お前がほほえむ。「きっと大丈夫」と言って、訳もなく、あるいはあったとしても俺には知りようもなく、ただ雪のように無意味にほほえむ。俺はうなずく事もできずに、ただその声を聞く。降り積もるような声だった。心がふるえる。

 知らなかったのは本当だ。知ろうともしなかった。誕生日など、お前がそれに価値を置いているなどと。年が明けて少し経った頃だった。そういえば、と切り出したお前の声は、わずかにふるえていた。寒さにか、俺の知らない感情にか、心地よく、いたいけに。

 たんじょうびなんだ。

 そうか、とだけ、返した。他に言葉を思いつけなかった。
 自分が産まれた瞬間など、ましてやその日時など、誰も知り得ないだろう。誇らしげに(と思ったのは、俺の幼稚な嫉妬だったのだろう)自分の産まれた日を口にして、お前は無邪気に笑う。それが祝福とともに産まれた証明だと、できれば気付かずにいて欲しい。自分の出生に関わった人間が、例外なく死んでいる環境なんか、想像もつかないのだろう。それでいい。お前は、そのままで。

 おめでとう。

 ようやく思い至って取ってつけた言葉にさえ、お前はほほえむ。おう、さんきゅ。心などどこにもない言葉に、嬉しそうにほほえんで礼を言う。まるで本当の祝福を得たかのように、それをもう持っている自分にも気付かず、初めて得たかのように、それはそれは嬉しそうに、赤くなった頬を緩ませる。
 どうか届いてくれるなと、お前には知られたくないと、思いつつ、その声に聞き入る。幸福なお前に嫉妬したなどと、望まれて産まれたお前が羨ましいなどと、本当は愛されたかったなどと、そんな気持ちは隠したまま、ふるえる空気を全身で受ける。

 おまえの、と聞こえた音は、言葉になる前にかき消された。大きな波に打ち消されて、届かなかった小さな波は、誰にも届かず消え失せた。そのふるえは、どんな色をしていたのだろう。
 耳を澄ます。小さなふるえが、この心をさざめかせるのを待つ。その声帯が振動すると、そのふるえが空気を伝わって、この心臓をもふるわせるのだ。何も不思議な事はない。波は伝播する。そのように、世界はできているのだから。

 お前の誕生日も、教えろよ。

 なんでもない風に、目を逸らしたままお前は空気をふるわせる。盛大に祝ってやるよ。横目で俺を見て、少しだけ顎を反らす。さり気なく聞こえるようにと懸命に、俺ですら分かるほど不安げなふるえだった。

 教えてやりたい。無邪気なお前が望むまま、すべて与えてやりたいのに。
 曖昧にうなずいた俺に、お前は何も言わずうつむいた。大気をふるわせて、お前の心に届くような言葉を、俺は持っていない。
 別に、いいけどよ。諦めて、目を逸らして呟く。どうかふるわせてくれと、願うばかりで声にできず、お前と俺の間に存在する大気が霞んだように錯覚する。

 なあ知ってるか?
 俺の気持ちなど知らず、あるいは知っていてそれを蹴散らすのか、お前がいつものように振り向いて笑う。きっと知っているのだろうと、根拠はないがそう思う。
 梅っていい匂いなんだぜ。公園の道端で白い梅が咲いているのを、ついと指さした。知らねぇだろ。からかうような声が、霞んだ大気を澄ます。そうか彼は霞みに気付いていたのか。それを払おうと、大気をふるわせてくれたのか。いつだって、お前はそうやって俺の目を晴らしてくれる。

 ちょっと待ってろと言い残して、お前が走り出す。言われたとおり、俺はじっと待つ。お前が待てと言ったのだから、俺はたぶんいつまでも待つだろう。たとえそれが永遠に近しい時間でも。
 今は澄んだ大気の向こうの、遠ざかる背中を見つめる。霞むほど遠ざかったら、追いかけよう。待つのはやめた、追いかけよう。よし、やはり、今すぐ追いかけよう。
 気が変わったので、お前の背中に向かって俺も走り出す。それとほぼ同時だった。お前が左肩を下げて、右足を振り上げた。スニーカーが、先ほど指し示された梅の木の幹を踏む。気ままに育った奔放な枝が、揺れて音を立てた。

 空を背負うお前を見ても、眼前で何が起きているのかよく分からなかった。幹を蹴って梅の木を駆け上がって、お前とその愛刀が風のように花をさらう。そのまま空へと飛んでいったとしても、俺は驚かなかっただろう。ただ、そうなったら空を落としてでもお前を取り戻そうとするだろうが。
 地に落ちてくる数秒前に、お前はそんな俺を見て少しだけ笑った。

 俺にとっては「ちょっと」の時間も過ぎず、お前はすぐに戻ってきた。右手の得物もそのままに、左手を差し出す。ほら、と言って顔に近づけられたのは、まだみずみずしい白い花弁。

 公園とは、公共施設だ。そこにあるすべての物が公共物だ。植物も例外ではない。公費によって設置されているのだ。すべて言い終わるより早く、白梅の花が鼻先に突きつけられた。
 淡く甘く清らかな香りが、ふうと鼻腔をかすめて消える。な、いい匂いだろ。指先に花の香りを乗せて、お前が笑う。大気がふるえる。

 いつだか分かんねぇから、今やるよ。

 察しの悪い俺が眉根を寄せると、お前は断りもなく俺の胸ポケットに白梅の花弁を入れた。というより、ねじ込んだ。憐れ押し潰された白梅は、俺の心臓の近くで甘く染み込むような香りを発する。
 何がなんだか分からなかったので、されるがままに突っ立っていたら、いつものようにお前はそんな俺を笑った。何がそんなに嬉しいのか俺にはよく分からないが、それはそれは嬉しそうに「しょうがねぇな」と呟いた。

 その仕草がいと惜しくて、俺は黙ったままその指に触れる。手の平で、指の腹で、できるだけ優しくその髪を撫でる。失われぬよう、傷つかぬよう、損なわれぬよう、願いながら。

 優しいお前は、きっと悲しむ。
 自分が産まれた日の事を、俺は何も知らないのだ。