カーテンの隙間から見えた景色は、いつもと違う色をしていた。眠る前には雨だったが、どうやら雪に変わっていたようだ。体を丸めて、毛布にくるまる。鼻先が冷たくなっていた。
 まどろみの端で、葉佩は時間よ止まれと願った。もしかしたら世界一有名かも知れない悪魔の名前が脳裡をよぎったが、それが情報として形を成すより早く、浅い眠りに沈む。

 腰の辺りに絡み付いている腕が、彼の物だと疑う理由もない。少し冷たい手に、そっと触れてみた。背中で、小さく息を吐く音が聞こえた。ゆるやかに、おだやかに、背後から拘束されている。膝も複雑に絡め取られていて、立ち上がるのも難しそうだ。
 これが死だと、漠然と思う。

 なるべく明かりが漏れないように留意しつつ、時計を確認する。午前4時14分2秒。夜明けはまだ遠いと、以前なら思っただろう。今では、残された時間の少なさに絶望すら覚える。あと数時間で、この疑似死を終えなければいけない。
 柔らかい髪に首筋をくすぐられて、堪らず身じろぐ。彼はただ純粋に、寒いだけだ。密着していないと冷気が入り込むので、隙間を埋めているだけだ。それだけだ。それ以外に何があるというのだ。言ってみろこんちくしょう。あ、やっぱ言わなくていいです。
 内なる自分と静かに喧嘩していたら、不意に彼が何事かささやいた。

「動くな寒い」
「お、俺は動いてないよ?」
「喋るな」
「理不尽!」
「うるさい」
「あのさ、皆守」
「何時だ?」
「え、ええと、4時、17分32秒」
「秒とか聞いてねぇよ気持ち悪い奴だな」
「え、えええ?」
「うるせぇ転がすぞ」
「あのね、皆守くん、素朴な疑問なんだけどね」
「喋ったら脱がして転がす」
「死んじゃう!」
「お前は死なない」
「信じてくれてありがとう」
「気にするな」
「気になるんだよ!」

 髪ではない何かが首筋に触れている。冷えた皮膚に触れると灼熱のようにも感じる何かが、彼の声と同時に発せられて葉佩の首筋を刺激する。
 ぞわぞわと這い上がる感触に、しかしわずかでも身じろげば彼の怒りを買う。どうしようもない、完全なる敗北だ。背後から拘束されて、急所をさらけ出しているのが現状だ。

「あのですね、皆守さん」
「黙れ」
「なんで、あの、俺はこんな」
「黙れっつってんだろ」
「なんでこんな体勢なんですか?」
「知るか」
「え、お前も知らないの?」
「知らん、気が付いたらこうなってた」
「あ、分かった、たぶん空間が捻じ曲がったんだ」
「そうだな」
「なんだそっかー」

 疑問は解決した。次は、現状を脱する方法だ。
 このままでは、本当に死んでしまうだろう。ぬくまったベッドで安穏と迎える死は、とんでもなく抗いがたい。そして、抗ったところで、待っているのは雪の降り積もった現実だ。このまま悪魔に魂を渡してもいいような気がしてくる。しかし葉佩は抗う。たとえそれが無意味でも、あるいは誰かを傷付けたとしても、抗う事こそが葉佩にとって自身の証明なのだ。

「という訳で、皆守」
「動くな」
「俺は生きる」
「無駄だ」
「え、なんで?」
「お前はこのまま死ぬんだ」
「えーやだぁ!」
「望んだだろう?」
「あ、まあ、一瞬だけ、ちょっとね」
「一瞬でも、駄目なんだ」
「厳しい!」
「葉佩」

 耳元で、熱い吐息が名を呼んだ。
 それは自分の名前ではないと言い聞かせても、彼が発するのならそれが自分の名前になるのだ。呼ばれる喜びを知ってしまった葉佩は、もう無名ではいられない。名付けられ、呼ばれ、応えてしまった。それは自由をひとつ失ったという事だ。無形から有形へと、葉佩は変質してしまったのだ。形が決まれば、あとはもう枠に嵌まるだけ。でも自分と同じ形の枠など存在しないから、少しずつ自分を削り取って、無理矢理にでも嵌めるしかない。名を呼ばれるというのは、そういう事だ。

「なあ、葉佩」
「俺は負けない」
「もう負けてるぞ」
「まっ負けてねぇよ!」
「もうすぐ夜が明ける」
「あ、うん、そうだね」
「明けなければいいと、思っただろ?」
「ええと、まあ、ちょっとね」
「はいお前の負け」
「いや、待て、それは」

 背後から回された腕が、ゆるりと首に絡み付いた。あたたかい。しかもなんだか甘い匂いがする。
 またしても首筋に触れた物は、柔らかかった。しかも全身の血が沸騰するかと思うほど熱くて、あやうく悲鳴じみた声が出そうになった。涙まで滲んできた。

「あ、あのね、皆守」
「腹減ったな」
「非常に言いにくい事なんだけどね」
「除雪車作業中」
「あ、うん、それも言いにくいけどね」
「まあ、朝だからな」
「お、おう、話が早くて(?)助かる」
「お前も男なんだな」
「一応ねってゆーかお前もね」

 具体的に口にせず通じた事がせめても救いだった。いたたまれない気分がもう最高潮なのだが、まだ外は暗い。雪もやまない。
 雪の落ちる音がして、密着した体がわずかにびくりと震えた。驚いただけだろうと分かっているのだが、ともすれば心音すら感じられる距離でのその反応は、どうにも耐えがたい。もう泣きたい。

「泣いていい?」
「え、いや、この体勢で泣かれるのは、きついな」
「だろうね」
「いいから寝ろ」
「でも、もうあと1時間ぐらいしかない」
「早起きにもほどがあるだろ!」
「え、いや、普通だよね?」
「頭おかしいな、お前」
「真顔やめて!」
「顔は見えないだろ」
「いや、意外と見えるよ」

 と言いつつ振り向いたのは、どう考えても失策だった。鼻先が触れ合いそうなほどに接近した彼の顔など、今は見たくなかった。しかも真顔、あるいは眠たげな無表情だ。喜び以外にも、表現しがたい感情の昂ぶりが腹の底から湧き上がってくる。

「お前が死ねばいいんだ!」
「ああ、そうかもな」
「え、いや、あの、あ、ごめん」
「お前に殺されるなら」
「ほんっとごめん、反省してるからその顔やめて」
「お前、なんでそんなに打たれ弱いんだ」
「打ってる自覚あったんだね」
「いつも撃たれてるからな」
「そんないつも撃ってないよ!」
「まあ、避けられるからいいんだが」
「前から思ってたんだけど、皆守って何者?」
「え?」
「え?」
「あ、ああ、いや、別に、ただの、ごく普通の、高校生だが?」
「ふうん、まあいいけどさぁ」
「疑うのか?」
「疑うなっていう方が無理じゃね?」
「俺はお前を信じてるのに」
「自分が都合のいいように思い込むのを信じるとは言わないよ」
「そうだな」

 他愛ない会話の結論よりもなによりも、耳元で息をしないで欲しいと伝えるべきか否か、という問題に夢中になっていた葉佩は、それ以上は何も言わずに、彼の硬い腕に身を預けた。耳元で息をしないで欲しいと伝えたら、彼は離れてしまうかも知れない。だから葉佩は黙って目を閉じた。

 認めよう。ここはあまりにも心地好い。雪がいつまでも降り続ければいい。夜明けなど来なければいい。彼が真実など知らなければいい。あるいは、彼の真実など知らなくていい。冬が終わらなければいい。今この瞬間に、永遠にとどまっていたい。

 そして葉佩は魂を手放した。
 救いは、そもそも期待していない。