寄る。布団を捲り上げ、ほぼ同時に鋭く放たれた踵を受け止め、遠慮なくベッドに乗り上げた。
皆守がベッドを愛している事は、もう知っている。彼等は毎日毎晩、飽きもせずに睦み合っているのだろう。そこに、葉佩が入り込む余地は無い。仲良き事は美しき哉。などと呟いてみても、皆守には通じない。愛しの枕に頬をすり寄せて目を閉じた皆守に、今の時刻を告げてみた。分かっていたが、返事は無い。代わりに、愚痴のような声が聞こえた。
「腰いてぇ」
「だからさぁ、なんであんなとこで寝てたの」
「俺にも色々あるんだ」
「喧嘩でもした?」
「は?誰と?」
「毛布と」
「ああ、まあ、そんなところだ」
そうか、あれほど仲が良いように見えて、やはり喧嘩もするのか。喧嘩するほど仲が良い、というやつだろうか。毛布に抱き締められて満足そうな吐息を漏らす皆守には、もう言葉を認識する意思は無いらしい。今日は無理だな。そう結論付けて、葉佩は部屋を後にした。
その日は一日中、皆守の姿を見る事は無かった。よくある事なので、気にかける者はいない。放課後、部屋のドアをノックしてみた。やはり返事は無かったが、葉佩は「まあいいか」と呟いて、いつものように闇へと降りていった。
地上に引き揚げ、時計を確認する。午前1時34分56秒。もう一仕事できる時間だ。自室に戻って装備を整えようと、静まりかえった廊下を歩く。その途中、不意に皆守の事を思い出した。以前はごく稀にしか見えなかった奇妙な癖を、最近では頻繁に目にするようになったような気がする。どうしてベッドで寝ないのだろう。常々不思議でならなかった。思い出してしまったのだから仕方ない。葉佩は、自室へと向いていた進路を変更した。
ノックをしてもやはり声は返らなかったので、いつものように工具を取り出す。立ち入った部屋では、皆守がベッドで眠っていた。葉佩の気配に気付いて薄目を開けたが、すぐに目を閉じる。それを許容と判断し、葉佩は遠慮なくベッドに乗り上げた。
少しの間、微動だにしない頭部を眺めていたが、やがてそれにも飽きてベッドから腰を上げた。すると、何かに足を絡め取られた。見下ろせば、皆守の足が膝に絡まっている。服越しの素肌は冷え切っていた。
「さみーの?」
「寒い」
即答された。やはり、眠ってはいないのだろう。眠れないのかも知れない。昨日は一日寝倒していたのだから、それも無理からぬ事だろう。手の平で、爪先の丸まった素足に触れてみた。氷のようだ。両手で包み込んでやると、反対の足が「こっちも」と主張するように押し当てられた。体は素直だなこの野郎。思ったが、口には出さずに手を当てる。
「前にもあったよね」
「・・・」
「床で寝てただろ」
「・・・」
「しかも頭がこっち向いてたって事はさぁ」
「・・・」
「ベッドからドアに向かったって事だよね」
「・・・」
物言わぬ氷にような物体に向かって、独り言を続ける。それは返る答えを期待した言葉ではなく、自分の思考を整理する為の行為だ。漠然とした現象を言葉にして順序良く並べる事は、理解を助ける。長く一人でいる事に慣れた葉佩は、言葉の存在意義をそのように定義していた。だから聞くものが存在せずとも、葉佩はよくこうして言葉を発した。それを狂気の証だと言う者もいるのだが、そんな訳で、葉佩はそうは思っていない。自分が狂人である根拠は、そんな事ではない。
「でもドアは開けてないんだよな」
「・・・開けたら居るかもって思ったんだ」
「何が?」
「・・・知らん」
ヒントが与えられたが、解答はまだ遠い。寝具を愛する友人の、時々現れる奇妙な癖。葉佩はその時、目の前で揺れる謎に夢中だった。だからその変化に気付くのが遅れた。
皆守が、息を飲んで布団を跳ね除けた。同時にベッドから転がり落ちる。訝しんで視線を落とせば、先程まで皆守が寝ていた辺りが赤く染まっていた。気付かなかったが、怪我でもしていたのだろうか。そう思い、皆守を見る。見える箇所に、出血を伴うような傷は無かった。
「・・・葉佩っ」
「ん?」
「早く、こっちに」
「?」
皆守が、何事か言いかけて止めた。その視線を辿れば、血の染みた寝具。その赤が、じわりと面積を広げた。まるで、寝具そのものが出血しているように見える。シーツを剥いでみた。皆守が「ひっ」と変な声を出したが、気にせず検分を続ける。シーツの下のマットにも、赤い液体が染みていた。それが、見る間にじわじわと広がってゆく。皆守は、まだ床に座り込んだまま葉佩を呆然と凝視している。
「何これ」
「葉佩、早くどけ」
「喧嘩って、これ?」
「いいから!早くこっちに来い!」
涙まで浮かべて叫ぶ皆守が、どうにも腑に落ちない。確かに薄気味悪いが、恐慌状態に陥るほどの現象には見えなかった。慎重に、赤に触れる。どろりとした感触は、よく知っているものだった。皆守が更に声を高くする。
「葉佩!」
「どーした?」
「どーしたって、お前、だって、それ」
「うん、血だね。血液鑑定してみる?」
皆守が耳を塞いだ。何か聞こえているのだろうか。ベッドから降りて皆守に歩み寄る。そうしてから気付いた。皆守の足首に、黒い糸が巻き付いている。無数の蠢く髪が、皆守の足を絡め取って拘束していた。体を丸めて耳を塞いでいる皆守に、そっと触れてみる。ビクリと肩が震えた。
「皆守?」
「うるさい」
「落ち着けよ」
「黙れ!やめろ!お前なんか知らない!」
癇癪を起こしたように喚く皆守に、この状況が尋常でない事を漸く悟る。白い足首に絡みついた黒い糸に、ナイフを当ててみた。切れない。皆守が、固く目を閉じたまま葉佩の腕を掴んだ。小さな声で何事か囁いているようだが、聞き取れない。もう一度、名前を呼ぶ。震える手が、恐ろしいほどの力で縋り付いてきた。
「寮で変なもん飼うなよな」
「知らない。俺じゃない」
「餌やったら懐かれちゃったんじゃねぇの?」
「知らない!俺の所為じゃない!」
半狂乱で叫ぶ皆守を、途方に暮れて見下ろした。その足に、ぞろりと黒が這い回る。徐々に上がってきているらしい。成る程これは怖い。引っ張ってみても、離れる気配は無かった。
ああ、夢なのだな、と、漠然と思った。彼の悪夢が、現実にまで染み出してきてしまったのだろう。夜毎こんな目に遭っていれば、ベッドで眠れなくなるのも仕方ない。真っ暗な部屋で、ひとり悪夢に弄ばれて、疲弊しきって迎える朝を、どんな気持ちで見ていたのだろう。
震えながら縋る手を、強く掴んだ。
「だいじょぶだよ」
「うるさい」
「これは夢だから」
「違う。現実だ」
「ん、まあ、そうなのかも」
「葉佩」
「んー?」
「居るか?」
「居るよ」
長い黒髪に引かれて、皆守の体がガクリと落ちた。耳の近くで裏返った悲鳴が聞こえる。必死で縋り付く体を、離すまいと力をこめた。両手を使っているので、銃は抜けない。まあいい、どうせ銃など効かないだろう。蠢く黒髪を、静かに見据える。気付けば、辺りは赤い粘液に満たされていた。座っている床も、どろどろと赤でぬめっている。土か、或いはそれ以外の何かが混じっているのか、所々に塊も見える。
「いつもこんな感じ?」
「最近は大体いつもこんなだ」
「そりゃ大変だね」
狂気などという言葉ではまだ足りないほどの赤に、どれだけの夜を捧げてきたのか。
掴まれた肩が痛い。触れる息が熱い。皆守の皮膚は、既に黒い糸で覆われている。それでも、葉佩は手を離さなかった。首筋を這う髪の感触に、皆守が嫌悪の表情を浮かべる。きつく爪を立てられた。耐える為だと理解はしたが、為す術は無い。友人が目の前で気も狂わんばかりに恐怖しているのに、葉佩にはどうする事も出来ない。
葉佩が来なかったら、彼はどうしていたのだろう。その答えは、もう分かっている。抗う術も失い、泣き疲れて、じっとうずくまって朝が来るのを待つのだろう。縋るものもなく、震えながら、ドアを開く事も出来ず、赤と黒に包まれて、身に憶えの無い罰に耐え続けるのだろう。今までずっと、そうしてきたのだろう。
安らぎを生み出す筈のベッドが、まず汚されていた。微睡みは恐怖の入り口だったのだ。それでもきっと時々は、優しい黄昏の眠りがあったのだろう。目覚めは生命という苦痛の始まりで、夢は赤と黒に侵されて、ほんの一瞬だけ現れる優しい幻だけが、彼の唯一の安らぎだったのだ。苦痛と恐怖の隙間に存在する、暖かくて柔らかな微睡みだけが、彼の心を慰めていたのかも知れない。或いはそれは、死によく似ているのではないか。
葉佩は、彼を苛む現実の一部でしかない。
カーテンの隙間から見える空が、徐々に黒から藍へと変わっていた。皆守は、まだ耳を塞いで何事か囁いている。どろりとした赤い沼が、いつの間にか硬い床になっていた。皆守を拘束していた黒い糸が、ぱさりとその床に落ちる。悪夢が終わったら、次に待つのは生きねばならぬ現実だ。
まだ涙で濡れている頬には触れぬよう、皆守を引っ張り上げてベッドに運ぶ。脱力した体は重たいが、抵抗は無かった。投げ捨てるような動作でベッドに放り出し、やはりいつのまにか乾いていた布団を被せる。漸く辿り着いた安息の微睡みに、皆守が息を吐いた。死のような眠りにだけ、彼は安堵する。
「お疲れ」
「・・・おう」
「もう寝てもいんじゃね?」
「言われなくても寝る」
「ちゃんと起きろよ」
応えが返らなかったので、僅かに覗いた髪を軽く引っ張った。それでも反応が無いので、汗に濡れた髪を乱暴に掻き混ぜる。鬱陶しげに払い除けられるかと思ったが、皆守は目を閉じたまま動かない。掻き混ぜるのはやめて、毛づくろいするように撫でてやった。皆守が気だるげな動作でその手を払い、毛布を頭まで引き上げる。
皆守が愛してやまない寝具達は、皆守を愛してはいない。
葉佩の脳が、急激に睡眠を欲し始めた。あのような状況下で、やはり緊張を強いられていたのだろう。欲求に逆らわず、目の前の柔らかいベッドに体を委ねる。ほぼ同時に鋭く放たれた踵が、葉佩の顎に激突した。視界の端で火花が散ったが、構わず布団に潜り込む。
盗み見た寝顔は、実に幸福そうに見える。しかし葉佩はもう、それを羨ましいとは思わなかった。
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