咲くと表現されるその色が、厳密にいうと花ではない事を、夷澤は知っていた。根を張る土の成分が、その色を決定するらしい。酸性とアルカリ性。得意ではない分野の言葉を思い浮かべたが、それ以上の記憶は現れなかった。何一つ残す事無く去って行った言葉達を惜しむ間もなく、夷澤はいつものように地面を踏んだ。
 感じるのは、自分の息遣い、地を踏む音、熱くなってゆく体、雨と汗を吸収して重くなった衣服。雨音は聞こえない。ただ、空間を満たす水が極めて微細な隙間から侵入し、皮膚を濡らす。空気中の水分は既に飽和状態で、服に染み込んだ水が気化するのを拒絶している。不快だとは思わなかった。濡れているというのなら、既に下着まで水を含んでいる。いっそ夢想の中の性交のような快感すら覚えた。

 灰色に滲んでいた視界に、同じように滲んだ人影が見えた。群青色の傘の下から、艶やかな黒髪が見える。左手に傘を持ち、右手には長大な弓を持っていた。その人物の名を、声には出さずに呟く。
 夷澤が、敢えてそれに気付かぬ振りで速度を上げる。目深に被ったパーカーのフードが、視線を隠している。後ほど無礼を指摘されても、気付きませんでした、とでも言えばいい。無意識に思い描いた未来の映像が、夷澤の精神を小さく刺した。指摘される前に言い訳を考えるなどと、自分はいつからそんな卑屈な人間になったのだろう。
 水溜りを踏み散らした足を止めたのは、涼やかな声だった。思わず舌を打ちそうになって、夷澤は唇を引き締めた。礼儀に煩い彼の事だ。先輩に会ったら挨拶をしろとか何とか、そんなつまらない因縁をつけてくるに違いない。

「精が出ますね」
「まだ出ません」
「おや、それは頼もしい」
「真っ昼間っから、なに言ってんすか?」

神鳳が、少しだけ頬を引き攣らせて傘を揺らした。夷澤の勘違いに気付いたらしい。当の夷澤はまだ気付いていない。神鳳の含み笑いに、不愉快そうに眉を寄せた。立ち止まった直後は速かった呼吸が、ほんの数秒で常と変わらぬリズムに戻っている。神鳳の心の隅で、嫉妬にも似た熱が発生した。夷澤は、目指す自分を、自分の手で作り上げる。それが可能だと信じている。
 神鳳は先程の言葉を、彼にも理解できる言葉に言い直した。

「頑張ってますね」
「頑張ってますよ」
「邪魔をしてしまいましたか」
「・・・いえ、別に」
「気をつけて、いってらっしゃい」
「・・・はあ、どーも」

首肯とも会釈ともとれる仕草で曖昧に頷き、夷澤は再び大地を蹴る作業に戻っていった。その足が向かう先を見詰め、神鳳が思わず口の端を上げる。夷澤にとってほんの数ヶ月前まではただの墓地だったその場所は、今ではそれ以上の意味を持って精神に多大なる影響を与えている。
 去年の今頃も、夷澤は同じように走っていた。地を踏み、汗を流し、苦痛を麻痺させるほどの疲労を感じながら、確かにそれを快感と捉えていた。見上げた高みに近付いているという確信をもたらすその苦痛が、いつからこんなにも空虚になったのか。惰性で走っているような、動力炉が既に燃え尽きてしまったような、そんな気がする。残っているのは、自暴自棄な劣情によく似た破壊衝動。これがかつて望んだ自分か、と自問する。答えはまだ出ない。
 墓地の敷地内に入り、少しだけ速度を落とす。早くこの場を離れたいという欲求と、いつまでも此処にいたいという欲求が同時に湧き上がった。その両方を振り切る為に、奥歯を強く食い縛る。顔を上げ、打ち付けてくる水滴を睨む。こんなものには支配されない。負けて堪るか。誰にともなく、心で呟いた。
 前だけを見ていた夷澤の足に、何かが引っ掛かった。思わずバランスを崩し、寸でのところで踏み止まる。悪態をつきながら見下ろせば、見憶えの無い男が一人、墓石に凭れて座り込んでいた。寝起きのように鈍い動作で顔を上げ、夷澤を見る。数秒だけ絡んだ視線は、しかしすぐに伏せられた。上級生と思しきその男は、天から落ちた水と、地に溜まった水で全身を濡らしている。夷澤がまず考えたのは、違法な薬物で酩酊状態になっている可能性だった。同じような格好で道に横たわるジャンキーを、東京に出てきてから何度か見た事がある。次に思ったのは、彼に何らかの不都合が生じて、止むを得ずそこにいる可能性。要するに、体調が悪いとか、気分が優れないとか、そういった状況だ。この学園では、後者の可能性が高いように思われた。明日の朝には冷たくなっていた、なんて事になったら、いくら夷澤でも目覚めは悪いだろう。仕方なく、男に言葉を落としてみた。

「あの、だいじょぶっすか?」

返事は無かったが、視線が再び上がった。胡乱な表情で夷澤を見上げ、子供のように首を傾げる。やべぇ、本物かも。前者の可能性が、夷澤の脳裡で急上昇した。しかし声を掛けてしまった以上、このまま立ち去るのも躊躇われる。もう一度、僅かな警戒を含んで言葉を落とす。

「気分でも悪いんすか?」
「・・・いや、花を見てただけだ。気にするな」
「そーっすか」

返ったのは、夷澤が考え得る限りで最良の言葉だった。関わるなと言われたのだから、もう立ち去ってもいいだろう。見るべき花など見当たらないという事実は、敢えて気付かなかった事にする。踵を返し、早々にその場を離れた。墓地を出る寸前に一度だけ振り返ったが、やはり男は座り込んだまま俯いていた。全てがくすんだ灰色の景色の中で、其処だけが純粋な色を有しているように見えた。

 混じり気の無い黒。

 夷澤の背筋に震えが走った。それは、見てはいけないものだったのかも知れない。よぎった思いから逃げるように、音を立てて速度を上げた。












 部屋に戻り、着替えを持って風呂に向かう。湯を浴び、軽く関節を伸ばしてから食事を取り、満たされてベッドに身を預けた。雨はまだ降り続いている。眠気を誘うその音に耳を澄まし、目を閉じた。その瞬間、一つの映像が目蓋の裏を走った。
 灰色の墓地に、染みように存在する黒。
 今はもう全てが不純な黒に塗り潰されているだろうその場所に、あの男がまだ座り込んでいたら。脳内で作られた映像に冷笑を被せる。まさか、そんな莫迦な事がある筈も無い。きっとあの後、自分の足で立ち上がって其処を離れたに決まっている。少々危うい雰囲気だったが、言葉は返った。何故にあのような場所で一人泣き濡れていたのかは判然としないが、きっと何か悲しい事でもあったのだろう。いずれにせよ、夷澤が気にしてどうなるものでもない。結論付け、再び目を閉じた。

 雨音が耳につく。体は疲労を訴えているのに、精神は鬱陶しいほどに研ぎ澄まされていた。黒い男の幻が、沈めても沈めても浮かび上がってくる。あんな場所で何をしていたのだろう。体は間違いなく冷え切っていた。ちゃんと暖まっているだろうか。悲しみは薄れただろうか。この雨音に記憶が呼び起こされて、また泣いているかも知れない。
 夷澤は身を起こした。枕もとの眼鏡を手探りで掴み、ベッドから足を下ろす。窓の外に目をやると、不思議と室内よりも明るかった。雪明りならぬ雨明かりとでもいおうか。幼い頃は、街灯が映った水溜りを蹴散らし、白い花火のように光が砕けるのを見るのが好きだった。不意に夷澤は、今一度あの光が見たくなった。家路を、急ぐ事もなく飛び跳ねながら進んだ、遠い日を思い出す。そういえば自分は雨が好きだったのだと、やっと夷澤は思い出した。
 音も立てずに部屋を抜け出し、傘を持って暗闇に足を踏み入れた。思考は既に放棄している。あれだ。眠れないから、散歩とか、そういう、なんか、あの、まあ、そんな感じ。脳の隅で疑問を発する声を黙らせ、無心に道を進む。向かう場所など考えるまでもなく、足はやがて墓地の土を踏んだ。
 憐れな《転校生》は、晩春の日に行方を晦ました。今は暗い地の底で、仮初の永遠に包まれているのだろう。その眠りを守るのが、夷澤に与えられた使命だった。念願かなって《生徒会》に入り、副会長補佐の座を得たのだが、夷澤はその補佐すべき相手が誰なのかすら知らされていなかった。それも気に食わない。というより、それはもう補佐ではない。名ばかりの、ただ頭数を揃える為だけの人員なのだろうか。畜生、舐めやがって。それでも夷澤は、見上げる事をやめなかった。いつかは、きっと。一心に信じた。
 黒い水溜りを蹴散らしても、光源の存在しないこの場所では火花も散らない。靴下が濡れるのが嫌で、素足にサンダルという軽装で出て来てしまった事を、少しだけ後悔した。汚れた裾はもう諦めているが、予想以上に水は冷たい。梅雨寒などというが、ここまで凍えるとは思っていなかった。感覚の薄れた爪先を見詰め、何やってんだ俺、と口中で呟く。部屋に戻ろうと振り向いたその視界に、影よりも尚暗い黒が入った。

「なっ・・・何してんだあんた」

黒い男が、最後に見たのと同じ状態で、墓石に凭れて座っていた。思わず零れた声に顔を上げ、微かに笑ったような気配が伝わる。この状態で笑うとは、本当に狂人の類か。或いは、闇に棲む異形の眷属か。夷澤が全身を震わせた。目を見開き、誤魔化しようもなく恐怖が背筋を上がるのを認める。雨の日なら大丈夫だろうと言って、その男は近付いてしまったのじゃよ…。祖父が頼みもしないのに語ってくれた怪談が脳裡をよぎった。爺ちゃん、今はちょっと黙ってて。恐慌状態に陥った夷澤に、黒い男が視線を向ける。暗闇に慣れた目が、辛うじてその容貌を捉えた。黒が、ゆっくりと目を細める。その視線に呑まれまいと、意識して硬い声を出す。

「おい、何してんだって訊いてんだよ」
「花見」
「はなみ?」
「お前こそ、こんな所で何してる」
「俺は、あの、あれっすよ。えっと、何だっけ」
「夜の散歩か?」
「あ、それっす」
「・・・お前、夷澤か」

唐突に名を呼ばれ、夷澤が目を見開いた。妖かしに名を呼ばれる憶えは無い。薬物依存症の人間に呼ばれる憶えは、無いとは言い切れないが。夷澤が遠くない過去の軽犯罪行為を脳内で並べていると、黒がもう一度笑った。健やかな笑みではない。どこかが破綻しているような、空洞を含んだ笑みだった。いっそこの場所には相応しいような気もする。

「ああ、阿門か?」
「は?あもんか?あもん?阿門さんすか?」
「違うのか?」
「何が?」
「阿門に言われて来たんじゃないのか」
「阿門さんが、何で?」

さっぱり話の通じない夷澤との会話を投げ出し、黒い男が立ち上がった。額に貼り付いた髪をかき上げ、空に向かって手を伸ばす。顔を上向けたまま大口を開けて欠伸をし、その直後に軽くむせた。雨が口に入ったのだろう。落ちてくる水に向かって口を開けるなんて、莫迦じゃないのかこの男。無音で呟く声など気にも留めず、黒い男が立ち上がって歩き出した。確かな足取りで、立ち竦む夷澤に音を立てて近付く。夷澤はその姿から視線を外す事も、真正面から見詰める事も出来なかった。
 黒が近付く。音を立てて、ゆっくりと。その目はもう、夷澤を見てはいない。暗闇に何かを見出すように、夷澤の背後を見詰めていた。手にしていた筈の傘が、足元に開いたまま転がっている。雨を受け、水を湛えている。黒い男の白い手が、視界の端でゆらりと揺れた。
 触れたのは、冷え切った人間の手だった。夷澤の濡れた髪を軽く叩き、同時に声が落ちた。

「早く戻れ。風邪引くぞ」

常識的な、人を気遣う人の声だった。呆気に取られた夷澤を振り向きもせずに、黒は闇に混じって入った。擦れ違い様に、妙に甘い香りが鼻腔に触れた。

 開けっぱなしだった口を閉じ、男が消えた闇を見詰める。足元の傘に気付き、貸してやれば良かった、と、呆然としたまま思った。冷たい手は、それでも悲しくなるほど優しかった。あんな風になるまで、あの男はこんな場所で何をしていたのだろう。追いかければ間に合うだろうか。これ以上濡れないように、冷たい雨を代わりに受ける傘を渡してやりたい。もうどうしようもないほどずぶ濡れだったのに、何をくだらない事を。
 逆さまに落ちていた傘を拾い上げ、夷澤はそれを閉じた。雨はまだやまない。髪に、肩に、音も無く冷水が降り注ぐ。本日最大の脱力感と共に、今度こそ部屋に戻ろうと踵を返す。そうしてから、男が見ていた物を理解した。
 紫陽花が、闇に溶ける事無く、しかし闇を汚す事無く、静かに雨に打たれていた。
 ああ、此処は常闇ではなかった。何故か安堵する。濡れたまま闇に消えた男を思い、彼の視線の先にあったものが、闇ではなかった事に安堵した。

 温める事は出来ないのなら、せめて、同じ雨に濡れて行こう。
 そして次に会ったら、あれは花ではないと教えてやろう。