いつの間にやら夏も終わって、気付いたら秋になっていた。さりとて何か劇的な変化が訪れる訳でもなく、あるいは重大な喪失を経験した訳でもなく、ただ蓬莱寺は高くなった空に手を伸ばすという愚行をしきりに繰り返しては溜息をついていた。
 あの男は空のようだと、最初に思ったのはいつだったか。

 風は、目を閉じて心静かに感じようと努力すれば確かに含む色に涼を探し当てる事も不可能ではないが、日差しの鋭さは夏よりも増したのではないか。射るような日を避けようかとも考えたが、真昼の屋上に陰は見当たらない。
 仕方なく、柵にもたれて校庭を見下ろす。誰もいない乾いた地面をしばし眺めて、それにも飽きて目を閉じた。

 とっくに飲み尽くしたジュースの箱を口に持っていって、ストローを銜えて吸ってみた。やはり空っぽだ。ひゅうと寂しい音を立てたのは、ストローだろうか、それとも心だろうか。ゴミと成り果てたジュースの箱を潰して、真上に放り投げる。右手には、既に得物がある。その切先に氣を集め、放つのは、もはや慣れ親しんだ日常の一部だ。
 かつてジュースの箱で、次にゴミと成り果てた物体が、空中で霧散した。ぱちんとはじけるように砕けたのが、なんともなしに痛快だった。一瞬だけだが。

「八つ当たりか」
「!?」
「らしくないな」
「あ、え、お前、いつから」
「今」
「あ、ああ、そっか」

 足音も、ドアを開ける音も聞こえなかった。それでいて、ひとたびその存在に気付けば無視する事も難しいほどに強く空間を占める男だった。無音である事と気配が強烈である事は矛盾しないのだと、蓬莱寺は最近になって漠然と理解した。

「らしくねぇ、か?」
「そうだな」
「そうでもねぇよ、俺はこーゆー奴なんだよ」
「そうか」

 軽く受け流すような返事に、訳も分からず苛立つ。本当は臆病なのだと、逃げ出したいのだと、何もかも面倒臭いのだと、告白しても彼はきっと同じように頷くだろう。
 空を見上げようとして、あまりのまぶしさに思わず視線を下げ、それが気落ちしているように見えては面白くないと考え、ビルの向こうに目をやった。そんな複雑な過程を察する訳もなく、緋勇がすいと空を指差す。真直ぐに、迷いなどないように。

「京一」
「なんだよ」
「トンボだ」
「あ、うん」
「あれは、いいな」
「?」
「綺麗だ」
「ふうん」
「真直ぐに飛ぶ」
「旋回してるぜ」
「そうだな」

 空を指差して、緋勇が呟く。しかしなんだか散漫としていて、意味がよく分からない。分からないが、なんとなく共感したような気分になって、蓬莱寺は目を細めつつ緋勇の指差す空を見上げた。
 折りよく、すっと赤い肌のトンボが空を横切る。赤と青が美しく調和しているのが不思議と心を柔らかくしてくれて、やっと緋勇の顔を見て声を発する事ができた。

「トンボ、好きなのか」
「いや別に」
「そうかよ」
「よく分からん」
「何が」
「好きなのかどうかが」
「それってどうなの」
「ただ、飛んでると見てしまう」
「つい目で追っちゃうのは好きだから、だろ」
「そうなのか」

 しまった、と心のどこかで声がしたのは何故だろう。なんだかとてつもない事を告白してしまったかのような、この敗北感はなんだろう。右手の得物がわずかに湿っている。違う、湿っているのは得物を握る手の平だ。口にしたからといって告白と表現すべきような秘匿事実など存在しなかったはずなのに、なんだか、これは、まずい、気がする。気のせいだろうか。
 教室にいたらどうしても目で追ってしまうから逃げてきたなどと、今も手を伸ばして触れたいのを我慢しているなどと、気付かれたらどうしよう。

 空から視線を動かせなくなった蓬莱寺の横で、緋勇も同じように空を見上げて小さく告げた。

「京一は、あれに似てるな」
「どれに」
「トンボ」
「ど、どこらへんが?」

 ぎこちなく視線を移動させて、まだ空を見ている緋勇に焦点を合わせる。赤いところが、とささやいた唇から、目が離せなくなった。色だけかよ、と不満そうに言うと、緋勇がやっとこちらを見た。つまり、目が合った。

「真直ぐなところが」

 くるりと羽が風を打ち、赤いトンボが空に吸い込まれた。