数か月前にも、緋勇は同じ場所に立っていた。薄く淡い花弁が風に舞うのを、どこか遠くを見るように見ていたのを憶えている。隣で彼は笑っていたように思うのだが、本当はどうだったか、記憶はあやふやで判然としない。
 あの狂気のような花弁は、今はない。白々とした雪片が降り積もる枯れ枝は、それ自体が光を放っているのではないかと思えるほどに目を奪い、くらむ。

 もしかしたらあれは、美しかったのでは、と、不意に緋勇は思った。あの狂ったような花は、血を吸って薄く色づくのではなく、真紅をどこまでも白に希釈していって、やがて清らかになったのではないか。

 鼻先が冷たくなっている事に気付き、しかしここから立ち去るなどとは考えもせず、感覚が鈍くなってきた指先をポケットの中でこすり合わせた。
 彼は、中国に行ったらしい。友人から聞いたその情報も、緋勇にはなんの感情ももたらさなかった。何も言わずに去って行った彼にも、何ひとつ。彼の行方を教えてくれた友人のように、薄情だと詰る事さえ思い至らなかった。

 人気のない公園で、緋勇はぼんやりと佇んでいた。何を思うでもなく、何を待つでもなく、ただ無心に、空洞とそこに降り積もる雪を眺めていた。
 だから声がかかった時にも、緋勇はゆっくりと視線を動かしただけだった。声をかけた道心が、そんな緋勇の心など存在しないように笑いかける。

「冷えるな」
「そうだな」
「弦月が心配してたぜ」
「?」
「分からねぇか?」
「分からん」
「そうかよ」

 笑みと憐れみと憎しみと、その他の表現しがたい様々な感情をふたつの目に湛えて、道心は白い息を吐いた。緋勇はそのいずれも理解しないまま、冷えた体をそこに置いていた。
 すぐに立ち去るかと思ったが、道心は予想に反して動こうとしない。訝しむ事もせず、緋勇は無表情にその横顔を見つめた。

「なぜ」
「何がだ?」
「劉は、何を心配しているんだ?」
「お前さんが、寒くないかと」
「・・・ああ、寒いな」
「アパートはもう引き払ったのか?」

 もう必要ない。ここにいる理由はなくなった。ここ以外のどこにいる理由も、なくなった。わざわざ言葉にする必要はないと判断して、緋勇は黙ったまま頷いた。
 本当には知らない父親のように、自分も死んでいれば、と、ふと思った。

 道心はまだそこにいる。緋勇から少し離れた位置で、無造作に煙草を吹かしている。その皮膚に雪が触れていない事に気付き、緋勇がようやく顔を上げた。

「炎氣か」
「おう、そうだ」
「そんな使い方もあるのか」
「知らなかったのか?」
「ああ、知らなかった」
「煙草の火も点けられるぜ」
「それはいらない」
「熱燗もできる」
「そうか」

 緋勇にも分かるほど明確に憐憫を浮かべて、道心は微笑んだ。左手に煙草を持ったまま、ゆっくりと緋勇に歩み寄り、なんでもない事のように右手を上げた。それは確かに、道心にとってはなんでもない事で、有り触れた行為だった。

 道心の枯れた手が、特別に優しくもなく、粗雑な動作で緋勇の髪に触れた。痛みと呼ぶにはあまりにも些細な衝撃が、髪の雪を払い、肩の雪を払い、ついでのように頬を打った。痛くはない。痛みよりもはるかに鮮烈な手の平だった。
 道心が緋勇を呼ぶ。呼ばれずとも、緋勇は道心を見ていた。

「なあ、緋勇」
「・・・」
「弦月が心配してるぞ」
「・・・」
「あと、あの嬢ちゃんたち」
「・・・」
「あの子らも、心配してたぞ」
「美里と桜井か?」
「でっかい兄ちゃんも」
「醍醐か」
「木刀持ってた奴なんか、泣きそうだったぞ」
「?」
「なあ緋勇、お前さんは」
「ちょっと待て、最後の奴は誰だ」
「ああそうだ、炎氣の使い方も教えてやるよ」
「いや、木刀持ってた奴って誰だ」
「まあ、なんだ、とにかくお前は」
「おい待て、流すな」

 歩き出した道心を追って、緋勇も歩き出す。薄く積もった雪に跡をつけて、境界の曖昧になった道を踏む。

 冷たくこごった公園にも、やがて春が来て狂乱の花が舞うだろう。
 緋勇はもう、花が美しいのだと知っている。春には忘れているかも知れないが。