ただの気紛れ。問われるまでもなく無言でそう主張するように、ふらりと前触れもなくその男は犬神の前に姿を見せた。
 日も暮れて屋上で一服していた犬神は、男の来訪ではなく風が運ぶ塵芥に眉をしかめた。今では時代錯誤の着流しの袖が、同じ風に煽られてやけに物悲しく音を立てる。彼はゆるりと袖を上げて、人差し指と中指を立てて口元に当てた。男が何を欲しているのか察したが、犬神は無言のまま目を逸らした。

 眼下に広がる街並みは、あの頃とは大きく変わっていた。自分だけが取り残されたような感傷を、煙と共に吐き出して空に溶かす。自分を見ようともしない犬神に、今度は男が声で告げた。

「煙草」
「煙草がどうした」
「一本くれよ」
「そうしたら、俺にはどんな得があるんだ?」
「俺に感謝される」

唇の端を持ち上げて、つまらない冗談をそうと知っていて口にするように、男は不器用に笑って見せる。その仕草がなんらかの情動をもたらした訳でもないが、犬神は目を合わさぬまま胸ポケットの煙草を投げてやった。男は礼も言わずにそれを受け取り、一本を抜き出して銜えて、「火」と短く言い捨てた。拒絶する理由を探しながら、ライターも投げてやる。やはり礼は返らない。

「何しに来た」
「別に」
「用もないのに来るな」
「龍斗って憶えてっか?」

忘れた、と嘘をつこうと一瞬だけ考えたが、無駄だと思いなおして頷く。あの鮮烈な印象を、気の遠くなるような永い時を経たとて、どうして忘れられよう。それは犬神にとっての真実だったのだが、男は顔をしかめて「嘘つけ」と小さく呟いた。攻撃的な否定の言葉に、思わず眼光を鋭くする。

「嘘かどうかなど、お前に判断できるとも思わんがな」
「じゃあ、あいつはどんな顔してた?」
「顔なんぞ端からまともに見てない」
「声は?」
「普通の声だ」

 残っているのは、容姿でも声でもない。ただあの瞳が自分を映したという事実だけが、古傷にも似た鈍い痛みをこの胸に与え続けている。それは確かに痛みなのだが、不快ではないのがずっと腑に落ちなかった。自傷の趣味などなかった筈だが。
 煙草が短くなるにつれて、男が少しずつ落ち着きをなくしてゆくのが分かった。

「なんでもいい、あいつの事、なんでもいいんだ」
「お前の隣にいた」

男が何度か瞬いて、こちらを見たのを気配で察した。短くなった煙草を靴底で揉み消し、携帯灰皿に滑り込ませる。男はまだ立ち去ろうとしない。煙草はもう吸い尽くした。それならば、用は済んだのではないか。
 男が足元に捨てた吸殻を、どうしようかと考えた。拾ってやる義理もないが、ここは犬神が教員として努めている学校という施設で、その銘柄が愛喫しているものだと周囲には知られている。
 覚めたまま夢を見るような目付きで、男が低い声で囁いた。

「弦麻は死んだよな」
「そうだな」
「あいつは?」
「知らん」
「嫁さん貰ったとか、聞いてねぇのか?」
「聞いてない」
「あのあと、どこに住んでたとか」
「知らん」

それは本当だった。知ろうとも思わなかった。
 男の声に引かれて、記憶がおぼろげに浮かび上がる。沈める術を探しながら、犬神はぼんやりとそれを見詰めた。そうしてから、恐ろしい事実にようやく気づいた。思い出せない。あの男の顔も、声も、佇まいも。見詰めようと目を凝らしても、見えるのはあの男ではない。鮮烈な氣をまとい、拗ねたように目付きを尖らせる、今はただの生徒でしかない、一人の少年だった。
 動揺を押し隠して眼前の男に視線を流す。泣きそうな顔で、男は犬神を見ていた。

「なあ、憶えてるか?」

すがるような声だった。恐ろしいのだろう。書き換えられてゆく記憶が、薄れてゆく彼の姿が、忘れてゆく自分自身が。
 よく似ているとは、出会った瞬間に思った。顔などろくに憶えていないが、あの男のようだと。つるんでいる連中の顔ぶれも、まるで悪い夢のように記憶をざわめかせた。
 あの男を思い出そうとすると、気難しそうな問題児の顔が浮かぶ。目も当てられないような誤答が記された答案用紙まで思い出してしまった。時々やけに模範的な解答も見られるのだが、どうせカンニングに違いない。現行を押さえられないので指摘する事もできないのが厄介だ。
 あの男を、どうして忘れられよう。ほんの数分前に胸中で呟いた言葉が、風に攫われるように流れ去った。

「えー、おい、なんだったか、名前」
「緋勇」
「じゃなくて、お前だ」
「俺の名前、知らなかったのか?」
「聞いたような気もするが忘れた」
「俺のこたぁいいよ」
「そうか」
「なんだよ」
「拾え」
「ん?」
「ゴミを捨てるな。ここは学校だ」

男は少しだけ笑い、足元に落ちた吸殻を拾って犬神に差し出した。受け取って、携帯灰皿に落とす。なんだか罪の証拠隠滅をしているような気分になった。だとしたら、彼は共犯者か。
 犬神のその仕草をじっと睨んでいた男が、堪えきれなくなったように顔を歪めた。ずっと我慢していたのだろう。激痛に苛まれるような顔で、自分の胸元を握り締める。その痛みは、あの男が消えていないという証拠だ。
 犬神はやっと腑に落ちた。胸を刺す痛みの、どこか甘やかなる所以。

 この痛みは、彼が確かに存在したという証だ。