窓は施錠されていたが、葉佩にとってそれはあまり重要な事ではなかった。小さな工具を取り出して、慣れた手つきでそれを差し込む。ほどなく窓が開き、葉佩は予定どおり部屋に侵入した。 室内に光源はなく、窓は厚いカーテンに覆われていて、月明かりも街明かりもこの部屋には届かない。しかしそれも葉佩にとって重要な事ではない。暗視ゴーグルのスイッチを入れて、辺りを見まわす。ベッドと机と本棚が見えた。まずは本棚を物色しようと決めて、音を立てずに歩み寄る。 直後、室内に明かりが灯された。集光に優れたゴーグルがその役割を放棄する理由もなく、葉佩の網膜に暴力的なまでに強い光が突き刺さる。瞼を閉じるのがあと一瞬でも遅かったら失明していたに違いない。ゴーグルを脱ぎ捨てて声もなく悶絶する葉佩の耳に、低い声がそっと触れた。まるで優しさのように、その声は穏やかだった。 「やっぱり来たか」 「さ、サンタさんだよー」 「闇からの使者みたいな服装で何を言う」 「相変わらずの語彙だね!」 「地底に帰れ」 「母なる大地ってやつか、それも悪くねぇな」 「喜んでもらえて何よりだ」 まだちかちかする目を押さえるのはやめて、葉佩は顔を上げた。あやうく失明するところだったと苦言を呈しても、彼はきっと微笑んだまま後悔などしないだろう。分かっていたので、葉佩は何も言わずに彼の顔を見た。思い描いていたとおり、彼は薄く微笑んで葉佩を見下ろしていた。 もしかしたら、葉佩が失明する事を望んですらいたのかも知れない。そんな風に思えるほど、その表情は穏やかに凪いでいた。 「で?」 「ええと、プレゼントが、あったり、するんだけど」 「ほお」 「あの、あ、でもちょっと待って」 「分かった待ってやる」 「あと15分ぐらい」 「長いな」 「あ、じゃあ10分でいいよ!」 「眠くなってきた」 「あと5分!」 「3分だけ待ってやる」 「さすが皆守、心が広いね!」 「まあな」 という訳で、葉佩は急いで鞄を開けて中の物を取り出した。持ち歩けるように細かく分解していたので、3分という制限時間はあまりにも短い。しかし、この程度ならば想定内だ。むしろ破格の譲歩だ。葉佩の綿密なシミュレーションでは、3秒という返答も考慮していたのだ。まあ、もしそうなったら、泣きながら帰るしかなかったのだが(葉佩には帰る場所なんてないのに!)。 何はさておき、彼は待っていてくれる。それがこんなにも嬉しいのは、少しばかり予想外だった。組み立て作業の途中で、鼻の奥が熱くなったのは、たぶんばれていないだろう。 「あのね、皆守」 「ん、ああ」 「寝ないで!」 「寝てない」 「彗星ってね、太陽系の外側から来るんだよ」 「へえ」 「オールトの雲ってとこから、太陽に引っ張られて」 「ふうん」 「ほとんど氷だから、太陽に近づくと溶けちゃうんだけど」 「うん」 「でもね、中には溶けないやつもあって」 「ふあ、ああ、うん」 「寝るなよ」 「寝てない」 「でね、100年とか、もっと長くて何百年とかの周期のやつもあるんだけど」 「でもいつかは戻ってくる、とか含みを持たせて言ったら寝る」 「でもちゃんと戻ってちくしょおおおぉ!」 「3分、過ぎたぞ」 「待って、今ちょっと泣くの我慢してるから」 「早くしろよ」 カチリと音がした。甘い香りが冬の空気と混じって、どうにか堪えたはずの涙をあふれさせる。葉佩は本当に泣いていた。悲しいのか嬉しいのか悔しいのか自分でもよく分からないが、涙が零れていないだけで、葉佩は泣いていた。 窓辺で、望遠鏡が組み立てられた。カーテンを開けて、窓まで開けても、皆守は何も言わない。ただ無言でポケットに手を入れて、わずかに肩をすくませている。 本当ならもう消えているはずの彗星に、葉佩はピントを合わせた。もしかしたら見えないかも知れないと思ったが、丸いレンズの向こうに、尾を引く小さな光が見えた。 意味もなく、あるいは意味があったとしても誰にも知られず、ひたすらに、ただまっすぐに進んでいた氷の塊が、遥か遠くの引力に捕らわれて、落ちてゆく。星の熱に溶けて砕けて、やがて消えてなくなるちっぽけな氷の塊が、どうしてこんなにも惜しいのだろう。こんなにも、彼に見て欲しいと思うのだろう。 覗いてみて、と葉佩が指し示した望遠鏡に、皆守はやはり何も言わずに顔を寄せた。 「この彗星は、溶けなかったとしても、もう太陽の近くには戻ってこないんだって」 「お前も?」 葉佩が示したレンズ越しの彗星を見ながら、顔も上げずに即座に問う。思わず声が詰まった。 実のところ、葉佩はここに来るまでに何度もこの時を想像した。短くはない時間が流れて、彼はそれでも変わらずにいるだろうかと、恐怖のように考えていた。もしかしたら、もう忘れているかも知れない。葉佩にとっては一生に一度の記憶も、彼にとっては些細な通過点だったとしたら。そんな事を、何度も考えた。 それでも葉佩がここへ来たのは、どこかで確信していたからだ。あるいは、希望的観測でしかなかったにしても、期待していたのだ。まだ終わっていないのだと、これから始まるものがあるのだと。 はばき、と名を呼ばれて、唇を噛んでいたので声は出せなかったから視線で応えた。 「お前は星か?」 不安も恐怖も否定する意思を有して、葉佩が太陽にたとえようとして失敗した男は不敵に微笑んだ。 |