朝、起きたら雪が積もっていた。まだ降り続いているようだが問題ない。今日は休日だ。ベッドで毛布にくるまりながら、皆守は再び目を閉じた。
二度目の目覚めは、やはり緩慢だった。冷たくなった足先をこすり合わせながら、窓の外を眺める。降りしきる雪の中を、カラスがゆるりと通過していった。あいつみたいだと、夢に浸ったまま思う。
三度目の目覚めで、仕方なく身を起こした。腹が減ったのだ。先程からどこからともなく、やけにいい香りがするのも空腹を刺激する。寒くて空腹というのは最悪だ。眠りすらままならない。
「あ、やっと起きた」
「・・・」
「何度寝する気だよお前」
「・・・」
「カレー作ったけど、食べる?」
「・・・」
「先にコーヒー飲む?」
ああまだ起きていなかったのかと、皆守はベッドに突っ伏して目を閉じた。四度目に目覚めた時には、この夢からも覚めるだろう。
しかし、皆守に四度目の目覚めは訪れなかった。永眠したのではない。眠りが許されなかったのだ。毛布を引っ張られて床に転がされたのだ。なんという仕打ちだ。生きているのが嫌になる。よし、今日はずっと死んだふりをして過ごそう。心に決めて、目を閉じる。
「起きろよぉ!」
「起きない」
「カレーできたよ!」
「カレーは、しばらく煮込んで寝かせるんだ」
「寝かせる?」
「一晩ぐらい」
「明日になっちゃうじゃねぇか!」
「明日でいいだろ」
「駄目だよ!」
耳元で喚き立てる声に耐えかねて、不本意ながら目蓋を上げる。なんという理不尽だ。休日の朝寝すら奪おうとする眼前の男に殺意すら覚え、しかしそれを表現する(ましてや彼に理解を促す)気力などあろうはずもなく、仕方なく皆守はいつもどおりに世界を憎む。生きながらえた我が身を嘆く。
皆守の目が半分ほど開いた事を確認して、葉佩が嬉しそうにキッチンへと戻った。しばらくすると、コーヒーを挽く音が聞こえてくる。
「お前は、あの、なんだ」
「葉佩九龍です」
「俺の嫁か」
「な、なんだよいきなりーもーバカだなー皆守は!」
「いや、誰よりもお前がバカだと思うんだが」
「嫁はお前だろー!」
「そうだったのか」
衝撃の告白に戦慄するはずもなく、皆守は体に巻きついた毛布を肩まで引き上げた。
コロコロと軽やかな音を立てて、キッチンではコーヒーが抽出されている。暖房の効いた部屋は寒くもなく、サイフォンから漏れ出た香りが満ちてきた。窓の外では雪が降り、街を見慣れない色に塗りつぶしている。
つまりこの部屋は、幸福とよく似ていた。
「皆守、砂糖は?」
「サッカロース、C12H22O11」
「なにいってんの?」
「お前が訊いたんだろ」
「コーヒーに、砂糖は、入れますか?」
「入れない」
「はい」
なんだか変な顔をしつつ葉佩が手渡してきたマグカップには、コーヒーと表現して差し支えない液体が入っていた。葉佩が淹れたコーヒーは何度か飲んだが、いつも腑に落ちないほど美味しいのが不思議でならない。彼の手から生み出されるものが、どうしてこんなにも美味しいのか。つくづく不思議だ。
「不思議だ」
「世界は不思議な事ばっかりだよ」
「お前、なんでいるんだ?」
「帰ってきたから」
「なんでキッチン勝手に使ってんだ?」
「カレー作ってあげようと思って」
「積もってきたな」
「雪?」
「雪」
ふたりが同時に窓を見た。音もなく世界が変質しているように錯覚する。
誰も気付かないうちに少しずつ、長年の観測など無意味なほどに世界が変化しているとしたら、今までに蓄積してきたあらゆる知識が無駄になってしまう。たとえば常識とか、そういうものが。
皆守は隣を見た。葉佩がいる。我が物顔で座り込み、コーヒーを飲んでいる。あの頃も、気付いたら部屋にいて、どう考えても理に適わない不思議な調合をしては誇らしげに見せびらかしていた。
不意に葉佩が笑った。
「雲になりたい」
「あ?」
「って言ってたよね」
「葉佩、鈍器あるか?」
「あるよ」
「ちょっと貸してくれ」
「いいよ」
「おお、助かった、ありがとう」
ポケットから出てきたメイスを受け取り、葉佩に向かって振り下ろした。しかし葉佩も予想していたのか、それを大剣で受けた。がつんと鈍い音を立てて、重たい金属がぶつかり合う。ふたりがしばし睨み合う。
皆守が先に声を発した。
「なあ、葉佩」
「うん、なに?」
「俺は、お前が記憶を失えばいいと思うんだ」
「そっかー、うん、まあ、しょうがないとは思うけど」
「お前を殺して俺は寝る!」
あの學園は永遠に在り続けるのだと思っていたのだから、その中で死ぬのだと思っていたのだから、あらゆる言動は消え失せると思っていた。言葉も声も心も体も、すべては消え失せて、二度と顧みられぬものだと思っていた。未来のどこかで誰かがそんな自分を思い出すなどと、夢にも思わなかった。
どうしてこんな事になってしまったのか。こんな気持ちになるくらいなら、あの夜に死んでいればよかった。何も為さず、何も成さず、心すら残さず、誰の記憶にも残らず、跡形もなく消えてしまえばよかったのに。
「全部お前が悪い!」
「え、ええと、ちょっと落ち着こうか」
「という訳で」
「いきなり冷静になるのやめて怖い!」
「お前は死ぬべきだと思うんだが、どうだ?」
「あ、違った冷静じゃなかった!」
「安心しろ、お前の事は跡形もなく忘れてやるから」
「あ、あのね、俺が言いたかったのはね」
接した金属が、ぎりぎりと音を立てる。
どちらかが死ぬのだと思っていた。あの夜も、今も、本当は。これは幸福ではないのだと。
「ほら、雪、降ってるだろ?」
「降ってるな」
「あれって雲から落ちてきてるんだよ!」
「なんだその大発見みたいな口調」
「だからね、ほら、あの、あれ、あ、ごめんなんでもない」
急に葉佩が脱力して、勢い余ったメイスが防弾ジャケットに落ちた。ごふっと嫌な音が葉佩の喉から漏れる。それでも衝撃のほとんどは高性能なジャケットに吸収されたのだろう。やはり頭を狙わなければいけないらしい。
だが、重たい武器を持ち上げて、支えて、向かう先をコントロールする技術は、皆守にはない。武器の選択を誤ったと判断し、まだ腹を押さえて息を止めている葉佩にメイスを投げ返す。少し涙ぐんでいたが、葉佩は危なげなくそれを受け取った。深く長い溜息を吐き出してから、葉佩が顔を上げる。つまり、顔を上げずに放り投げられた鈍器を空中で受け止めた。
手にしたメイスを慣れた仕草でくるりと回し、葉佩が眉を下げた。お前、武器は持たない方がいいよ。へたくそすぎる。そう言って、凶悪そうな鈍器をポケットに仕舞う。その手が硬くて分厚いのだと、皆守は知っている。スプーンとカレー鍋の取っ手を持つだけでは、そんな手にはならないという事も。
ひとしきりの激昂が去って、面倒臭くなった皆守が腰を下ろす。あの頃の自分もまた自分だ。そんな境地に辿り着いた。ずっとその境地にはいられないのだが、それは今は考えない。
「で?」
「でって?」
「雲がなんだって?」
「立ち直り早いなお前!」
「ちなみに、俺は雲になりたいとは言ってない」
「え、いや、言ってたよ」
「雲はいいなって言っただけだ」
「そんな微妙な違い分かんないよ!」
「ふん、所詮は《宝探し屋》か」
「お前のその、なんてゆーか、詩的な言い回しが、俺はとても、なんか、あの、あれだったよ」
「そうか、あれか」
「なんつーかこう、内臓がでんぐり返るみたいな」
「死なないかそれ」
「でも、雲はいいなって最近ちょっと思った」
さっぱり分からなかったのでそのように告げると、葉佩は困ったように笑って黙り込んだ。伝える気はないらしい。
外はまだ雪が降っている。葉佩はまだ笑っている。
葉佩が作ったカレーは、やはり腑に落ちないほど美味しかった。つくづく不思議だ。
食べ終えて、うまかったと正直に告げると、葉佩は当然だろと言いつつ嬉しそうに微笑んだ。そうしてから、「じゃあね」と言って立ち上がる。もう行かないと。名残を惜しむ様子もなく、玄関でブーツを履いてドアを開ける。皆守は、あたたかい部屋の中からそれを見送る。
ドアの向こうの雪も寒風も、葉佩がためらう理由にはならない。それなのに、葉佩は振り向いて、少しだけためらってから、肩越しに皆守を見た。
「俺は、ほら、だいたい地面にいるから」
「そうか、俺もだ」
「雲から、落ちると、あの、いいよねって、思ったんだよ」
「ちゃんと喋れ」
「雪だと積もるから、もっといいよね」
「分からん」
「まあ、お前は雲じゃないけどさ」
いつか必ず落ちてきて、冬は積もって景色を変える。
いつも地上を見下ろして、会いたくなったら降り注ぐ。
雲でもいいよねと、小さな声で葉佩がささやく。
意味はよく分からなかったが、雲になりたいと皆守は性懲りもなくまた思っていた。
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