世界が目を覚ますより早く、葉佩は目を覚ました。まだ眠っていても許される時間なのだが、無邪気に歌う鳥たちに誘われてなんとなく外に出てみようと思い、上着を掴んで窓を乗り越えた。
 木々の枝葉に小さな水滴が付着してるのを見ながら、特に明確な理由はなかったが皆守の部屋にも行ってみた。窓は施錠されていたが、葉佩にとってそれはあまり重要な事ではない。

 皆守は、早朝の侵入者に気付いているのかいないのか、眉間に皺を寄せて目を閉じたままピクリとも動かない。息をしているかどうか確かめたくなって、寝顔を覗き込んでみた。いつの間にか朝露に濡れていた前髪から、雫が落ちる。
 一見していかにも清らかそうに見えるが実は大気中の雑菌や埃を含んでいるその雫が、白い頬にぶつかって、唇に流れる。葉佩は無心にそれを眺めていたので、皆守が薄く目を開けた事に気付かなかった。

 ばちっと音を立てて額をはじかれた葉佩が、痛みよりも驚きで咄嗟に身を引く。ゆっくりと上体を起こした皆守が、寝起きのかすれた声で「そこの携帯」とささやいた。

「ん?」
「携帯」
「携帯は、持ち歩くっていう意味だよ」
「知ってる」
「あ、なんだ知ってたんだ」
「通報しといてくれ」
「なんて?」
「深夜に暗視ゴーグルつけた奴が部屋に侵入してハアハアしてた」
「そんなに息切らしてないよ」
「いいからお前はとっとと法的処置を受けてこい」
「今は深夜じゃないし」
「どうでもいい」
「あと、携帯がどこにあるのか分かんない」
「あー、たしか、そこら辺」

 目も上げずに「そこら辺」を指差し、皆守は再びベッドに沈んだ。眠ったようだ。またしてもそれを覗き込み、またしても雫を落とす。今度はわざと落としてみた。皮膚が水をはじく様子をじっと観察し、もう一滴。
 皆守が、音もなく目を開けて葉佩を見た。

「どうしたお前」
「いや、なんか、水はじくなぁって」
「で?」
「皆守、水はじくね」
「ああ、はじくな」
「俺はもう無理かも」
「そうかもな」
「むしろ染み込む」
「もう年だしな」
「でもふやけたら、ちょっと面白いよね」
「どうしたお前」

 夢見るような目で語る葉佩に、皆守が少しだけ興味を示した。あるいは、本気で心配になったのかも知れない。
 人は、理解できないものに恐怖を覚えるようにできている。つまり、人は世界の大部分に恐怖しながら生きているのだ。しかし《宝探し屋》である葉佩は、恐怖に打ち勝つ方法を知っている。解明すれば、または解明しようと試みてそれを見れば怖くない。葉佩はそう信じている。

 それはさておき、葉佩は自分が素晴らしい物を携帯していると思い出して、それを皆守に告げた。

「俺、防水スプレー持ってる」
「そうか」
「布の靴でも、スプレーしたらだいぶよくなる」
「そうだな」
「だよね!」

 頷き、皆守が目を閉じる。いろいろな事を諦めたような、安らかな表情だった。毛布を頭まで引き上げて、全身をくるむ。柔らかい壁で拒絶されているような気持ちになったが、重要な事には同意をもらえたので葉佩は満足した。

 愛用しているメーカーの防水スプレーをポケットから取り出し、さて何にスプレーしようかと考える。人に向けてスプレーしないでください、と記されているのを知っていたので、それに従い、皆守にスプレーするのは思いとどまった。
 今はとにかく、水がはじかれる事が重要である。どうしてそれが重要なのかは、葉佩自身にも分からない。心の奥深く、何か根源的な欲求が叫ぶのだ。水がはじかれるところが見たいと。

「鳥はすごいよね」
「すごいな」
「特に水鳥はすごい」
「そうだな」
「思い出してもみなよ!」
「分かった思い出してみる」
「カモなんてすごいはじく!」
「うん」

 また同意が得られた(寝言かも知れない)。嬉しくなって、葉佩はどうにもこうにもスプレーしたくてたまらなくなった。コートもいいが、やはり鞄だ。そう思ったのは、たぶんコートよりも鞄が近い場所にあったからだろう。つまり特に意味はない。

 皆守が愛用している、ごく有り触れた革の鞄を手に取る。中身を床に並べてみると、予想以上に何も入っていなかった。
 消しゴムとシャープペンシルとボールペンがじかに入っていたのにも少々疑問が残る。このようなこまごまとした物は、ケースに入れて持ち歩くのが賢いやり方だと、葉佩は考えるまでもなく知っている。皆守は知らないのだろうか。
 続けて、板状のガム、角のよれたノート数冊、安物のライター、どんぐり、5円玉、ツバキの葉(まだみずみずしい)、そして少量の砂。
 財布や鍵などは、ポケットに入れて持ち歩くのが彼の選択した手段なのだろう。とすると、携帯電話もどこかのポケットに入っている可能性が高い。しかし、それは今は重要な事ではない。重要なのは、水をはじく事だ。

 鞄の中身をすべて床に並べ、葉佩は使用上の注意に従って、窓を開け放った。皆守が身じろいで何事か小さく呟いたが、葉佩には聞こえなかったので、その発言は存在しないのと同等の意味しか持たなかった。

 やがて葉佩は目的を果たし、やりきった男の顔で汗はかいていなかったが額をぬぐった、と見せかけて、額に押し上げていた暗視ゴーグルをぬぐった。そうしてから、皆守を呼ぶ。

「皆守、起きろ!」
「なんで」
「鞄にスプレーしといたよ!」
「なんで」
「鞄の外側と内側!」
「ほんとになんでだ」
「俺は、水をはじく油になるよ」
「そうか頑張れ」
「俺、皆守の油になるよ」
「そうか」
「そしていつか、皆守の心の防水ジャンパーを脱がしてみせるよ」
「分からない」
「そんでそれを俺が着て」
「お前が着るのか」
「俺がお前を守るよ!」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして!」
「ほんとどうした」

 はじかれる水よりも、はじく油になりたい。彼が濡れないようにと存在する、皮脂になりたい。そう強く、唐突に思った葉佩は、思ったとおりに口にしてみた。
 そして葉佩は思い出す。自分は、濡れるのが嫌いではなかった事を。冷たいのは嫌だけど、土砂降りの雨やぬかるみは好きだ。訳も分からず楽しくなってくる。ぬるま湯に浸かりすぎてふやけた指先も、なんだか面白い。不思議な事は、面白い。
 もしかしたら、自分も知らずに水をはじいていたのかも知れない。そう思い、葉佩は急に誇らしく感じた。いろいろなものをはじき続けた自分は、それと同じくらいいろいろなものを吸い込んでいる。それが自分を形作っているのだ。

 葉佩が決然と顔を上げると、皆守がなんだか気味悪そうにしていた。怪訝そうな顔で、皆守が少しだけ体を引く。だがその引いた距離は、葉佩に断絶を感じさせるほどの距離ではなかった。
 外側と内側にしっかりと防水スプレーを施した鞄を手に、葉佩が立ち上がる。

「これいけるわ!」
「どこに」
「水くめるわ!」
「お前は鞄の存在理由を誤解してる」
「くんでくるわ!」
「俺は明日から何を持って登校すればいいんだ」
「そしたら葉っぱ浮かべようね!」
「ところで鞄の中身はどうした」
「あそこに並べといた」
「おいなんだその葉っぱ」
「皆守の鞄の中から出てきた」
「マジでか」
「葉っぱは水をはじくんだよ!」
「なんだその大発見したみたいな言い方」
「心配しないで、すぐ戻るよ」
「心配しかできない」

 葉佩が走り去った部屋に一人残された皆守は、この世の無常を思いながら窓を閉めた。
 なんだったんだ、という疑問はいつもどおり解明されないまま、皆守はすべての不安と嫌な予感を振り切って目を閉じた。